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祓い屋(物理)の日常  作者: とど
三章
44/63

episode 18 呼び戻された魂(2)


「ここが礼拝堂です」


 三人が連れて来られたのは、キリスト教の礼拝堂にも似た場所だった。中央に広くスペースを作り、その左右にいくつもの長椅子が設置されている。

 先ほどと同様にこの場所も人が多いが、しかし静かに祈りを捧げている人が多く、人数の割に囁くような話し声しか聞こえてこない。


「本部に来たらまずこの礼拝堂で神様に祈りを捧げます。好きなだけ時間を掛けて祈っていいですからね」

「はい……」


 それじゃあ、とささら達を案内していた女性は礼拝堂にいる他の信者の元へと去って行った。それを見送ると、ささら達はひとまず周りに人が居ない長椅子にひっそりと座ってぐるりと礼拝堂内を見回した。


「依頼人の娘さんは……」

「ぱっと見、見当たりませんね」


 鞄から取り出した写真を手に確認してみるがそれらしい人物は居ない。礼拝堂にいる信者は多いが、目的の人物が金髪のロングヘアーの為非常に目立って探しやすい。


「とりあえずある程度祈っている振りをした後はさっさと此処から出て入り口近くで張った方がいいかもしれないわね。今日はまだ来てるとも限らないし」

「そうですね……。美守さんはどうしますか? 私達と一緒に来ます?」

「とりあえず他の信者に聞き込みでも――」


「今度は宗教で金稼ぎか。なあ祓い屋さんよお」

「!?」


 突然背後から割り込んできた声を耳にして、ささらは弾かれるように振り返る。そこに居たのは、歪んだ笑みを浮かべる茶髪の中年男性――以前図書館で遭遇したジャーナリストの川名だった。

 直後すぐさま茶々がささらを守るように二人の間に割って入り、川名をきつく睨み付けた。


「またあなたですか……!」

「それはこっちの台詞だ。祓い屋に続いてこんな所でインチキ商売か?」

「ち、違います。私は……」

「まあ実は知ってるが」

「え?」

「さっき幹部の女に新しい信者だとか言われてたのを見たからな。鈴木さん、だったか? いつの間にか改名でもしたらしい」


 にやっと笑った川名に、ささらは無意識に後ずさりながらどうしたものかと頭を悩ませる。この男に偽名だと周囲にばらされれば怪しまれて調査など出来なくなってしまうだろう。

 以前と変わらず冷えた視線をささらに向ける川名と、そしてびくびくと怯えるささらを交互に見た浦原は、不信感を露わにして茶々と同じくささらの前に出た。


「大の大人が女の子を恐がらせて恥ずかしくないんですか。たぬちゃん、この失礼な男なんなの?」

「ささら様に因縁を付けてくるろくでもないジャーナリストです。確か、名前は川名とか言ってましたか」

「ジャーナリスト……川名……?」

「おっと、此処でその名前で呼ばれるのは困るな。これでもそこそこ名が売れてるんでね。あんた達にわざわざ話しかけたのもそのことだ。本物の信者達にジャーナリストだとばらされたら警戒されるから黙っててもらおうか」

「わたくし達にとってはこの上無い得になりますが?」

「俺もお前らが偽名を使って潜入してるのを分かってるって理解してるか?」


 つまり、お互いに何も口にするなということだ。向こうが黙っている保証は無いが、ささら達が彼のことを口外すれば確実にこちらのこともばらされるだろう。

 茶々が悔しそうに唇を噛んでいると、「用件はそれだけだ」と川名は一度ささらを睨み付けてさっさと礼拝堂を出て行ってしまった。


「……ごめん、茶々」

「ささら様が謝ることなんてありません。悪いのは自分のことを正義だと勘違いして思い上がっているあの男です!」


 きゃんきゃん吠えるように、しかし周囲に気を遣って小声で怒る茶々はまったく怒りが収まらない様子で肩を怒らせて川名が出て行った扉を睨んでいる。


「美守さん」

「……」

「あの、美守さんってば」

「! あ、ごめんね。何だった?」

「いえその、なんだかずっとぼーっとしてるみたいだったので。何かありましたか?」

「……ううん、なんでもないわ」


 怒っている茶々とは裏腹に、同じく扉を見つめながらもまったく感情の見えない表情を浮かべて動かなかった浦原にささらが声を掛ける。しかし彼女は静かに首を横に振るだけで、何を考えているのかささらにはちっとも読み取ることが出来なかった。


「川名……あの男が」


 その一瞬、どす黒い感情が浦原の体の中に噴き上がったのを理解したのは、やはり彼女自身だけだった。




   □ □ □ □ □ □ □




「あ、居た」


 三者三様それぞれに思うところを抱えながら礼拝堂を出ると、ささらはちょうど玄関ホールに入ってくる金髪の人影を見つけた。慌てて写真と見比べてみるとそれは間違いなく依頼人の娘本人で、ひとまず接触は出来そうだと少し安堵して彼女に近付いた。


「あの……」

「ん? 何、あんた達」

「七瀬さんですよね? 私達、実はあなたのお母さんから依頼を受けて……」

「はぁ?」

「こちらの宗教に入ってからちっとも家に帰らずに、お母様がご心配なさっていますよ。一度戻ってきちんとお話なさって下さい」

「そんなことをわざわざ他人に頼んだ訳? ばっかばかしい!」


 は、と鼻で笑い飛ばした依頼人の娘、七瀬は「そんなの私の自由でしょ」と苛立つように眉を顰めた。


「別に私が何を信じようとあのババアには関係ないわよ」

「……どうしてそんなに幸礼会に?」

「決まってるでしょ。此処は他の宗教みたいにただ祈るだけじゃない、死んだ人と話すことだって出来るんだから」

「あなたは、死んだ人と話したいことがあるの?」

「じゃなきゃ信者なんてやってないわ」


 浦原の問いに当然とばかりに返した彼女は、話すのも面倒な様子で長い金髪を指でくるくると巻く。


「あたしの彼氏寝取ったあいつに一言文句言ってやらないと気が済まないのよ!」

「え?」

「聞いてよ。あたし三年付き合ってた彼氏が居たんだけどね、そいつにあたしのダチが勝手に手を出して浮気されたのよ!? 友達の彼氏寝取るとか信じられる?」

「し、信じられませんね……」

「でしょ!? しかもそれを問い詰めようとした直後あいつ逃げて、そのまま赤信号で飛び出して車に轢かれたのよ! ……ほんっと、信じられない」


 捲し立てるようにしゃべっていた彼女だったが、次第に勢いは落ち最後は涙声に変わっていく。


「だから、もう一度会って文句言ってやりたいのよ。勝手に人の彼氏寝取って、勝手に死んで……怒る暇もなかったじゃない……」

「そう、ですか」

「ですが、本当に死者と話すことなんて出来るんですか?」

「……他の信者の人達が何人も会えたって言ってたし。あ、ほら礼拝堂の奥」

「?」

「礼拝堂の奥にはこの世とあの世の境目があって、徳を積んだ信者はそこで死んだ人と話せるんだって。そこから出て来た人は皆幸せそうな顔してて、やっぱり会えたんだっていっつも羨ましくなるの。あたしはまだ徳もお布施も足りないんだけどね」

「ちなみに、お布施ってどのくらい……?」

「最低でも五百万はいるみたい」

「ごっ」


 ささらが思わず咽せた。目の前の依頼人の娘はせいぜいささらと同じくらいの年に見えるが、果たしてそんな金額を用意出来るのか。

 五百万あったら家賃をどれだけ払えるだろうかと考えてしまう。


「まあ水商売でちょいちょいっと稼げばそのうち貯まるでしょ」

「だ、駄目です! 五百万ですよ!? 考え直して下さい! それだけあれば何回美味しいもの食べられると思ってるんですか!?」

「……ささら様、今言うべきことはそういうことじゃないです」

「だ、だって」

「そもそも、それほどの価値があることなのかしら」

「は?」

「交霊を頼むのなら、わざわざ宗教に頼らなくても霊能力者に頼んだ方が安上がりなんじゃない? そっちの方が本業だし、五百万も掛からないんじゃないかしら」


 ねえ、と尋ねられたささらは確かに、と頷いた。相場はその霊能力者によって違うが、交霊だけが目的なら、わざわざ宗教に入るなんて回りくどいと思う。


「で、でもそういう霊能力者って大体インチキじゃん!」

「では、此処がインチキじゃない保証はあるんですか?」

「それは……あっ、」


 三人に口々に反対されて反論に迷った七瀬が口籠もる。しかし彼女は遠目に何かを見つけたかと思うと小さく声を上げ、ささら達の背後に向かって声を上げた。


「水城さーん!」

「……水城?」


 ぴくり、と浦原の肩が跳ねた。七瀬の声に釣られて彼女の視線の先を追うと、そこには二人の老夫婦らしい男女がこちらへやってくる所だった。

 その二人の顔を、浦原は一度だけ見たことがあった。


「七瀬さん、どうしたんだい」

「二人もこの人達に言ってやって下さいよー、此処で死んだ人と話せるのは本当だって」

「あら、見たことない人達ねえ。新しい方?」


 老女はささら達を見ると、目尻の皺をさらに深くして朗らかに微笑んだ。


「人が増えるのは嬉しいわねえ」

「そうだなあ。まだ此処に入って浅いなら信じがたいのは仕方が無いかもしれないが、此処は本物だよ。実は私達も今日、死んだ息子に会えることになっているんだ」

「え、そうなんですか! 羨ましい……よかったですね」

「さて……いいものになるかは、まだ分からないがね」

「あの! すみません、それはどういうことですか」

「人様に話すのも恥ずかしいんですけどね……私達の子は、生前犯罪者だったんです」

「え……」

「人を殺したとかではないんですけど、何でも仕事で横領やら、良くない所から賄賂を受け取ったりしていたようでね。……確かに悪いことをしていたのは事実だが、自殺するほどではなかったと私なんかは思ってしまうんだ」

「っ……」

「美守さん……?」


 老夫婦の話に耳を傾けていたささらは、ふと隣に立つ浦原の表情がどんどん険しくなっていくのに気付いた。拳をきつく握りしめ、何かに耐えるように歯を噛みしめて微かに震えている。

 どうしたのかと小声で尋ねても、浦原から反応は返ってこなかった。


「悔やんで死を選ぶくらいならどうしてそんなことをしてしまったのか。私達が会って聞きたいのはそれだけなんだ」

「そうだったんですか……」

「長く掛かったがようやくこの日がやって来た。それじゃあ私達はこれで。先に礼拝堂で十分に祈りを捧げなければならないからね」


 そう言って、老夫婦は軽く会釈をして離れて行く。……しかし、数歩歩いた所で再度老女が訝しげな表情で振り返った。


「そういえば……そこの背の高いお姉さん。どこかで会ったことはないかい?」

「いえ、気のせいではありませんか?」

「そうかい……? しかしどっかで」

「ばあさん、ボケが始まったんじゃないか」


 首を傾げたまま浦原を見つめていた老女は、そのまま納得していない表情のまま礼拝堂へと入っていった。それを見送った浦原はやがて重たい何かを吐き出すように大きく息を吐いた。


「ほら、水城さん達だって此処は本物だって言ってたでしょ」

「けど、実際見てみないと分からないもので……」

「あーもう! そこまで疑うんなら私の前にインチキの証拠でも持って来なさいよ! そうしたら信じるしうちに帰って上げてもいいわよ!」


 「私も礼拝堂で祈らないと行けないんだからもう邪魔しないで!」と声を張り上げた七瀬はずかずかとささらと茶々の間を割って去って行ってしまう。

 ささらがちらりと茶々を窺うと、「まあ、確かに証拠を突きつけた方が早そうですね」と頷いた。


「確かにそれはそうだけど、証拠なんてどうやって探せばいいんだろう」

「その交霊を行っている現場に潜り込むしかないですかね」


 簡単に言うがそう易々と潜り込むのは困難だろう。何か良い方法は……と考えていたささらだったが、やがて少ししてから不意に「あ」と小さく声を上げた。


「一つ、方法が無いこともないけど……」

「本当ですか?」

「けど、また茶々に頼り切りになっちゃうんだけど」

「勿論、どうぞお任せ下さい。ささら様は祓い屋事務所の所長なんですから、どーんと構えてわたくしに指示を出して下さればいいんですよ。とどめはお任せいたしますけどね」

「……なら」


 また川名のように誰かに話を聞かれても困る、とささらは声のトーンを落としてぼそぼそと茶々に耳打ちをする。


「成る程」

「出来る?」

「当然です。わたくしを誰だと思っているんです?」


 たのもしく返事をした茶々は早速動き出そうとしたが、しかし青い顔で黙り込んでいる浦原を見て歩き出そうとしていた足を止めた。


「浦原様? 顔色が悪いようですが大丈夫ですか」

「え」

「ホントだ。美守さん、体調悪いんなら無理しないで休んでて下さい。もともと交霊がインチキかは私達じゃないと分からないですし」

「……そうね。ごめんなさい、ちょっと休ませてもらうわ」


 浦原は素直に頷くと僅かにふらつきながら壁際の椅子へと重たい足取りで向かって行った。そんな彼女を心配そうに見ていた二人は、顔を見合わせると気を取り直して真剣な表情になる。


「それじゃあ、茶々。お願いね」

「はい! ささら様も頑張って下さい」


 


   □ □ □ □ □ □ □




「安田さん、お疲れ様です」

「ええ。通してもらえます?」


 礼拝堂の奥、祭壇の脇にある小さな扉の前に立っていた男は、この宗教団体の幹部と言われる女性を前に会釈をして体を横に動かした。そんな男を満足げに見た彼女はすたすたと扉の中へと入り、そして……目線だけで素早く辺りを見回しながらゆっくりと歩き出した。


『私がさっきの女の人を引きつけてる間に、その人に姿を変えて礼拝堂の奥を探ってほしいの』


 ささらにそう頼まれた茶々は、早速最初に案内をしてくれた女性――川名曰く幹部の女性の姿に成り代わり礼拝堂の奥へと足を踏み入れた。

 人を化かすのならば狐にも負けないと茶々は自負している。必要とあらば見知らぬ人間から茶釜までなんでもござれだ。今頃人見知りな所のあるささらが頑張って女性を引きつけてくれているのだから、茶々も確実に交霊の実態を暴かなければならない。


「あれ、安田さんが来るなんて珍しいですね」

「ええ。たまには、と思いまして」


 同じ幹部らしき男に曖昧に返事をして微笑む。とにかく今だけ違和感を持たせないようにすればいい。男の顔色を読んで不信感を抱かれていないと確証すると、茶々はいかにも怪しい重厚な扉をノックして男に続いて中へと入った。

 そこは、照明が殆ど落とされた薄暗い空間だった。光源はいくつか置かれた蝋燭の火のみで、中々狭い部屋の中央にはテーブルが置かれている。そしてそこには、いくつかの文字の書かれた円状の文様が描かれた紙があった。


「それでは……此処に、呼び出したい人物の姓名と生年月日をお書き下さい」


 既に儀式は始まっているらしい。元々部屋の中に居た男が紙を差し出すと、テーブルを挟んで対面に座る一人の男性が虚ろな表情でペンを取ってその紙に名前を書き始めた。

 先ほどの老夫婦ではない。どうやら今日は他にも交霊を行うらしい。


「……」


 しかしこの時点で茶々は既に呆れ始めていた。テーブルに置かれた梵字の書かれた文様は少し見ただけで滅茶苦茶であることがすぐに分かる。素人がぱっと見で「いかにもそれらしい」と思い込む為だけのものである。

 そもそも、目の前の紙を差し出した男が既に霊力の欠片も感じられない。めぐるや柊にすら劣る、浮遊霊すらまともに見えないであろうと容易に想像が付いた。


「……書けました」

「では、これから霊と対話できるようにする為に、霊力を底上げする神水をお渡しします」


 男はそう言うと後ろを振り返り、茶々に目線で合図を出した。その神水とやらを持ってこいということだろう。幸運にも、この部屋の中には水差しは一つしか存在していない。茶々は部屋の隅の台に置かれていた水差しを手に取るとそれを傍にあったコップに注ぎ入れ……そして水差しの口から垂れた水を拭き取るように手元のハンカチを当ててそっと水を染み込ませた。


「どうぞ」


 さっさとテーブルに水を置くと、茶々は身を引いて部屋の片隅、蝋燭の明かりが届いていない場所に立った。


「――、――」


 ぶつぶつと何かを唱え始めた男を気付かれないように冷めた目で観察し続ける。――そしてそれは、数秒後に起こった。


「分かりますか。此処に、あなたの息子さんがいらっしゃいます」

「ここに、太一が……あああ、太一、お父さんのことが分かるか……!」


 虚ろな目を宙に彷徨わせていた男が、不意に一点を凝視すると途端に歓喜するように大きな声を上げて、空間を両手で抱きしめた。

 感動の再会だ。少なくとも、父親だというその男の脳内では。



「……馬鹿馬鹿しい」


 茶々はその光景を見ながら、本当に小さな小さな声で呟く。

 そこにはやはり――幽霊も何も、存在していなかった。




   □ □ □ □ □ □ □




「チッ……」


 今日もろくな情報を得られなかったと、川名は暗い夜道で一人舌を打った。


 死者と話すことが出来るなんていうあからさまに怪しい新興宗教。その話を耳にした川名はすぐに幸礼会へと潜入を始めた。どうせ金儲けが目的のインチキに決まっている、徹底的に暴いて世間へ晒し者にしてやると意気込んで。


 川名が普段書く記事は大抵警察や政治家のスキャンダルが多い。今回だって幸礼会幹部の裏にとある政治家が絡んでいると彼は見ている。死者を、そして彼らに会いたい信者を食い物にして私腹を肥やす屑は徹底的に暴いてやらなければ。


 禄に電灯もない暗闇を歩きながら、川名は心に憎悪を沸き上がらせた。彼の行動は正義感から来る物ではない、ただの復讐だった。彼がこうして警察や政治家をターゲットにバッシングを繰り返すのは――昔自殺した兄の弔い合戦なのだ。

 あの日、あの時間、たまたま近くを歩いていたという理由だけで川名の兄は政治家の息子が起こした殺人事件の罪を被せられた。懸命に無実を訴えても無視され、警察にはありもしない証拠をでっち上げられた。そして――有罪判決が決まったその日、兄は手首を切って自殺したのだ。


 それから川名は、ひたすらジャーナリストとしての道を歩み始めた。警察や政治家の罪を衆目に晒すことに命を懸け、手段を選ばない取材も幾度となく行ってきた。


「……あの女、また居やがったな」


 そして今日礼拝堂で会った彼女もまた、川名が真実を暴こうとしている対象だ。家柄で警察に守られて罪を逃れている女。今回は幸礼会の方を優先した為放置したが、次に会った時には必ず追い詰めて――。




 ひた、と背後で濡れた音が聞こえる。

 その瞬間、川名は妙な寒気を感じて思考を止めた。


「……」


 ひた、ひた、と川名が歩くのに合わせてその音は続く。人気のない静寂に包まれた道ではその音だけが妙に耳に入り、そしてそれは徐々に大きくなっていくような気さえする。

 何の音か。さっさと振り返って確認すればいいというのに何故か彼は振り向くことができない。

 無意識のうちに歩く速度が上がるが、背後の音もまた一緒に付いてくる。


「……ぃ」


 小さく小さく、囁くような声が耳元を掠めた瞬間、川名は一目散に走り出した。


 恐怖に突き動かされたままただ必死に足を動かす。何が起こっているのか分からない。それなのに足を止めたらお終いだと本能で悟っていた。

 息が荒い。しかしぜえぜえと苦しげに吐く息以上に、ひたひたと濡れた音の方が耳に付く。


 あと少し、もう少しで家に着く。それだけを希望に川名は走り続け――そして、ようやく自宅へと辿り着いた。


「はあっ……はあ」


 滑り込むように玄関に飛び込んで鍵を閉めた川名は、全身にびっしょりと冷や汗が流れていくのを感じながら扉に背を付けてずるずると座り込んだ。


「な、んなんだよ……」


 尋ねても答えてくれる人は居ない。誰でもいいから答えて欲しい。

 直後、川名の耳に再びあの擦れた声が聞こえるまでは、そう思っていた。


「――なぃ」

「っ!?」

「――さない」


 どうして部屋に入れば無事だと思い込んでいたのか。その声は、濡れた音は、気が付いた時にはもうずっと大きくなっていた。


 川名は無意識のうちにその声に釣られて顔を上げる。そして刹那――ぴしゃりという水音と共に、暗い部屋の中で壁がおびただしい赤で彩られた。




「――ゆるさない」


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