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祓い屋(物理)の日常  作者: とど
三章
42/63

episode 17 バレンタインと犬屋敷(3)


「めぐる、電話は繋がって……何してるんだ?」

「妹とは何とか連絡が取れた。今は此処に何かこの状況の手がかりが無いか探しているところだ」


 さんざん犬達に構われたのかぜえぜえと息を吐きながら和泉谷が戻って来る。そしてめぐるはというとその間に本棚や机など部屋の中を調べ始めていたのだが、しかしその本の数の膨大さに頭を悩ませていた。


「小説から法律書までジャンルまでばらばらだな。しかもどの本も何度も捲ってページの端に癖が付いてる。相当な読書家だったみたいだ」

「誰が?」

「……誰だろうな」


 めぐるは本を棚に戻しながら考える。あの犬達が本を読んでいるということはないだろう。いくら普通の犬じゃないと言っても茶々のように人型になれるような素振りもない。

 ではこの本は、机は……この家は、誰の為に。


「少なくとも……此処には前に俺達以外の誰かが住んでいた、その可能性が高い」

「それって、俺たちみたいに連れてこられたやつってことか?」

「どうだろうな。だとしてもこんなに大量の本を持ち込むことは……ん?」


 本の背表紙を滑っていためぐるの指先が妙な引っかかりを覚える。かさり、と微かに触れた感覚に首を傾げてそこを見ると、本と本の間に数枚の紙が挟まっていることに気が付いた。

 本棚は隙間無く本が詰め込まれていた為気付くのが遅れた。めぐるが隣の本を抜き取ってその紙を取り出すと、ノートのページを破ったらしい紙に几帳面な文字が羅列されていた。


「なんだそれ?」

「読んでみるから待て。何々……」





 ――7月15日、此処へ来て三日目だ。ずっとこの場所にいると日付感覚を忘れそうになるので今日から少し日記のようなものを付けていこうと思う。

 いきなりこんな不思議な屋敷に連れてこられた時はどうしたものかとパニックになったが、数日住んでみると此処はとても良い場所だと思うようになった。外のように追い立てられるように毎日を必死に生きる必要もなければ、煩わしい人間関係も一切存在しない。可愛い子犬達が居るから寂しさもなく、食事もいつの間にか勝手に出てきて餓死する心配もしなくていい。家族からも見放された俺にとっては、此処は楽園だ。


 ――7月17日、早速昨日は日記を付け忘れてしまった。まあいいか。

 あいかわらずのんびりと過ごしている。気ままに本を読んで、気ままに犬と戯れて、美味しい食事を食べる。本当に幸せだ。

 しかし、今更だがこの食事はどこから出てくるのだろうか。此処が不思議な空間なので考えるのを止めていたが、改めて不思議だ。まあ美味しいので別にいいが。

 縁側でひなたぼっこをしながら犬達が庭で遊んでいるのを眺める。本当に穏やかで心地の良い空間だ。

 この場所は最高だ。それなのに、犬達を見ていると何故か少しだけ寂しい気持ちになったような……。


 ――7月20日……だと思う。もう日付を考えることの意味もない気がしてくる。

 なんだか、日に日に寂しさが増して来る。最初は気のせいだと思ったのに、あの家族に未練なんて感じているのだろうか。

 なんとなく、誰かを探すように屋敷の中をふらふらと歩いた。誰を探してるんだろう。此処に他の誰かがいる訳もないのに。


 ――何だよあれ、なんなんだ。

 ああああああああ、なんで、いやだ、俺もああなるのか? 俺も、

 こわいこわいこわいこわい、ここからにげたい。なのに、鳥居を潜ろうとしても出られない。

 なんで





「なんだ、これ。急に何があったんだ?」

「……」


 めぐると一緒に紙を覗き込んでいた和泉谷が突然豹変した書き手に首を傾げる。日記を書き始めた当初とは裏腹に酷く乱れた文字に息を呑んだめぐるは、一度深呼吸をしてから更に次の紙へと視線を映した。





 ――これを見ている人間に伝える。此処に居てはいけない。絶対に食事に手を付けずに早く外へ逃げろ。

 この屋敷の奥で、俺は、人面犬を見つけた。白い犬の体をした、中年の男の顔をしたものだった。

 そいつが言うんだ。「自分も以前犬達に此処に連れて来られた人間だ」「気が付いた時には少しずつ犬に近付いて来ていて、もうすぐ完全にあの犬達の一員になってしまうだろう」と。

 原因は恐らく食事らしい。最初の数日は気味が悪くて手を付けなかったが、とうとう食料が尽きて料理を食べ始めてから少しずつ体がおかしくなっていったと言っていた。


 俺は、もう、手遅れだ。食べてしまった。気付かないうちに白い体毛が少しずつ生え始めた。体が縮んだ気がする。もう駄目だ。もう、だめ、もう、あああああああああああああああああああああああだれかたすけてくれいやだいやだいぬになりたくない、だれかだれかあああああああああさびしいいやだたすけてごしゅじ――





 震えた字で書かれていたそれはどんどんと乱れ、やがてぐちゃぐちゃの線になって読めなくなった。


「……」


 言葉も出なくなった和泉谷が無意識のうちにめぐるの服を強く握りしめた。


「浩、大丈夫か」

「へ、平気だし……こ、こわくなんて」

「いいんだよ怖くて。それが普通だ」


 小刻みに震える和泉谷の背中を宥めるように擦っためぐるは、再度紙を流し読みした後本の隙間にそれを戻した。そして二人揃って畳に座り込むと、酷く疲れたように大きく息を吐く。


「やっぱり、あれは食べなくて正解だったな」

「……あんた、最初からあれがやばいもんだって分かってたのか?」

「浩は、黄泉戸喫って言葉知ってるか」

「よも……?」

「まあ簡単に言うと、あの世のものを口にすると自分たちもあの世の住人になってしまって現世に帰れなくなるってやつだな。まあそもそも、そうじゃなくても見知らぬ場所にあった物を食べるなんて恐ろしいから止めたんだが」

「で、実際……俺たちも食べてたら犬になってたのか……」


 ではあのたくさんの犬達の正体は。和泉谷はそこまで考えてぶるりと大きく体を震わせた。先ほどまで何も知らずに戯れていた自分を思い出して余計に寒気が酷くなる。


「……なあ、これからどうすればいい」

「ひとまず、助けが来るまでは此処で籠城だな。下手に自力で逃げようとしても捕まったら今度こそアウトだろう。他力本願だが、あいつらを待った方がいい」

「ふうん……」

「ところで、お前腹減ってるか? さっきもあの料理食べそうになってただろ」

「減ってる……けど、あれを食べるくらいなら」

「此処に良い物がある」


 めぐるは鞄の中から小さめの紙袋を二つ取り出すと、片方を和泉谷へ手渡す。何か分からず受け取った彼だったが、ちらりとその中身に視線を落とすと「あ!」とすぐに理解したように声を上げた。

 紙袋の中にはリボンが掛けられた箱に『Happy Valentine's Day』と書かれた小さなプレートが付けられていたのだ。


「チョコ……!」

「これだったら食えるだろ。元々妹達の分だったんだが持って来てよかった」


 箱を開けると、そこには一つ一つ種類の違うチョコレートが九つ入っていて、その甘い香りに食欲が大いに刺激される。


「食っても、いいのか?」

「勿論。ただ、そんなに多くないから少しずつ味わって食えよ?」

「……いただきます」


 途端にぐう、と鳴った腹に促されるように和泉谷はチョコレートをひとつ摘まんで口に運ぶ。するとすぐに口の中に甘さが広がり、そしてじっくりと味わって飲み込む頃には、いつの間にか体の震えも止まり気持ちも少し落ち着いていた。


「うまい……」


 そう言いながらもう一つチョコを口に放り込む。期待を裏切らない美味しい甘さを舌でゆっくりと溶かしていると、和泉谷はふと今朝の出来事が頭を過ぎった。


『チョコを作ったので浩君にも差し上げますね』


 そう言った彼女のチョコレートは、結局受け取る前に逃げてしまった所為で貰うことが出来なかった。


「……茶々、姉ちゃん」


 口の中で、殆ど消え入りそうな声で名前を呼ぶ。

 妖怪は恐ろしい。犬達だって、彼女だって。……それでも。


 恐ろしいと思っても、今は会いたくてたまらなかった。




   □ □ □ □ □ □ □




 その日の夜を迎えても、まだ現状は変わっていなかった。迎えは来ず、ひたすら部屋で大人しく籠城するばかりだ。時々犬達が襖を開けて入って来ようとするが、こちらが逃げさえしなければ従順らしい彼らは入ってこないように言うと大人しく部屋から離れていった。不幸中の幸いだ。


「……」

「どうした、眠れないのか?」


 子供なんだから寝ておけ、とめぐるに布団を被せられた和泉谷だったが、しかし緊張状態の為かまったく眠気がやって来ない。

 和泉谷は横になりながら、視線を上げて片膝を立てて座っているめぐるを見上げる。


「あんたは寝なくて大丈夫なのかよ」

「大丈夫だ。仕事柄慣れてるからな」

「ふーん。……それにしても、あんたの妹遅いな。ホントに大丈夫なのか?」

「今頃頑張って探してくれてると思うからそう言ってやらないでくれ」

「……ふん、俺の知り合いの祓い屋の方がよっぽどすげえし」

「ん? お前祓い屋と知り合いなのか?」

「そうだぞ! あいつだったら幽霊なんてこてんぱんにやっつけちまうし、きっと此処だってすぐに見つけるはずだからな!」


 普段は和泉谷も完全に舐めきって上から目線で接しているものの、あの小学校の事件の時だって自分がびびっている間に彼女はあっさりと怪異を薙ぎ倒していた。

 きっと今回だって連絡さえ取れればすぐに助けてくれると思う。と、そこまで考えたところで和泉谷は、拳一つで霊を殲滅する彼女の隣に控える少女を再び脳裏に過ぎらせた。


「……なあ、めぐる」

「何だ?」

「妖怪とかって怖いと思うか?」

「……そうだな。恐ろしいと思う時だって勿論ある。人間とは姿も力も、それに価値観だって違う。怖いと思うこともよくあるよ」

「……やっぱり」

「でも、怖いだけじゃない」

「え?」

「人間だって妖怪だって同じだ。恐ろしいやつも嫌いなやつも、好きになれるやつだって色々いる」

「めぐるは、妖怪でも好きなやつがいるのか?」

「ああ、何せ俺の初恋は妖怪だったからな」

「……は?」


 驚いた顔で自分を凝視してくる和泉谷に、めぐるは少々照れ臭そうに頬を掻いた。


「今でも忘れられない、それくらい好きだった。いや、過去形でもないか……」

「……めぐる、俺」

「?」

「俺、さ……俺も、好きな子が、妖怪だったんだ」


 思わぬ所で共通点が見つかり、和泉谷はつい胸の内に秘めていた想いを打ち明けてしまっていた。


「今日バレンタインだっただろ。だから俺、その子に好きだって言ったんだ。だけどそしたら……自分は妖怪だから、人間じゃないからって断られた」

「そう、だったのか」

「俺、あの子が人間じゃないなんてちっとも気付かなくて。妖怪なんだって分かったら急に怖くなって、それで逃げちまったんだ」


 好きなのに、それなのに怖い。真逆の感情がまぜこぜになって、頭の中がぐしゃぐしゃになる。此処にいる犬達だって可愛い普通の犬だと思っていたのに本当はそうではなくて、自分達を逃がさないようにこの箱庭に閉じ込めようとしてくる。訳が分からない、頭がパンクしそうだ。


「……その子は、優しい子なんだな」


 頭の中が滅茶苦茶になって何も考えたくないと和泉谷が布団を頭まで被ると、不意に頭上から酷く優しげな声が降って来た。


「わざわざ隠していた正体をばらしてまでお前に誠実に向き合った、優しい子だ」

「や、優しいなんて当然だろ……」

「そうかそうか。じゃあ、その子は他にどんな子なんだ?」

「……可愛くて」

「うん」

「料理が上手くて」

「ほうほう」

「しっかり者で、叱られた後にちゃんと謝ると良い子ですねって頭を撫でてくれて」

「なるほどな」

「……お前、ちゃんと話聞いてるか?」

「勿論だ。……で、聞くが。それはその子が妖怪だと知ってしまったら全部無かったことになるのか?」


 布団越しに聞こえて来たその言葉に、和泉谷ははっと目を瞠って布団から顔を出す。自分を見下ろしていためぐるは、おもむろに布団から出ていた頭に手を置いてあまり強くない力でゆっくりと撫でた。


「お前が好きになったのは、可愛くて優しくて料理上手なしっかり者で……たまたま妖怪だっただけだ」

「……」

「まあ、とはいえその事実を受け入れるのには時間が掛かるだろうし、それでも駄目だって思ったらその気持ちをすっぱりと諦めて新しい恋を探すっていう手もある。お前はまだまだ子供だし、いくらでも先があるんだからな」

「めぐるとは違って?」

「憎まれ口を叩くくらいには元気になったようだな、まったく」


 小さく笑うめぐるの声を聞きながら、和泉谷は再び頭まで布団を被って考え込むように目を閉じた。

 茶々が好きだ。あの柔らかい雰囲気も、ささらのことを語って嬉しそうにするところさえも、全部全部好きだった。……その全部に、妖怪であることを含めることは和泉谷に出来るのだろうか。

 めぐるは受け入れられないのなら他の人を好きになってもいいと言った。だけど。



 ぐるぐると考えが堂々巡りになる。そして――いつの間にか、和泉谷の意識は夢の中へと落ちていった。




   □ □ □ □ □ □ □




 いやだ、死なないで。


「ごめんなあ、シロ」


 いやだ、いやだ。


 布団で横になるご主人はげほげほと苦しげに咳き込んでいる。それをどうにか止めたくて頭に擦り寄るけど、ちっとも苦しげな顔は変わらない。

 以前は一緒に散歩して走り回ったご主人は、いまや立つこともできないほど弱ってしまった。体は枯れ木のようにやせ細り、ご飯だってちっとも食べない。


「もう、時間みたいだ」

「きゃん!」

「お前を残すのだけが心残りだけど……私が死んだら親戚の誰かに世話してもらうんだぞ」

「きゃん、きゃん!」

「大丈夫だ。シロは可愛いから、引き取り手は沢山いるだろう……」


 ちがう、ご主人じゃなきゃ駄目なの。シロをひとりにしないで。

 ご主人の目が閉じられる。何度も何度も鳴いてご主人を呼ぶのに、ちっとも返事をしてくれない。

 いやだ。死なないで、ひとりにしないで。寂しいよ……。






「さびし……」

「浩、起きろ!!」

「!?」


 突如怒鳴りつけるような大声が和泉谷の脳を揺らし、一瞬にして目が覚めた。

 何か夢を見ていた気がする。しかしそんなことを暢気に考えている暇など彼にはまったくなかった。


「や、やめろ!」

「くぅん!」


 眠っている間に勝手に部屋に入ってきたらしい犬達が和泉谷の体の上に乗って無理矢理食べ物を口に押しつけていたのだ。口に入りそうになったおにぎりに必死に顔を背けると、その視線の先でめぐるも同じように犬達にのしかかられておにぎりを器用に前足で押しつけられているところだった。

 これを食べれば、自分も前の人達と同じように犬になってしまう。


「浩っ!」


 今にも米粒が口の中へ入りそうになっていたその時、犬達を力尽くで振り払っためぐるが和泉谷にのしかかっていた犬を強引に押しのけて彼を肩に担ぎ上げた。


「うわ」

「逃げるぞ!」


 襖を蹴破る勢いで開けてめぐるは全速力で走り始めた。すぐに犬達も二人の目の前に回り込もうとするがそれを避け、そして飛びかかって来た犬は空いている方の腕で叩き落とす。

 きゃんっ! と床へぶつかった犬の悲鳴が響き一瞬苦々しい表情を浮かべためぐるは、しかしそのまま足を止めることなく屋敷の外へと飛び出した。

 靴も履かずに門を出ると例の鳥居はもう目の前だ。追いつかれる前に更に走る速度を上げてその鳥居に飛び込もうとしたが――ところが次の瞬間、めぐるは思い切り額を打ち付けて一瞬意識が飛んだ。


「そう簡単には行かないか……!」


 すぐに通り抜けられるはずの鳥居。しかし二人がそこをくぐり抜けようとすれば、まるでガラスでもあるかのようにその先へは進めない。壊そうにも、目の前を殴るように拳を振るってもまるで壊れそうな気配すらないのだ。


「め、めぐる! 犬が」

「!」


 和泉谷の声に振り返ると、そこにはずらりと半円状に二人を取り囲む犬達の姿があった。どの犬も吠えることはなくただただ感情の読めない目で二人を見上げ、そしてじりじりとその半円を縮めるように近付いてくる。


 どうすればいい。せめて和泉谷だけでもどうにか逃がすことはできないか。

 めぐるが必死に考えても打開策は思いつかない。そうこうしているうちに痺れを切らした和泉谷がめぐるの肩から無理矢理下りると、彼は震えながらもキッ、と強く犬を睨み付けた。


「俺は、俺は俺のままで元の世界に帰るんだ! 邪魔をするな!」

「……きゃん」


 勇気を振り絞って叫んだその言葉に、犬達が引くことはなかった。むしろなおさら逃がしてたまるものかと更にじりじりと近付いてくる。どんどん、視界が白一色に塗りつぶされていく。

 ――ここまでなのか。




 バキリ、


「……は?」


 二人が諦め掛けたその時。追い詰められて見えない壁に背中を付けていた和泉谷は、何かが割れる音と共に突如として顔の真横に人間の拳が突き出たのを目撃した。

 なんだこれは。

 和泉谷が思わずその手を凝視している間に、メキメキと音を立ててその拳がどんどんと壁にヒビを入れて壊していく。彼に遅れてその状況に気付いためぐるは、すぐにはっと我に返るとすぐさま壁に寄りかかっていた和泉谷の手を引いて引き寄せた。


「――悪霊、退散!」


 ずっと待ち望んでいたその声が聞こえた瞬間、鳥居の見えない壁が完全に崩れ落ちた。そしてその先にあったのは、住宅街が見える外の景色と……そして、黒髪赤目の女と着物姿の少女の姿だった。


「ささら!」

「茶々姉ちゃん!」

「兄さんまだ無事で……って、和泉谷君!?」

「一緒に居る小学生って、浩君のことでしたか……」


 相変わらず力尽くで閉ざされていた入り口をぶち開けた妹を見てめぐるの肩の力が抜ける。そして二人と知り合いだったらしい和泉谷に少し驚いたものの、今はそれどころではないとめぐるは犬達を振り返った。


 つい先ほどまでは逃がす気はないものの噛むなどの危害を加えることがなかった犬達だったが、突如現れた人間に警戒するように歯茎を剥き出しにしてぐるぐると唸り始めた。

 大勢の犬に一気に威嚇され、ささらはびびったように小さく悲鳴を上げる。が、少し肩を揺らしながらも後ずさることはなく、庇うように茶々と共にめぐる達の前に出た。


「兄さんと和泉谷君は返してもらいます」

「グルル……ばうっ!」

「ご主人は渡さない? 何を勘違いしているんだか。お二人はあなた達の飼い主でもなければ、本当の飼い主なんてもうどこにも居ないんですよ」

「きゃん! きゃんきゃん!」

「嘘ではありませんよ。もうそれすらも分からなくなっているんですね、迷惑な話です」

「ちゃ、茶々……お前こいつらの言葉分かるのか? タヌキも犬科だからか?」

「ええ。犬科なんて人間が勝手に決めたくくりは別として、一応ある程度何を言っているかは伝わって来ます。この犬達がめぐる様達を勝手に主人と錯覚し、この空間に閉じ込めようとしたことも」


 茶々は電話口で耳にした沢山の犬の叫びや、この場所を見つけ出すまでに同じ動物の妖怪から聞いた噂話を頭の中で思い出す。


「発端は、一匹の犬でした」

「大急ぎで柊さんに調べてもらったんだけど、住宅街になる前この辺りには大きなお屋敷があったんだって。そこの主人は一人暮らしで……一匹の犬を飼ってた」

「それは……」

「ここの主人はまもなく病死、そして屋敷は取り潰された。その時、解体現場から犬の死骸が見つかったらしいの」

「! え、」

「解体する前に業者が見落としたのか途中で入り込んできたのか。ともかくそれからというもの、この辺りに犬の浮遊霊が集まるようになったそうです」


 この辺りに妙に犬の霊ばかりが引き寄せられている場所がある。そう話を聞いて調べてみれば、そこはめぐるも電話で告げていた屋敷が過去に建てられていた場所だった。


「電話でずっと犬達が鳴いていました。寂しい、ご主人は何処、って。最初に死んだ犬の魂に引きずられて他の犬の霊も集まり、そして纏まって力を持ちこの空間が出来た、と言ったところでしょう」

「じゃあ、俺達が連れてこられたのは……?」

「“主人”が欲しかったんだろうな。だけど、普通の人間はこんな異界でまともに生きていけない。結局此処の食べ物を口にすることでこの空間の思念に飲まれて同じような存在――犬になってしまった。そして人間が居なくなったからまた外から“主人”を連れて来ようとする。……堂々巡りだな」


 めぐるが疲れたように息を吐く。一生終わらないループに嵌まり込んでいる。人間が連れて来られる度に白い犬が増え、屋敷がここまで犬に埋め尽くされるようになってしまったのだろう。


「こんなこと、何の意味もありません」

「がうっ!」

「煩いのはそちらですよ。言ったでしょう、あなたが望む本物の主人は、既にこの世には居ないんです」

「……きゃん」


 前足に包帯を巻いた犬が、茶々の言葉を聞いていやいやと首を振る。しかし茶々は酷く冷静な目でその犬を見下ろすと「思い出しなさい」と言い聞かせるように口を開く。


「あなたが本当に一緒に居たかったのは、主人の代わりではなく亡くなったその人だけでしょう? だったらさっさと忠犬らしく……後を追いかけなさい!」

「……きゃん!」



 その瞬間、目の前の景色がぶれた。

 ぐにゃぐにゃと気持ちが悪くなるようなおかしな視界に平衡感覚を失って倒れそうになる。


「この場所が無くなる! みんな外に出て!」


 焦ったささらの声に反応してめぐるはよろめく和泉谷を抱えて鳥居の向こう側に今度こそ飛び込んだ。

 一歩足を外へ踏み出した途端に目の前に住宅街が広がった。背後を振り返れば茶々とささらが同じくこちらへ戻ってくるところで、鳥居の向こう側のぐちゃぐちゃの景色が徐々に薄れて消えていく。

 その場所が何の変哲もない空き地になった時、いつの間にか大きな注連縄の掛かった鳥居の姿もどこにも存在しなかった。


「帰って来られた……んだよな」

「ええ、ご無事でなによりです」


 力が抜けて道路に座り込んだめぐるの隣に茶々がやってくる。たった一日ほどの出来事だったが、本当に本当に長く感じた。

 ほっとしたように微笑む茶々を見てめぐるも硬くなっていた表情が緩むが、しかしすぐに何かを思い出したように再び表情が強張った。


「なあ……他の、俺たちの前に連れて来られて犬になった人達は……」

「……」


 茶々は無言で首を横に振った。


「そう、か」

「食べ物を口にして犬になった、と言っていましたよね。ならばもう、人間に戻ることは不可能でしょう。思考も完全にあの犬と同化していたようですから、一緒に成仏するくらいしか救いはないでしょう」

「……どうしようもないが、後味悪いな」


「そういえば鬼怒田ってささらのことじゃん! っていうか遅せーよ! お前ならもっと早く来るって言っちまったじゃねーか!」

「いきなり何の話!? そもそもなんで和泉谷君まで此処にいるの!?」


 めぐると茶々がしんみりとした空気に包まれていると、少し離れた場所で和泉谷とささらがわいわいと騒ぎ出した。遠慮の無い音量でしゃべる二人に目をやっためぐる達は、少し気が抜けて「あいつら元気だな……」と小さく呟いた。


「というか、お前らあいつと知り合いだったのか」

「ええ。家が近所ですし、よく事務所に遊びに来るんです。昨日も行方不明になる前、ちょうどうちに来ていて」

「あいつの言ってた祓い屋ってささらのことか。……ん? 待てよ、昨日ってことはもしかして浩が振られたって言ってたのは」


「茶々姉ちゃん!!」


 めぐるがある結論を出しかけたその時、ささらと言い合っていた和泉谷が急にこちらへやって来た。彼は少し困ったような表情を浮かべる茶々を見つめると、すぐに決心を付けたらしく大きな声で叫ぶように言った。


「俺、あれから色々考えたんだ。妖怪だとか人間だとか……色々考えたけど、もう知らねえ! なんでもいい! 俺茶々姉ちゃんのこと好きだもん! 文句あっか!」

「……浩君」


 虚を突かれたように茶々が目を瞠る。まじまじと和泉谷を見ていた彼女だったが……ややあって口元に手をやって小さく、柔らかく微笑んだ。


「好きになってくれてありがとうございます」

「じゃあ俺と付き合って……」

「ですがそれはそれ、これはこれです。わたくしは今のところささら様のお世話に生きがいを感じているので殿方とお付き合いする予定は無いんです」

「……」


 茶々の返答に、和泉谷は俯いてたっぷり十秒ほど沈黙した。


「……ささらぁー!! お前の所為で!!」

「ちょ、和泉谷君、私に当たらないでよ!」

「煩い! お前がいつも茶々姉ちゃんに頼ってるから俺が振られたんだろうがー!」


 そして次に顔を上げた和泉谷は顔を真っ赤にしながらささらに怒りのままに突撃したのだった。ささらが宥めようとしても余計にヒートアップするだけで、そんな二人を見て茶々は微笑ましげににこにこと笑っていた。




「……あー、どうするっかな」


 二人を見つめる茶々を見ていためぐるは、額に手をやって三人に聞こえないようにそう呟いた。


「敵に塩贈っちまったじゃねーか……」



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