episode 16 悪夢(1)
※残酷描写注意
毎日、毎日、彼女は彼だけを見てきた。
毎日と言っても彼がこの部屋に居るのは殆ど眠っている時間ばかりだ。目覚ましに起こされてのろのろと起き出し、そして半目で朝食もとらずにふらふらと家を出て行く。そして夜遅くに帰ってきたかと思えば倒れるように布団に突っ伏す。彼女が見ているのは九割方彼の寝顔だった。
彼女はそんな疲れた顔をした彼を見て、しょうがないなと力を使って布団を掛けてやったり、散らかっているゴミをゴミ袋に放り入れたりと世話を焼く。彼が気付かなかったとしてもそれでいい。彼女がそれを行うのは存在を認められたいからではなく、ただただ彼の役に立ちたいからなのだから。
最初は違った。幽霊である彼女は生きている人間が妬ましくて恨めしくて、気が付いた時には自分の部屋だった場所に勝手に住み着いていた男が許せなかった。怯えさせたくて、追い出したくて鏡の端に映るように立ってみたり物を落としたりもした。……実際、彼女と同じ社畜だった彼には何の効果も無かったわけだが。
そうして脅かすのを諦めて何年も一方的に一緒に暮らしてきた。この部屋から出られない彼女はずっと彼だけを見つめてきた。
女はゆらりと宙に浮いた体を動かし、帰って早々気絶するように眠った彼を見つめた。
「航……好き、だよ。だから――」
半透明のその手が、彼の頭を掻き抱いた。
「あなたは、生きなきゃ」
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最近、夢見が悪い。
寝不足と疲労で痛い頭を押さえながら、男――鳴宮はふらつきながら今日も夜遅くに家へと帰る。
近頃いつにも増してろくに眠れていない。少し前までは癒やされるいい夢をよく見て眠るのが楽しみだったというのに、今はもうどんなに眠たくても寝てはならないと必死に自分に言い聞かせている。
一度目にその夢を見たのはいつだったか。
鳴宮はいつも通り終電を待って駅のホームに立っていた。人がいないホームで一人ぽつんと立ち尽くしていると、いつの間にか電車が目の前の線路に入って来ていた。
早く帰りたい。それだけ思いながら開かれた電車の扉から中へ足を踏み入れようとする。
「――この――に乗ると、恐ろしい――遭います」
その時、妙に雑音が混じったアナウンスが微かに鳴宮の耳に入ってきた。はっきりとは聞こえなかったそれは何を言っているのかよく分からず、彼は特に気にすることなくそのまま電車に乗った。
電車の中には数人の男女がぽつぽつと座席に腰掛けている。鳴宮も他の客とある程度距離を開けて椅子に座り、最寄り駅である終点まで眠ろうと膝に置いた鞄に頭を伏せた。
「――次は、活け造りー、活け造りー」
……は?
電車が走り始め、本格的に眠りにつこうとしていた彼の耳に聞き慣れないアナウンスが飛び込んでくる。聞き間違いかと鳴宮が重たい頭を持ち上げると、その時前方の車両から二人の人間が入ってくるのが見えた。
……いや、見間違いだった。それらは人ではなく、車掌の格好をして二足歩行で歩く二匹の猿だったのだ。
鳴宮は一瞬疲れも忘れてぽかんと口を開けながらその猿達を凝視する。他の客はというと、気付いていないのか寝ているのかまったく服を着た猿に反応することなくぼんやりと俯いているだけだ。
猿達が歯茎を剥き出しにして笑みを浮かべる。そしてその右手に小さな刃物を取り出したかと思えば――一番近くに座っていた男の体に、楽しげに楽しげにその刃を突き立て始めたのだ。
「っ!?」
瞬間、男の絶叫が車内を蹂躙した。
男の体が次々と切り裂かれる。赤黒い大量の血が座席から床に落ち、生きながらに壊されていく。
"活け造り"。まさしくその名に正しく、二匹の猿達によって人間が尊厳を奪われ、そして――叫び続けていた男の声が止まった。
強烈な血生臭さがねっとりと鼻につく。あまりの衝撃に目を離せずに全てを目撃してしまった鳴宮は、一気に込み上げてくる胃の中身をぶちまけてしまいそうになった。むしろ吐き出したかったのに、体はいつの間にかぴくりとも動かなくなり、悲鳴も嗚咽も出すことができない。
「――次は、えぐり出しー、えぐり出しー」
今すぐ逃げ出したいのに出来ない。そんな時、今度はまた違ったアナウンスが聞こえてきた。
男の傍にしゃがみ込んでいた猿達が立ち上がる。すると今度は刃物ではなく、何故かスプーンを手にしていた。ぴしゃぴしゃと血だまりを蹴るように歩く彼らは、次に近くに居た女性の前までやって来た。
目を逸らしたいのに逸らせない。鳴宮が必死で抵抗しているうちに、猿は女の両側から一つずつ持ったスプーンで彼女の両目をえぐり取った。
再び、鼓膜が破れそうな女の断末魔。まるで自分の目をえぐられたような錯覚さえしてしまいそうで、今にも狂ってしまう。
いや、いっそ狂ってくれと彼は懇願した。こんな光景を正気で見続けているくらいなら狂ってしまった方がましだ!
スプーンに掬われた両目が、ころりと床に落ちる。恐怖に彩られたままの女の瞳と、鳴宮は目が合ったような気がした。
「――次は、挽肉ー、挽肉ー」
またもやアナウンスが響き、猿達が動き出す。どこからか大きな鉄の機械を取り出し、二匹でそれを押して歩いてくる。
次に立ち止まったのは三番目に近かった男の目の前。――それは、鳴宮の前だった。
「っ」
悲鳴を上げようとしてもやはり声は出ない。今までの光景を考えれば次に自分がどうなるかなんて分かり切ったことだというのに、どれだけ逃げようとしても足はまったく動いてくれない。
機械が音を立てながら鳴宮に迫る。キキ、キャキャ、と猿達の耳障りな笑いが近付く。
来るな来るな来るな。こんな状況おかしい。きっと夢に決まっている。早く覚めてくれ、やめろ近付くな!
沢山の細かい刃が今にも鳴宮の頭を砕こうとする。挽肉なんて嫌だ! 逃げろ、動け、早く夢から――。
機械に押し込まれそうになったその寸前、今まで金縛りのように動けなくなっていた体がふっと軽くなるのを感じた。そしてそれと同時に、目の前に靄がかかり視界が真っ白に埋め尽くされていく。
――次は、あなたの番ですよ。
逃げられた。安堵した心に不意を打つように、その声は彼の脳裏に残された。
□ □ □ □ □ □ □
また同じ夢を見たのは、それから一ヶ月ほど経過しあの悪夢のことなど忘れかけた頃だった。
「っ!」
目を開けた瞬間傍に居た女性の目がくり抜かれたのを見て、一瞬にしてあの悪夢が鮮明に呼び起こされた。
相変わらず声は出ず、そして体は座席に腰掛けたままぴくりともしない。
「――次は、挽肉ー、挽肉ー」
また、あのアナウンスが聞こえてくる。また、あの猿達が鉄の機械を持ってくる。
鳴宮は必死に願った。夢から覚めろ、この前のように早く。
全てが一ヶ月前と同じように繰り返される。不気味に笑う猿が鳴宮をぐちゃぐちゃの挽肉にしようと彼の頭を掴み、機械に押しつけようとする。
「っ、やめろ!!」
前髪が機械に巻き込まれる直前、再び体が軽くなり僅かに声が出た。自由に動けるようになった体で咄嗟に頭を掴む猿の手を振り払うと、またあの時のように視界が白い靄に覆われておぞましい光景が消えていく。
「また、逃げるんですね。――今度こそは逃げられませんよ」
不吉なアナウンスが耳に残る。そして次に鳴宮が目を覚ますと、彼は冬だというのに全身汗びっしょりで布団から飛び起きた。
「はあ……はあ……」
ばくばくと心臓が煩い。息も絶え絶えで、鳴宮は落ち着けと自分に言い聞かせるように胸を押さえた。
一度目は、次はあなたの番だと言われた。そして今度は、もう逃げられないと宣告された。
では次は? ただの夢だと分かっていても、次も無事に戻ってこられるか分からない。
「……」
鳴宮の頭の中に、非常識な出来事に滅法強い彼女の姿が過ぎった。今まで何度か助けられた彼女に相談してみるか。しかし今まで邪険に扱って出来るだけ関わりたくないと避けて来た彼女に頼むのは虫が良すぎないか。
所詮は夢、連日の残業で疲れが見せたまやかし。いや、また何か人ならざる者に憑かれて本当に危ないのかもしれない。
二つの考えが鳴宮の頭を巡る。考えは纏まらないが、しかしそうして思考しているうちにも時間は経ち、会社に行く時間になってしまう。
急ぎ家を出て会社へと向かう。そうして慌ただしく日々を過ごしているうちに、彼の頭の中から再びあの悪夢は忙しさに押し流されて忘れられていった。
□ □ □ □ □ □ □
後悔がやってきたのは、それから二週間後のことだった。
電車、猿、女の断末魔。転がる二つの眼球。鳴宮はまた、あの場所へと来てしまったのだ。
全身に悪寒が走ると共に、彼の脳内にあのアナウンスが過ぎった。
"今度こそは逃げられませんよ"
「――次は、挽肉ー、挽肉ー」
キキキ、キキャ。甲高い声を出した猿がやって来る。今更後悔したって遅い。どうしてあの時もっと真剣に考えて、恥を忍んで彼女に助けを請わなかったのか。
どれだけ悔いても無慈悲に機械は近付いてくる。二匹の猿が両側から鳴宮の頭を掴み、今度こそ彼はアナウンス通りに挽肉にされてしまうだろう。
死ぬ。
明確な死と、生きたまま頭を潰される恐怖で何も考えられなくなる。
「――」
もう駄目だと鳴宮が目を閉じた瞬間、突如として鳴宮は横から突き飛ばされて体を傾けた。
「……え?」
目を開けた彼の視界に映ったのは倒れて横になった視界と、傍に置かれている鉄の機械、驚いた顔を浮かべる猿達、そして――今まで鳴宮が腰掛けていた座席の前に立つ、見知らぬ女の姿だった。
特別特徴のない、ただ左手首に大きな傷を残している女は倒れている鳴宮を振り返って薄く微笑む。その表情を見て、見たことがないと思っていた彼女の顔にどこか既視感を覚えた。
どこで彼女を見たのか。しかしそれを考える前に彼女は猿達に頭を掴まれ、そのまま鉄の機械に無理矢理頭を押し込まれる。
「あ」
ピシャアアア、と鮮血が吹き出て鳴宮の顔に掛かる。ごりごりと頭を潰す音と、どんどん機械に吸い込まれていく女の体。機械から床に落ちる沢山の赤黒い物。
あっという間に足の先まで潰された彼女は、人の形を失い機械から吐き出される。
鳴宮の、代わりに。
「あ、ああああああああっ!!!」
喉が壊れる程に叫んだ瞬間、三度視界が白く塗りつぶされた。
「――どれだけ逃げ続けても無駄ですよ。次こそ、終わりです」
鳴宮ははねるように飛び起きると、次の瞬間込み上げてくる吐き気に耐えきれずにトイレに駆け込んだ。
「う、あ……っ」
胃の中の物を全て吐き出す。中身が無くなっても、胃液まで残らず胃を空にする。胃酸が喉を焼き、嘔吐で生理的な涙が溢れる。
あの女のことを、鳴宮は知らない。知らないはずなのに、知っている。どこで見たのかも思い出せないというのに、毎日一緒に居たようなそんな気さえしてくる。
その女は、鳴宮の代わりにその身を捧げた。あんな人間とは言えないものになってしまった。
「……」
鳴宮はふらりと立ち上がる。いつもならばそろそろ会社へ行く支度をしなければならない時間だというのに、今の彼に時計など目に入らない。口をすすいだ後、彼は最低限の荷物だけを持って家から飛び出した。
涙で滲む視界を乱暴に拭って走る。車がないことをもどかしく思いながら駅へ駆け込み、まだ通勤ラッシュには少し早い、いつもとは逆方向の電車に乗って一度だけ行ったことのあるあの場所へと急ぐ。
早く早く、一刻も早くと電車を下りた鳴宮が足を動かす。運動不足で息も出来ないほど苦しいというのに走るのを止めず、そうして彼は転がり込むようにその扉を開けた。
「うわっ、誰……って、鳴宮さん?」
開かれた扉の向こう側では、眠そうな顔で朝食を食べる女と、そんな彼女に茶を運ぶ割烹着姿の少女がいる。
「祓い屋……頼む」
崩れ落ちるように膝をついた鳴宮が両手を床に付けて頭を下げる。堪えきれなくなった目から涙がこぼれ落ち、嗚咽混じりに彼は叫んだ。
「助けて、くれ!」




