episode 14 私は誰?(1)
「……え、はい……はい……ありがとうございます。それじゃあ明日……お休みなさい」
ささらは電話の向こうに向かって一人軽く頭を下げてから通話を切った。そして顔を上げると少し困ったような表情を浮かべながら携帯の画面を眺める。そこに表示されているのはささらにとってとても見慣れた名前である。
「電話、柊様でしたか?」
「うん、明日ご飯に連れて行ってくれるって」
「よかったじゃないですか」
「……うーん」
電話をしている間は気を使って少し離れた場所にいた茶々が話しかけて来る。柊に食事に誘われたということで、普段ならばもっと喜んでいそうなものなのだが……予想外に難しい顔をしているささらに茶々は首を傾げた。
「どうかしましたか?」
「なんか最近、柊さんよくご飯誘ってくれるなーって」
「いいことじゃないですか。何か問題でも?」
「問題、というか……ちょっと申し訳ないというか」
近頃柊はよくささらを誘ってくれるのだが、その金はいつも柊持ちだ。
「今更では? 以前からよく奢ってもらっていたじゃないですか」
「いつもは仕事の時で最初から報酬に含んでたし……」
しかし最近は仕事の依頼が無い時も頻繁に食事に誘われる為、人のお金で食べるご飯が一番美味いとでも言いたげなささらも流石に申し訳なくなって来たのである。
ならばささらが払えば解決する話なのだが、そう申し出て見たところ「だったら先に家賃払えよ」と真顔で言われて何も言い返せなかった。取り立て時のチンピラモードは二割増しで怖い。
「まあ家賃を滞納しないのが一番なのですが……でしたら、何か別にお礼を考えてみてはどうですか? 流石に柊様も日頃のお礼ならば受け取っていただけるでしょうし」
「日頃のお礼……うん、そうだね。そうしてみようかな」
ささらは何度か頷くと時計を見上げてソファから立ち上がる。もう夜も遅いのでそろそろ寝る支度をしなければ。
「ところで……一応聞くけど明日茶々は」
「わたくしのことはいいので、お二人で楽しんで来てくださいな」
「……そう?」
「ええ」
茶々が妙に嬉しそうににこにこと笑みを浮かべる。そういえば以前から柊の依頼の時は殆ど彼女が着いてくることはなかった。事故物件ならばささら一人で大体対処できるということもあるが……まさかその頃から無自覚なささらの気持ちを察して二人にしてくれていたのだろうか。
「茶々、おやすみ」
「おやすみなさいませ」
疑問が残りつつもささらは自室に戻る。そして思考を切り替え、早速柊への日頃の礼をどうするか頭を悩ませ始めた。
まず高価なものは買えないので真っ先に候補から消す。そもそも柊が欲しいものとは何だろうかと考え……結果何も思い当たらなかった。よくよく考えてみれば、ささらは柊のことをあまり知らないのだ。不動産業を営んでいて顔が広く、煙草や地縛霊など物件の価値を下げるものが嫌いで、案外世話好き。ぱっと思いつくのはこれくらいだ。好意を抱いているというのに細かい嗜好は殆ど分からない。強いて言えば確か日本酒が好きだと言っていたか。
「お酒……でも日本酒なんて種類まったく分からないしな……」
ぶつぶつと独り言を呟きながら寝間着に着替える。そして前のボタンを止めようと視線を落としたところで、ささらは不意に視界に入ったそれを見て小さく「あ」と声を上げた。
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翌朝、早くから起き出した茶々はいつも通り手を合わせてタヌキから人型に変身すると、早速身支度を整えてから洗濯を始めようと動き始めた。
本日祓い屋の依頼は無し、ささらのバイトも休みだ。柊に食事に誘われたと言っていたので、それを見送ってから買い物に行ったり会合に顔を出してみようか。
今日の予定を頭の中で考えながら廊下を歩く。そして台所を横切ろうとした茶々は、不意にその床に何かが転がっていることに気付いた。
「……は? え、ささら様!?」
真冬の早朝で暗かったので気付くのに遅れた。足下に横たわっていたそれは、床に俯せになって倒れているささらだったのだ。
茶々は大慌てで近寄ってささらを抱き起こす。眠っているように目を閉じている彼女は布団も掛けずに廊下で横たわっていた為体が冷え切っている。
「ささら様! 起きてください!」
「う……ん……」
茶々の呼びかけに徐々にささらの意識が覚醒していく。やがて薄らと赤い目を覗かせたささらは、感情の抜け落ちたようなぼんやりとした顔でゆるりと頭を動かした。
「寒いのにこんな場所で寝て……何やってるんですか、また風邪を引いたらどうするんです」
「……」
「ささら様? 聞いてますか?」
ささらは茶々の声に答えず、相変わらずぼうっとした様子でゆっくりと体を起こす。そしてようやく茶々の顔を見上げたかと思えば、彼女は不思議そうに首を傾げて予想外の一言を口にした。
「誰?」
「……え?」
「ささらって何? 誰かの名前?」
「……」
一瞬時が止まったかのように静寂が訪れる。
言葉もなく動きもせず……どれだけの時間が経っただろうか、不意に茶々は驚くほど俊敏な動きで走り出すと電話に飛びついて素早く短縮ボタンを押した。
「めぐる様! ささら様が、ささら様がー!!」
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「ご自分の名前は分かりますか?」
「分かりません」
「では、あなたの住所は?」
「……さあ?」
「こちらの方々はどなたかご存じですか?」
「初めて見ます」
容赦なく告げられた残酷な言葉に、傍に居た茶々とめぐるは愕然として肩を落とした。
ささらの様子がおかしいと気付いた茶々はすぐさまめぐるに助けを求め、そして迎えに来た彼と共にささらを病院へと連れて行った。
運良く今日はあまり混み合っていなかったようで早く医者に診察を受けることが出来たのだが……ささらが医者の質問に答える度に二人の顔色はどんどん青くなるばかりだった。
「どうやら、あなたは一部の記憶を失っているようです。日常生活を行う為の知識や言語には問題ないようですが、対人関係……あなた自身と周囲の人間の記憶がぽっかりと抜け落ちてしまったようです」
「私……記憶喪失なんですか」
「はい。特に外傷は見当たりませんでしたが……ご家族の方は何か心当たりなどは」
「いえ……昨晩までは普通でした。ですが朝起きたら廊下に倒れていまして」
「では、その間に何かしらのことが起こったということになります。どこかで頭をぶつけたか……他に考えられるのは何か大きな精神的なショックを受けたか」
「精神的なショック……」
茶々とめぐるが窺うようにささらを見るが、本人は何も状況が分かっていないように首を傾げているばかりだ。記憶を失ったからだろうか、その表情はいつもよりも幼く見える。
「治る見込みはあるんですか」
「こればかりは薬や治療でどうにかなるものではありません。一回寝たらあっさり思い出すケースもあれば、一生忘れたまま新しい人生を歩む方も居ます」
「……」
「とにかく、ひとまずは経過観察ですね。もう少し患者さんに質問があるので、ご家族の方は一度待合室の方でお待ちください」
医者に言われるがまま、半ば放心状態で二人はささらから離れて診察室を出る。そして待合室の椅子に座ると、示し合わせたかのようにお互いを窺い同時に重たいため息を吐いた。
「記憶喪失、か。茶々、本当に昨日の夜までは何もなかったんだよな」
「はい。特に何事もなく」
「外傷がないから、そんなに記憶が飛ぶほどの怪我をしたとも思えないんだが……別に何か悩んでたとかもないよな?」
「ええ、そんな様子は……あ」
「どうした?」
「いえその……つい最近の話ではないのですが、ちょっと」
茶々が言葉を濁すと、めぐるは眉を顰めて身を乗り出した。
「何でもいい。何か心当たりがあるんなら言ってくれ」
「……」
「茶々」
「少し前に、ある記者がささら様に接触して来たんです」
「記者?」
「はい。……ささら様のことを、姉殺しの妹などと罵って」
めぐるの表情が苦虫を噛みつぶしたように大きく歪む。
「あの時の記事を書いたやつか」
「恐らくは。真実を暴くなどと正義感気取りなことを言って、まだささら様が犯人だと決めつけていた愚か者です」
「そいつの所為でささらは精神的に追い詰められて記憶を失ったって?」
「それは分かりません。ですが、ささら様は今までだって様々なことで傷付けられたり追い詰められたりしています。……正直、全てを忘れたくなったっておかしくありません」
「……」
めぐると茶々の脳裏にいつものささらの顔が思い浮かぶ。今でこそ祓い屋をして自立し頑張っているが、そこに辿り着くまでは様々なことがあった。恐らくそこには茶々もめぐるも知らない苦しみだってあったはずだ。
そしてその最たるものは、やはりあの事件――かがりが殺された時のことだろう。
「なあ、茶々。……このまま思い出さない方が、あいつにとっても」
「わたくしは嫌ですよ」
「茶々」
「嫌です。……だってささら様、やっと生活も落ち着いて、それに信頼できる方も現れて、よく笑うようになったんです。こう言っては何ですが……あの事件の前よりもずっと」
「……」
「本当にずっと思い出さないというのなら、その時は覚悟を決めるつもりです。でも、できるなら」
「分かった。……悪かったよ、俺が間違ってた」
「いえ、めぐる様が悪いのではないです。めぐる様のお気持ちも、分からないでもないですから」
茶々はそこまで言って黙り込む。そしてめぐるもまた、それ以上何か言うのを憚られて口を閉ざした。
二人とも願うことは同じだ。ただ彼女に幸せになってほしい。それだけのことが中々上手くいかない。
結局二人は、看護師に連れられてささらが戻ってくるまでずっと黙ったままだった。
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「今更ですが改めて。わたくしは茶々と申します」
「茶々」
「今車を運転されているのはめぐる様、ささら様のお兄様です」
「めぐるお兄さん。……えっと、それで私がささらっていう名前なんだよね」
「はい、あなたの名前は鬼怒田ささらと言います」
「鬼怒田、ささら……」
病院からの帰りの車の中、改めて自己紹介を始めた茶々に、ささらは忘れてしまった名前をしっかりと覚え直そうとぶつぶつ名前を繰り返し呟く。
記憶喪失になったささらだがその精神状態は比較的落ち着いている。何も覚えていないのだから、ことの重大さもあまり実感できていないのかもしれない。
「ところで……茶々、ちゃん?」
「呼びにくいでしょうし茶々で結構ですよ」
「じゃあ茶々、茶々と私はどういう関係だったの? なんで様なんて付けるの?」
「このしゃべり方はわたくしの癖ですので。……さて、ささら様との関係ですか」
「友人兼助手兼保護者ってとこじゃないか? もしくは母親」
「助手? 保護者?」
後部座席に座るささら達をちらりとミラーで確認しながらめぐるが口を挟むと、ささらはきょとんと目を瞬かせて首を傾げた。
友人はまだ分かる。ささらから見れば茶々は中学生にしか見えないが、そのくらいの年の差の友人くらい珍しくないだろう。しかし助手とは何の助手なのか、それに保護者や母親などという言葉は更に理解しがたい。
「え、っと……私が茶々の保護者ってこと?」
「逆だよ逆。お前と茶々は一緒に暮らしてて、家事やらなんやらいっつも世話になってるんだ」
「一緒に暮らして……? そもそも助手って何の助手なの? 私何か仕事してたの?」
「ああ、それは――っと、もううちに着くな。色々説明もあるし、詳しいことは後にする」
車が減速し、とある建物の傍にある駐車場に停められる。茶々に促されてささらが車を降りると、めぐるは車をロックしてからささらの元へ回り込み、傍に立つ建物を指で示した。
……どことなく見覚えがあるような無いような、不思議な気持ちになる。
「ここがお前達が暮らしてる事務所であり家だな」
「此処が……」
「ひとまず入りましょう。めぐる様、お時間は大丈夫ですか」
「ああ、まだ大丈夫だ。こんな状態のささらを置いていくのは心配だが……」
「他の患者様もいらっしゃるので仕方が無いですよ。ささら様はわたくしにお任せ下さ――」
「ようやく帰って来たか」
「え?」
三人が話しながら事務所の玄関へと足を進める。しかし彼らがそこへ辿り着く前に、先に玄関の傍の壁に寄りかかるようにしていた強面の男が居た。
僅かに苛立ちの込められた言葉を口にした男はおもむろに壁から背を離して三人へと近付いてくる。無意識に逃げ腰になり後ずさったささらだったが、男ががしりと彼女の頭を掴む方が早い。
「約束忘れてどこほっつき歩いてた? 予定が入ったんなら連絡一つ寄越せねえのかお前は」
「ひぃ、いったたたた!」
「柊様! 止めて下さい!」
容赦なく指で頭を締め上げる男――柊にささらは全く状況が理解出来ず痛みに悲鳴を上げる。そしていつもはにこにこと二人を見守っている茶々が血相を変えて叫んだことで一瞬柊の力が弱まると、ささらはすぐさま逃げ出してめぐるの背中にしがみついた。
自身を掴む手が震えていることに気付いためぐるが安心させるように手を重ね、少々眉を顰めて柊を見据える。
「柊さん、ですね。お久しぶりです。すみません、何かささらと約束をしていたのかもしれませんが、それどころではなかったんです」
「それどころではない?」
「ささら様は今記憶を失ってるんです!」
「は?」
「それなのに頭に衝撃を与えるようなことをして……! 今まではコミュニケーションだと見逃していましたけど、そもそもささら様にああやって暴力を振るうのは――」
「ま、待て……記憶喪失? ささらが?」
「だからそうだと言っているじゃないですか!」
きゃんきゃん吠える茶々が柊に掴みかかる。体は子供でしかない茶々の手を振り払うのは簡単なことだが、しかし柊も混乱しており茶々にされるがまま、目を白黒させてささらを凝視することしかできない。
「ささら、俺が誰だか分からないのか」
柊に話しかけられたささらが飛び上がらんばかりに肩を揺らして酷く怯えた表情を浮かべる。震えた声で「……ご、ごめんなさい」と告げるとすぐさまめぐるの背に顔を隠したささらに、柊は酷く動揺して言葉を失った。
柊がささらに怯えられることはさほど珍しくない。しかしそれは本気ではなく、こんな風に心底恐怖を抱いたような目を向けられたことなど出会ってから一度も無かった。
その事実を自覚すると、柊は重たい石を体の中に入れられたような苦しさを覚えた。
言葉が出てこない。柊が酷くショックを受けているのが分かったのか、茶々も彼に掴みかかるのを止めて怯えるささらを気遣うように窺った。
「ささら様……」
ぐううううううううぅ。
息がし辛いような重苦しい雰囲気。しかし不意に、それを見事にぶち壊す低音が四人の間に響き渡ったのはそんな時だった。
柊が、茶々が、そしてめぐるが音の発信源に視線をやる。三人の視界には、心底恥ずかしそうに腹を押さえ「お腹、空いた……」と消え入りそうな声で口にしたささらの姿があった。
「……まあとりあえず、飯行くか」
めぐるの提案にぶんぶんと首を上下に振ったささら。そんな彼女を見て、記憶が無くなる前のささらが頭を過ぎった三人は、その変わらない姿に小さく安堵の息を吐いた。




