episode 16 悪夢(2)
「……事情は分かりました」
ソファでぐったりと項垂れる鳴宮を前に、ささらは酷く痛ましい表情で彼にそう声を掛けた。
朝から突然事務所に鳴宮が飛び込んで来た時は大層驚いたが、話を聞いてそうせざるを得なかった彼の気持ちも良く分かった。
「鳴宮様、これを」
「……どうも」
茶々に濡れタオルを渡された鳴宮が力なく礼を言ってタオルで顔を覆う。そしてしばし大きく深呼吸を繰り返した後、彼は憔悴しきった顔をゆっくりと持ち上げた。
「結局、あの夢は……」
「都市伝説、"猿夢"ですね」
「猿、夢……」
「電車の中で次々とアナウンスの通りに人が殺されていく、比較的新しい都市伝説です。電車自体が猿の形になっていたり、車内のポスターに猿が描かれていたり……色々と違いはあるようですが、どれも夢のどこかしらに猿が関わっているようです」
茶々の説明に、鳴宮の脳内に車掌の服を着た二匹の猿が過ぎり再び吐き気が込み上げてきた。
「一度目、二度目までは逃げられますが、三度目に遭遇した話は聞いたことがありません。そもそも二度しか見ないのか、それとも三度目は……話を残せない状態になっているのか。けれど鳴宮様は、三度夢を見たんですね」
「……本当は、俺が死ぬはずだったんだ。もっと早く此処に来ていれば、あいつは……!」
「その女性は、一体誰だったんでしょうか」
「分からない。だけど、どこかで見たことがあったんだ。……俺の身代わりになったのに、これっぽっちも思い出せやしない!」
「鳴宮さん。……一つ、謝らなければならないことがあります」
頭を抱えて悔やむ彼に、向かい合ったささらは両手を握りしめて頭を下げた。
「前に柊さん……オーナーと一緒に鳴宮さんの家に行った時、実はあの部屋に幽霊が居たんです」
「は?」
「幽霊……彼女は、前にあの部屋で手首を切って自殺した女性でした。あの人はずっと、鳴宮さんに憑いていた霊を追い払って、あなたを守ってきた守護霊のような人だったんです」
「……幽霊が、うちに」
「鳴宮さんに伝えて引っ越されると守れないから黙っててくれって言われてあの時は黙っていましたけど……きっと、鳴宮さんを庇ったのは彼女だったんじゃないでしょうか」
「!」
ささらの言葉に、鳴宮ははっと目を瞬かせて自分を突き飛ばしたあの女性を思い出した。彼女の左手首には確かに大きな傷が残されていたのを鳴宮は覚えている。
「彼女はずっと鳴宮さんの所に居ました。気付いていなくても、きっと鏡の向こう側や視界の端に映る彼女を頭の何処かで記憶していたんだと思います」
「……」
事故物件だとは分かっていたが、まさかずっと幽霊と共同生活をしていたなんて思わなかった。
以前の鳴宮ならば、きっとそれに気付けば気味が悪いと一蹴していただろう。自分の部屋に霊が住み着いているなんて御免だとささらに除霊しろと言ったかもしれない。
けれど今の彼にそんなことが言えるはずもない。鳴宮に向かって微笑み、彼の代わりにあの鉄塊に飲み込まれていった彼女に悪意など持てるはずがない。
「祓い屋……頼む。今までお前達に関わり合いになりたくないと避けておいて今更どの口が言うんだって話だが……」
「鳴宮さん、顔を上げて下さい」
四度目を守ってくれる人はもう居ない。だがそれだけではない。たった今彼女の存在をはっきりと認識したばかりだというのに、あの瞬間を思い出すと悪夢の元凶である猿達に強い怒りと殺意すら沸き上がる。このまま黙って殺されることも、背を向けて逃げることだってしたくない。
震える拳に視線を落として頭を下げていると、頭の上からささらの声が聞こえてくる。普段の気弱なものではなく、強くきっぱりとした声だ。
「その依頼、受けます。茶々も良いよね?」
「ええ。祓い屋として、悪意を持って命を弄ぶ連中を放っておけません。……ですがささら様、実際どうなさるおつもりですか? 現実に実体があるのならまだしも、夢への介入などわたくし達でどうにかなるでしょうか」
「……うん、それは私も思った。私が出来るのは精々殴って除霊するだけだからね。だから――」
ささらはソファから立ち上がる。頼んだもののどうするつもりなのだろうと鳴宮が彼女を目で追うと、ささらは一度部屋へと戻ってから携帯電話を手に戻ってきた。
「頼りになる助っ人を呼びます」
□ □ □ □ □ □ □
「……」
鳴宮が目を開けると、それは見慣れた電車の中だった。
しかし毎日通勤に使っている電車とは違う。窓の外は塗りつぶされたような黒一色で、車内は殆ど人が居ない代わりに鼻を覆いたくなるような血生臭さで溢れかえっている。
彼はまた、この悪夢の中へと引きずり込まれたのだ。近くに座っていた女性の目玉が抉られて断末魔を上げるのを、鳴宮は吐き気が込み上げてくるのを必死に押さえながら「冷静になれ」と自分に言い聞かせ、眠る前に話し合ったことを思い出す。
「こうして話すのは初めましてだね。ボクは獏のクーだよ」
ささらが呼び出したのは、豚のような象のような不思議な生物だった。最早人外に驚く気力もない鳴宮に獏――クーは「よろしくね」と友好的な笑顔を見せる。
「確かに夢を食べるという獏なら……って、ささら様、いつの間に知り合ってたんですか」
「ちょっと前に色々あって……」
「……まあ今はいいでしょう。それで、クーさん? 猿夢を食べることは可能なんですか?」
「クーちゃんでいいよ。うーん、結論から言うとちょっと難しいかな」
「え?」
クーは少々困ったように首を傾げる。夢に対抗するのならそれを主食とするこの子だろうと意気込んで連絡したのだが、当てが外れてしまっただろうかとささらの表情が暗くなる。
「相手は都市伝説だし。ボクもまだ子供で、そんなに強くもないんだ」
「そんな……」
「でも方法はあるよ! その夢の元凶をボクの領域――夢の中まで引きずり込めばいい」
「夢に、引きずり込む?」
「うん。怪異を弱らせてボクの夢に引きずり込めれば、そうしたら後はもうボクの思い通りだよ。強い怪異の夢に実体のあるボク達が外側から介入するのは難しいけど、だったら内側から呼び込めばいい。勿論ボクも手伝うけど……」
一番大事なのは、必ず夢に引きずり込まれるであろう鳴宮自身が殺される前に強く精神力を持って猿達の支配下から逃れて外に助けを呼ぶこと。
「……」
猿達が鉄の塊を押してくる、何度も見た光景が目の前に現れる。未だに夢の支配下にある体は動かず、声も出せない。しかし鳴宮は諦めずに目の前の猿達に対する怒りを原動力に必死に体を動かそうとする。
ふざけるな、どうして俺がこんな目に遭わなければならない。どうして、彼女があんな目に遭わなければならなかった。
彼を挽肉にしようと笑う猿達が近付こうと、鳴宮は恐怖よりも怒りの方が勝った。ふざけるな、許さない。楽しそうに笑うこいつらを絶対に許さない。
猿達が彼の頭を掴む。その瞬間、まったく言うことを聞かなかった体がようやく動き出した。頭を振って強引に猿の手から逃れようとすると、その時頭上からアナウンスが降ってくる。
「――四度目はない。もう逃げられないって言ったでしょう?」
せせら笑う機械的な声。それを聞いた瞬間、鳴宮は感情を爆発させて右腕を振り上げた。
「……誰が、逃げるか!!」
直後、鳴宮の指が一匹の猿の目玉に突き刺さった。耳元で濁った悲鳴が響き渡り、目を押さえた猿が床を転げ回ると、彼はそのまま悲鳴に怯んだもう一匹の猿の鼻っ面を殴り飛ばした。
「――祓い屋ッ! さっさと来い!」
座席から立ち上がった鳴宮が叫ぶ。するとすぐに、支配から逃れた彼の声に呼応するように傍に二人の女がふっと姿を現した。
片や腰に短刀を差し、片や両手に札を持った彼女達は素早く辺りを見回すと鳴宮に視線をやって安堵したように肩を落とした。
「まだ無事ですね」
「クーちゃんが上手く手引きしてくれてよかった。……後は、私達に任せて下さい」
女――ささらは車内の惨状を目にすると思わず口を押さえたが、すぐに気を取り直したように起き上がろうとしていた猿に拳の一撃を食らわせた。
途端に悲鳴を上げる間もなく蒸発するように猿が消え失せると、目つぶしをされた方の猿も額に札を貼り付けられてあっという間に燃え尽きる。
「……これで終わりか?」
「いえ、元凶はまだ別に居ます」
「なに?」
「今の猿達はあくまで夢の末端でしょう……恐らく大本は」
「――逃がさない」
その時、茶々の言葉を遮るように頭上からその声は聞こえてきた。そして一瞬の間もなく前方車両と繋がる扉が開かれたかと思えば、今度はそこから更に三匹の車掌服を身に纏った猿達が現れてこちらに襲いかかってきた。
「な、増えた」
「キィィィィ!」
耳につく甲高い叫び声を上げながら、猿達は手にしている物――鋏、鋸、鉈を振り上げる。臨戦態勢を取るささらと茶々とは裏腹に丸腰の鳴宮はそれらの凶器を見て思わず後ずさったが、不意に視界に入った物を見て咄嗟にそれに手を伸ばした。
「借りるぞ!」
「え、待って下さいそれは」
彼はささらのベルト部分に差してあった短刀を奪う。焦るささらが止める間もなく短刀を鞘から引き抜いた彼は――その瞬間、静止したようにその動きを止めた。
止まったのは一瞬だけだ。
「あ、ああああアアアア殺す殺ス殺してやる!!」
「鳴宮さん!」
直後、彼は奇声を上げながら凄まじい勢いで猿達に斬りかかっていた。鋸を振り上げた猿の喉を一瞬にして横一線に引き裂くと、返り血を浴びながら傍に居た鋏を持つ猿を袈裟懸けに斬る。そして振り向きざまに腹を掻っ捌こうとした鉈を避けると、最後の一匹の口の中に短刀を押し込んで舌を切り落とした。
「殺す殺すコロ――」
「ささら様!」
猿が消滅しても鳴宮の暴走は収まらない。そのまま躊躇いなくささらに短刀を向けた彼は、猿達と同じように彼女を引き裂こうと目にも止まらぬ速さで刃を振り上げた。
「羽斬! しっかりしなさい!」
「――っ」
咄嗟に大声を上げたささらに、ほんの僅か鳴宮の動きが鈍った。そしてその一瞬で、ささらは拳を振り上げ鳴宮の右手を狙って振り下ろす。
寸前で鳴宮は避けようと後ろに飛び退こうとしたが、それよりも早くささらの狙いを理解した茶々が背後から彼に組み付く。
あまり力の強くない茶々を振り払うのは簡単だが、同時にささらの拳を避けるほどの余裕は無くなった。振り下ろされた拳が手首に当たり、鳴宮の手から短刀が滑り落ちる。
直後、彼は崩れ落ちるように倒れ込み、強かに顔を床にぶつけた。
「……忘れてたけど、そういえば羽斬って結構危ない刀だったよね」
「忘れないで下さい。ささら様だって平気な顔していますけど普段から体を乗っ取られているんですからね」
ささらが慎重に短刀――羽斬を鞘に収めて腰に戻す。最近は割と気軽に使ってしまっていたが、よくよく考えなくても妖刀だのなんだの言われる曰く付きなのである。
倒れた鳴宮は床で小さく呻いている。どうやらまだ意識はあるようだ。
「鳴宮さん、大丈夫ですか?」
「く……あ、頭が、痛い……なんだ、あれは……」
「勝手にささら様の物を奪うからそうなるんです。あれは下手に使うと廃人になりますよ」
「なんだその、やばいクスリみたいなの……」
鳴宮は頭を押さえながら酷く苦しげな顔で何とか起き上がる。手にしていた時間が短かった為最悪の事態は回避出来たようだが、それでもこの有様だ。ささらは改めて羽斬の力の恐ろしさを再認識することになった。
「うわ、血が」と顔にべったりと付いた返り血に心底嫌な顔をした鳴宮がふらつきながら立ち上がると、ささらは羽斬をしっかり握ったまま猿達が現れた前方の車両の方を見た。
「話を戻しますけど……恐らく猿達は今のようにまだ出てきます。元凶を絶たない限り」
「それで結局、元凶ってなんだよ」
「鳴宮様も先ほどから声を聞いていますよ」
「声? それって……あ」
「そうです。このアナウンスの声の持ち主、それが正真正銘の怪異"猿夢"でしょう……じゃあ、行きましょうか」
電車のアナウンスは車掌が行うものだ。猿達の服も同様である為、元凶はこの電車の車掌である可能性が高い。その車掌が何処にいるのか、ということだが……猿達が前方の車両から現れたということを考えると、そちらにいる可能性が高いだろう。
「鳴宮様は後ろに。先ほどのように決して無理に戦おうとなさらないで下さい」
「……分かった」
鳴宮が頷いたのを確認して、ささらと茶々は車掌を探すべく電車の中を駆け出した。
「また来ましたね!」
「羽斬っ、お願い!」
車内を前へ前へと走る。すると更に前方の車両からまた様々な凶器を持った猿達が現れ、ささらは走りながら羽斬を抜いて猿達が反応する前に一気に片付ける。
「すげ……」
「次、さっさと行くぞ」
一振りで血を払うと、ささらに取り憑いた羽斬は扉が開くのも待ちきれない様子で足で扉を蹴破って次の車両へと向かう。そうして更に次の車両に居た猿達が今度はささらを避けるようにして鳴宮に飛びかかったが、それは彼の隣に居た茶々の札によって叩き落とされ燃やされる。丸焦げになってぼろぼろと崩れ落ちる猿に鳴宮は吐き気を覚えたが、二人はそれに構わずに前へ前へと進んでいく。
いくつ車両を越えただろうか。明らかに最初に乗り込んだ時よりも長い車両に鳴宮が辟易して来た頃、ふと前方の車両の奥に乗務員室が見えた。扉のガラスには、車掌服の男が小さく映っている。
あの先だ。
「茶々!」
「ええ、援護はお任せを」
短刀を鞘に収めたささらが叫びながら男が乗る車両へと走る。そして乗務員室に飛び込もうとしたその時、ささらは急につま先の下の床が無くなってそのままバランスを崩して倒れそうになった。
「危ねえ!」
「うわっ……ありがとうございます」
咄嗟に鳴宮がささらの腕を掴み彼女を後ろへ引き戻す。しかし同時に足下の床が一気に横に裂け、乗務員室の扉の前で車両が分断されてしまう。
「あ!」
「逃げられます!」
乗務員室の方へ飛び移ろうにも、扉が閉め切られた向こう側に移ったところで足場がない。更に電車の外はまるでトンネルの中にいるかのように何も見えない暗闇で、一歩外に出てしまえばどうなってしまうか分からない。
微かに見えた車掌が勝ち誇ったように笑うのが見えて、鳴宮は酷く悔しい思いが込み上げて来る。ここまで来たのに元凶に逃げられるのか。そうしてまた鳴宮は此処に来ることになって、彼女の"死"は無駄になってしまうのか。
「もう十分だよ! 後はボクにまかせて!」
唇を噛みしめたその時、どこからか聞こえてきた声と共に目の前が真っ白に塗りつぶされた。
□ □ □ □ □ □ □
「……危なかった」
狭い乗務員室に一人残っている車掌姿の男――"猿夢"は、笑みを浮かべていた表情を崩して安堵したように肩を落とした。
猿夢からは逃げられない。例え二度夢から覚めても、その次は無いのだ。どんな凄惨な断末魔と死に様を見られるのか楽しみにしながら、二度はあえて逃がして恐怖心を煽る。
二度ならず三度も逃げ切ったのはあの男が初めてだ。他の人間を身代わりにしてまで逃げた男を追い詰めて、その顔が絶望に歪むのを期待していたというのに……そいつはとんでもないやつらを引き込んで来た。
突如現れたそれらに男は処刑人を向かわせたが、全て返り討ちに遭った。こんな事態は初めてで、猿夢は慌てて電車を無理矢理切り離して一人逃げ出したのだ。
「……次は、絶対に逃がさない。挽肉にするだけじゃ足りない。なんならもう一度あの女を目の前で殺して……くく、まとめて合い挽き肉にして猿の餌にしてやろ――」
「――次は終点、ワンダーランドー、ワンダーランドー」
「え?」
「お忘れ物のないようお気を付け下さいー」
何処からか、楽しそうな子供の声が聞こえてくる。此処は猿夢の中だというのに、一体誰だというのか。
男が顔を上げる。すると暗闇に包まれていた電車の外が、まるでトンネルから外に出たように徐々に光に包まれていく。
何も見えない。何が起こっている。
男が混乱している間に、電車がゆっくりと速度を落として止まった。
「ようこそー、ここは楽しい楽しいワンダーランドだよー」
ようやく光に慣れた男の目が映したのは、見たことのない光景だった。
電車の外に広がっているのは青空とカラフルな色合いの広場、奥には可愛らしい城まで見える。そして電車の真ん前に立って手を振っているのは、可愛らしくも何処か不気味な継ぎ接ぎだらけのクマの着ぐるみだった。
「な……なんだ、これは」
「いらっしゃい、猿夢さん。逃げるのに必死でボクの夢に入ったことにもちっとも気付いてなかったんだね」
「夢? 一体此処は何処だ! お前は何なんだ!?」
「だから此処はワンダーランドだよ? ボクはここの王様のクーちゃん! ……さあ、皆も一緒にお客さんを歓迎して上げて!」
にこにこと笑う着ぐるみが丸い手を上げて背後を振り返る。すると直後、今まで何もなかった空間に次々とこの場に似つかわしくない悍ましいものが現れる。
あちこちが腐敗したゾンビ、カチカチと歯を鳴らす巨大な芋虫、涎を垂らした怪獣。それらは現れるとすぐに電車に近付き、扉を引き剥がそうと周囲を取り囲み始める。
「や、やめろ!」
「じゃあ早速ゲームを始めようか。ルールは簡単、この夢の中から出られたら君の勝ちだよ!」
がたがた、ぎしぎしと扉が大きく軋む。今にも扉を壊しそうなゾンビ達に恐怖の表情を貼り付けた男を見て、クマの着ぐるみは何もせず楽しげにその光景を見守っているだけだ。
「別に恐がらなくてもいいよ? 夢から覚めればなんともないから。……まあ、覚める体があればの話だけど」
「ふざけるな! やめろ、早くこいつらを止めろ!」
「君は知らないと思うけどね、あの子は元々ボクのご飯だったんだ。よく美味しい夢を食べさせてもらってたのに、ここの所全然ボクの夢に来ないと思ったらこれだよ。勝手に人のご飯を奪うなんて酷いよね、食べ物の恨みは恐ろしいんだよー?」
扉の端が剥がれ始める。必死に男が扉を押さえるが、ゾンビが構わず大勢で扉に手を掛ける。恐竜が電車に噛みつき車体を歪ませる。巨大な芋虫が窓に貼り付いてガラスにヒビを入れる。
「だから、君が代わりにボクのご飯になってくれるよね?」
いただきます、とクマが着ぐるみの手を合わせた瞬間、壊れた電車の中へ一気に化け物達が雪崩れ込んだ。
すぐさま電車の中が何も見えなくなる。しかしその中からは、絶えず断末魔と何かを咀嚼する音が響き窓にべったりと赤いものが貼り付いた。
「……ごっくん。ごちそうさま、美味しかったよ!」
□ □ □ □ □ □ □
「戻って来た……?」
鳴宮が目を覚ますと、そこは眠る前に居たささら達の家だった。夢に入るにあたり、事務所の床で寝る訳にもいかなかったので移住区の方に布団を敷いて眠っていたのだ。
「……う」
続いて鳴宮の手を握って横に倒れるように眠っていたささらと茶々も目を覚ます。最初はぼんやりしていた彼女達だったが、すぐに我に返ると起き上がった鳴宮をまじまじと見つめ、どこにも怪我がないことを確認すると大きく息を吐いた。
「どうやら無事みたいですね、よかった」
「だが、あいつに逃げられて……」
「クーちゃんが後はまかせてって言ってたから大丈夫だと思いますけど……」
「もっちろん! もう大丈夫だよ!」
「うわっ!?」
その時、目の前の空間がふっと揺らぎそこから豚のような象のような動物が現れる。言うまでも無くそれは獏のクーで、彼はにこにこ微笑みながら前足でそっと腹に手をやった。
「猿夢は全部食べちゃったからもう居ないよ」
「ほ、本当か……」
「うん。だからもう君が狙われることもないから安心して眠っていいよ!」
よかったね、と言われた鳴宮は何とも言えない複雑な表情を浮かべる。目の前で元凶が消えた訳ではないのでどうにも実感が湧かず、そして逃げられたまま終わった所為で怒りのやり場が無くなり消化不良になっている。
うろうろと落ち着かない様子で視線を彷徨わせている鳴宮を見て、クーは何かを察したように一つ頷いて彼に近付く。
ぽん、と持ち上げた前足が項垂れている鳴宮の頭に乗っかった。
「もう大丈夫……だから、ゆっくりお休み」
「……」
ぐらりと鳴宮の体が傾く。忙しなかった視線は瞼に隠され、先ほどまで寝ていた布団に再び体を横たえた彼は、数秒もしないうちにすぐに眠り込んでしまっていた。
「クーちゃん、鳴宮さんは……」
心配そうに眠った鳴宮を見るささらに、クーは安心させるように微笑んで再び腹に手をやった。
猿夢は腹の中、クーが全て取り込んでしまった。つまり、猿夢の中にあったものは全てクーのものになった。あの残虐な猿達も、殺された人々も、そしてあの彼女の記憶の残滓も。
「きっと今頃、いい夢を見れてるよ」
□ □ □ □ □ □ □
「ただいま……」
疲れた体を引きずって、鳴宮は今日も自宅へ帰る。あのくそ上司早くどっかに左遷されろ、とぶつぶつ愚痴を呟きながら靴を脱いだ彼は壁に手をやりながら寝室へと向かい、布団の上に倒れ込んだ。
「おかえり、ご飯食べないの?」
「いらない……眠い」
「もう、そのままだと風邪引くよ」
誰も居ないはずの部屋で聞こえてきた女の声に、彼は何の違和感も持たずに返事を返す。重たい瞼に従うように目を閉じると頭上からため息が聞こえ、僅かに体が持ち上がったような感覚がした。
ばさり、と体の下にあったはずの掛け布団が体に被せられる。それを不思議に思い、彼は眠気を何とかはね除けるように寝返りを打って仰向けになる。
鳴宮と天井の間、そこには一人の女が微笑みと共にそこに居た。
「お前、は……」
彼女は。
その瞬間、彼の頭の中に電車に現れた女が過ぎった。呆然と自分を見ている男に、手首に大きな傷を残した彼女は少し困ったように笑う。
「……俺の代わりに、済まなかった」
「いいの、あなたが無事なら」
「ずっと気付かなくて、ごめん」
「それでいいのよ。一緒に暮らせて楽しかった」
「お前に助けられた。……ありがとう」
彼女に向かって伸ばした手が握られる。感覚はない。彼女はそれを少し寂しそうに、けれど何処か嬉しそうにして、そのままゆっくりとその存在を消していく。
最後に、酷く優しい声だけを残して。
「……お休みなさい、航」




