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祓い屋(物理)の日常  作者: とど
二章
21/63

episode 10 あなたは誰?(2)


「まぶし……え?」


 顔に当たる眩しさにささらが目を覚ますと、彼女は階段の踊り場で倒れるように横になっていた。

 窓から入ってくる光に目を擦り体を起こすと、ささらは此処はどこだときょろきょろ辺りを見回す。そもそもなんでこんな所で倒れていたのか、というところまで考えたささらは覚えている限りの記憶を思い出し、やがて「あ!」と大きな声を上げて立ち上がった。


「此処……小学校だ」


 意識が途切れる前のことがまざまざと蘇る。ささらは茶々達と共にこの小学校へ行方不明になっていた小学生を探しに来たのだ。そしてその件は無事に解決し、最後に他に厄介な霊が居ないか確認する為に校内を回っていた。


 そして……ささらはこの場所で突如何かに背後から体を引っ張られ、気付けば今だったのだ。確かあの時背後にあったのは、と彼女は踊り場に設置されている大きな鏡に目をやった。


「……もしかして、茶々が言ってた鏡の噂が」


 仮にそうだとして、しかしささらはどうして元の場所にいるのだろう。引っ張り込むのに失敗した? 無意識のうちに反撃して撃退した? ……だがそう考えると、茶々がささらを放置してそのまま帰った理由が分からない。

 腕時計に目をやると早朝で、きっとまもなく児童達も登校して来るだろう。訳は分からないがこのまま此処にいる訳にはいかないと、ささらは怪我がないことを確認してひとまず事務所に帰ることにした。


 そうしてとぼとぼと事務所へと歩く。時間が経つにつれてだんだんと賑わっていく街並みを見ながら、ささらは「あ……今日バイトだった」と思い出して疲れた体が余計に重たく感じた。


「帰ったらすぐにご飯だけ食べてまた仕事に……え?」


 もう事務所まであと少し、という所でささらはぴたりと足を止めた。ちょうど彼女の目の前を横切るように、見慣れた着物の少女が通り掛かったからだ。


「茶々!」

「……え?」

「もう、流石にあんな場所に置いていかないでよ。起きたら誰も居なくてびっくりして」

「あ、あの? どちら様ですか?」

「え?」

「わたくしの名前を知っているということは、以前どこかでお会い致しましたか?」


 慌てて彼女を呼び止めたささらは、振り返った彼女が告げた言葉にぽかんと口を開いた。


「ど、どちら様って……なに冗談言ってるの?」

「冗談、と言われましても……申し訳ありませんが、わたくしはあなたのことを存じ上げないのですが」


 きっぱりとそう言った茶々は本当にそう思っている様子で「むしろあなたはどうしてわたくしの名前を知っていたのですか」と逆に尋ねてくる。

 どういうことなのか。目の前の少女は茶々であって茶々でないのか。ささらがぐるぐると混乱して言葉を失っていると、茶々の目がだんだんと不審なものを見るように鋭くなって行った。


「怪しい……それにその霊力、一体何を企んで――」

「茶々? うちの前でどうかしたの?」


 茶々がささらを睨み付けて威嚇するように札を出した所で、不意に事務所の扉が内側から開かれた。

 そこから現れたのは一人の女性だ。すらりと身長の高い黒髪の女性で、不思議そうに首を傾げて茶々を呼んだ彼女を視界に入れた瞬間、ささらは限界まで大きく目を見開いた。


「な……んで」

「かがり様!」


 茶々がその名を呼ぶ。そしてそれを肯定するように、女は二人の元へと歩み寄ってくる。


 なんで、どうして。この人が此処に居るわけがない。


「怪しい人間がいるんですよ! わたくしの知り合いのように近づいて来て」

「……っ」


 ささらは踵を返して一目散に逃げ出した。「逃げるなんて卑怯です!」と怒る茶々のことなど気にする余裕もなく、とにかくその場から逃げるように足を動かした。


「待って」

「え」

 

 しかし、必死で走っていた足がささらの意志と反して勝手に止まる。それでも走ろうとしたが、どうしても右足が動かない。

 ささらが右足に目を落とすと……そこには一枚の札が貼り付いていた。


「よく分からないけど茶々の知り合いなの? それとも……敵?」


 動けないささらの前に女が立つ。じっと見定めるようにささらを見る彼女を間近で見上げたささらは……その瞬間、一筋の涙を流した。


「……ねえさん、なんで、生きて」

「え?」


 唇を戦慄かせてそれだけ言ったささらに、目の前の女性――鬼怒田かがりはこてんと首を傾けた。




   □ □ □ □ □ □ □




「さ、座って」

「……」


 あれから、かがりはまじまじとささらを数秒見つめた後に「ちょっと上がって行ったら?」と彼女の腕を引いて事務所――祓い屋ささらの事務所であるはずのそこへと入っていった。

 しかし外観は同じでも中はまったく違う。できるだけ中古で安く買ったささらの事務所の家具とは違い、目の前に置かれているのは中々値が張りそうな、しかし品の良いシンプルなソファやテーブルだ。壁時計も棚に置かれた置物だってどれもセンスが良く、ささらは同じ部屋だというのにこの差は、と思わず項垂れてしまった。


 ちなみに茶々はというと、ささらをこの家に上げることに難色を示していたものの、かがりの「この子は大丈夫だと思う、勘だけど」という何とも曖昧な発言に呆れた顔をして「それじゃあわたくしは帰りますから」と言って事務所を出て行ってしまった。


「帰る? 此処に住んでないんですか?」

「ええ。此処は私が一人で住んでるけど」


 それがどうかしたのか、とかがりが尋ねると、ささらは無言で首を横に振って考え込むように視線を落とした。


 ここは紛れもなくささらの事務所と同じ場所に位置している。しかし住んでいるのは姉であり、そして茶々は別の場所で暮らしている。

 その茶々は何故かささらのことを知らず、そして何より他に――重大なことがある。


 ささらはちらりと目の前に座ったかがりを窺う。高い身長も、長い黒髪も、そしてそのめぐるに似た容貌も、全て自分の姉である鬼怒田かがりと同じだ。


 ただ一つ違うのは――ささらの姉は、既に亡くなっているということだった。


「それで、あなたの名前は?」

「……ささら、です」

「へえ、ささらちゃん。……なるほど、鬼怒田ささらちゃん?」

「え!?」


 がた、とテーブルを揺らして立ち上がったささらをかがりは「やっぱりそうなんだ」と当たったことを喜ぶように笑った。


「な、なんで分かって」

「だってさっき、ささらちゃん私のこと姉さんって言ったでしょ?」

「それはそうですけど、でも……」

「信じると思わなかった? 確かに私に妹は居ないわ、いるのは兄と弟だけ」

「……妹が、いない」


 “この”かがりはささらのことを知らない。かがりだけではない、茶々だってささらのことを知っている様子はなかった。

 だというのに――ささらを知らないはずのかがりは、“妹”を見てにっこりと微笑んだ。


「でも、あなたにとって私が姉なら、私にとってもあなたは妹になるわ」

「何でそんなあっさりと……」

「そうね……いくつか理由はあるの。例えばさっきあなたが私のことを姉と呼んだ時、とても嘘を吐いているように見えなかった。それに……ささらちゃんから何故か私の霊力を感じるから、かな」

「霊力……あ!」


 ささらは首に手を回すとそこに掛かっていた朱色のお守りを取り出した。


「ああ、それから感じてたのね」

「これは……姉さんが私にくれたもので」

「なるほどね。ささらちゃんの知っている私は、随分とあなたのこと大事に思ってたんだ」

「そう、ですかね」

「それだけ強く守りの力を込めているからね。後は……勘かな」

「勘?」

「信じられない?」

「いえ……私が知る姉さんも、よく同じことを言っていたので」


 ささらの姉は昔から第六感に優れていた。第六感だけではない、霊力の量こそささらには劣るがそれでも一般的な霊能力者よりも多く、そして何よりぶん殴ることしかできない彼女と違って使い方も上手かった。札もお守りも作るのは得意で、茶々に札作りを教えたのもかがりだ。


「そういえばまだちゃんと自己紹介してなかったね。知ってるかもしれないけど私は鬼怒田かがり。祓い屋をやってるの」

「祓い屋……」


 それも姉と同じだ。祓い屋として沢山の人や妖怪を助け、時に害をなす悪霊を祓っていた。……ささらが憧れた、彼女そのものでしかない。


「ささらちゃん、何があったのか、あなたが分かっていることを教えてくれる? きっと力になるわ」

「……はい」


 ささらは順を追ってこれまでのことを話し始めた。小学校の事件からこの場所に至るまでを一つ一つ思い出しながら説明していくと、全て話し終える頃には「なるほどね」とかがりは大きく頷いた。


「大体こうなった経緯は分かったわ」

「本当ですか!? 流石姉さん……」


 ささらはちっとも状況が分からないというのに、かがりは話を聞いただけで理解したらしい。やっぱり姉はすごい、と思うと同時に、ささらは自分と姉との実力の差を思い知らされたようで胸にちくりと何かが刺さったような感覚がした。


「とは言ってもね、私にはヒントがあったようなものだから」

「ヒント?」

「うん。……ささらちゃんよく聞いて。此処は、あなたが居た世界とはまた違った世界、所謂並行世界よ」

「並行世界……って、パラレルワールドってことですか?」

「そう。似ていて、それでいてどこか異なった世界。どこかで枝分かれした世界のことよ。だからあなたが知ってるのは私とは別の私ってこと」

「……」

「実はね、この世界でもその事件……小学生が四人行方不明になった事件はあったの。ささらちゃんと同じように、こっちでは私が警察から依頼されてね」

「え? 三人じゃないんですか?」

「こっちの世界では四人だったわ。それにもう一つ、既に退治してしまったけど、その鏡に関する怪異も存在していた。その怪異の情報はしっかり調べてあったから、ささらちゃんがこっちに来た理由も分かったってこと」


 同じ事件がこの世界にもあり、そして解決したのはかがりだという。元の世界と似ているようで、違う部分がちらほら見えてくる。


「あの鏡の怪異は、鏡に映った人間を取り込んで本人に成り代わろうとする。そして鏡の中に放り込まれた人間はどこかの次元へ投げ出される。それは何もない場所かもしれないし、怪異がうじゃうじゃしている場所かもしれない。そして、ささらちゃんが取り込まれた次元が此処だったってこと」

「私、運がよかったんですかね」

「それもあるけど……ささらちゃん、さっきも言ったけどこの世界の私に妹は居なかったわ。鬼怒田ささらという名前の人間は存在していない」

「……私が存在しない世界」

「そう。そもそも同一の人間は同時に同じ次元に存在できない。ささらちゃんは、この世界にあなた自身が存在しなかったからこそ、この場所に来られた」

「……」


 ささらが存在しない世界だからこそ此処に来た。茶々やかがりが自分のことを知らなかったことが酷くショックだったのに、この世界でなければささらは存在できなかったというのだ。


「……あ」

「どうしたの?」

「今更なんですが、じゃあ元の世界では今頃……」

「鏡の怪異がささらちゃんに成り代わっているかもしれないわね」


 ささらの顔色がさっと青くなる。

 存在を成り代わられる。今まで当たり前にささらが居た場所を奪われる。そんなこと……とても耐えられることではなかった。

 あの場所は、ささらの周りに居てくれる人たちは――彼女が何より求めて来て、ようやく手に入れたものなのだ。誰にだって渡すわけにはいかない。


「す、すぐに戻ります! ……って、どうやって戻れば」

「もう一度鏡の中に入って元の次元まで行くしかないわ。ただ、普通に考えれば数え切れないほどある次元の中で元の世界を見つけるのは不可能。闇雲に探そうとしても当たることはないと思う」

「……じゃあ、私帰れないんですか」

「普通はって言ったでしょう? ささらちゃん、あなたやっぱり運が良いわ。あなたは元の世界までの道標を持っている」

「道標?」

「そこ、何か入ってるでしょ」


 かがりがささらの腰に巻かれた大きなウエストポーチを指さす。ささらの唯一の荷物で、この中に入っているのは――。


「あっ、羽斬!」


 急いでポーチを開けて、その中にぎりぎり詰め込まれていた短刀を取り出す。これは小学校の事件の際に最終手段として持ってきたものだ。


「すごい力を持った刀ね。それだけ強い元の次元への繋がりがあれば、きっとささらちゃんを導いてくれる」

「羽斬が……でも、この刀かなり危険なものなんですが」

「大丈夫大丈夫、その子随分ささらちゃんのこと気に入ってるみたいだから」

「……それも勘ですか?」

「そう!」


 力強く頷いたかがりに、ささらは少し呆れながらも信じようと思った。以前月見にも同じことを言われていたのもそうだが、姉の勘が外れたのを見たことがなかったからだ。


「それじゃあ行こうか」

「小学校に行けばいいんですか?」

「うん、入ってきた鏡じゃないと帰れないと思うから」


 そして、何か持って行くものがあるのか大きな鞄を持ったかがりに連れられてささらは事務所を出る。先ほど違和感を持たなかったのだから当然なのだが、別世界だというのに全く変わらない街並みが不思議だ。


 小学校へ向こう道すがら、ささらはかがりと一緒にこの世界と向こうの世界との違いを話し出す。


「そっちの茶々はどんな感じなの?」

「私の助手をしてくれてます。札やお守り作りをしてくれたり家事をしてくれたり、すごく助かってます」

「そっちの茶々は札が作れるんだ? この世界のあの子はそういうの得意じゃないのよね」

「え、そうなんですか?」

「前に教えたこともあったんだけど『わたくしにはちょっと』って。……あ、そういえばささらちゃんの世界に私は居るみたいだけどめぐるは居る? 私の弟、双子なんだけど」

「はい、めぐ兄さんもちゃんと居ますよ」

「めぐるがお兄さんかー、変な感じ。じゃあ結婚はしてる?」

「結婚? いえ、兄さんは全然そんな感じは……え? もしかしてこの世界では……」

「うん、めぐる結婚してるんだ」

「ええっ!?」


 平然と言われた言葉にささらは今日一二を争うほどの驚きを見せた。確かにめぐるはもう二十七歳で、医者で、容姿も性格だって悪くない。結婚していてもおかしくないのだが……。


「ふふ、ささらちゃん寂しい?」

「そういう訳ではないですけど……あの、相手はどんな人で」


「お? 鬼怒田、外で会うのは珍しいな」


 ささらがめぐるの結婚相手を問いただそうとしたその時、不意に二人の背後から声が掛かった。妙に聞き覚えのある声、そして同じ名字であるため無意識のうちにささらもかがりと同時に後ろを振り返る。


「……あ」

「柊さん、こんにちは」


 視線の先に居たのはささらのよく知る人間、柊だった。かがりに軽く挨拶をした柊はそのまま彼女と何かを話し始め、ささらはそんな二人を愕然とした表情で見ていることしかできなかった。


「悪いな引き留めて」

「いえ、それじゃあ」


 ささらが言葉を失っている間に会話は終わり、柊はさっさと離れていく。そして戻ってきたかがりはささらの様子に不思議そうな顔をして「どうしたの?」と首を傾げた。


「あの、柊さんと知り合いなんですか……?」

「うん、うちの事務所のオーナーだからね」


 確かにささらの事務所と同じ建物なら、こちらの世界でも柊が所有しているということは分かる。分かるのだが、それだけにしては気安いやりとりをしているように見えた。


「ああ、それは祓い屋の顧客でもあるからね」

「それは、事故物件とか」

「それが殆どかな」


 やはりそうなのか、とささらは肩を落として色々な感情が籠もった息を吐き出した。

 この世界にささらは居ない。だからこそ柊の依頼を受ける祓い屋が別に居るのは当たり前だ。

 だというのに、ささらはそれがどうにも……嫌だと思ってしまった。「お前の実力を買ってるんだ」と言ってくれた柊はあの人ではない。だけどそれでも。


「……ささらちゃん、あの人のこと好きなの?」

「え……!?」

「やっぱり。ほら、顔赤くなってる」

「ち、ちが」

「大丈夫大丈夫、柊さんと私は仕事関係でしか会ってないし」

「だから違うって!」


 ささらが大きな声を出して否定してもかがりはけらけら笑うだけだ。

 確かに柊はささらにとってとても大事な人だ。ささらを拾ってくれた恩人で、祓い屋として頼りにしてくれて、家賃を滞納する度に恫喝してくるが「さっさと飯行くぞ」とご飯に連れて行ってくれたりする。


 柊だけは、周りとは何の関係もなく出会った。兄妹でもなく知り合いの友人でもなく仕事関係でもなく、唯一何のしがらみもない状態で知り合ったのだ。だからこそ、そんな彼が姉と知り合いだったということに何とも言えない気持ちになった。

 

「……ま、ささらちゃんが違うって言うのならそれでもいいけど、着いたわよ」

「あ」


 ささらがうんうん考え込んでいる間に、目の前には既に無々月小学校があった。授業中なのか校庭には誰もおらず、二人はこっそりと足を忍ばせて校舎に入って件の階段の踊り場へとやってきた。


「鏡から異世界に行くには定番なものがあるのよ……ほら、これ」

「鏡……あ、合わせ鏡!」

「正解」


 鏡の前に来た所でかがりは鞄の中から大きな鏡を取り出した。そしてそれを踊り場の鏡の前に置くと、お互いの鏡の中に数え切れないほどの鏡が映し出された。


「ここから別の次元へ行くことができるわ」

「ありがとうございます!」

「いいのいいの、もうこの私にとってもささらちゃんは妹なんだから」


 わしゃわしゃ、とまるで動物を撫でるかのようにかがりがささらの頭を撫でる。その撫で方は昔姉にしてもらったのとそっくりで、思わず泣きそうになった。

 もう一度、こうして姉に頭を撫でられることがあるなんて思いもしなかった。


「姉さんありがとう……行ってきます」

「行ってらっしゃい、ささら」


 名残惜しく思いながらがかりの手から離れたささらは、もう一度目に焼き付けるように姉の姿を見つめてから鏡の中へゆっくりと手を伸ばした。

 瞬間、鏡の表面に水を打ったかのように波紋が生まれる。ささらは息を呑んで、そのまま鏡の中へと飛び込んで行った。






「……何で生きて、か」


 ささらが消えていった鏡を見つめながら、かがりは小さな声で呟いた。

 ささらの言動から、恐らく向こうの世界の自分は既に死んでいるのだろう。かがりはそれ理解したものの、そのことを気に掛けることはなかった。


「やっぱり、この勘は間違いじゃなさそうね」


 ただ思ったのは……結局、どの世界でも自分は死ぬのだなということだけだった。




   □ □ □ □ □ □ □




 鏡の中は、真っ暗な闇の中だった。

 前も後ろも右も左も分からない。狭いのか広いのか、どこまで広がっているのか分からない空間だ。

 そして……どこからともなく獣の唸る声や、女の甲高い笑い声、そして悲鳴も耳に入ってくる。とても安全な場所には思えなかった。


「……羽斬」


 ささらは右手に持った短刀を両手で持って目の前に掲げると、祈るように目を閉じた。


「姉さんや月見さんが言うように、本当に私を気に入ってくれているなら……お願いだから、力を貸して」


 刹那、暗闇の中から狼のような獣がささらに襲いかかった。鋭い牙が彼女に迫り、今にも食いちぎろうと大きな口を開く。



 ――しかし、それよりもずっと早く鞘から引き抜かれた羽斬が暗闇に同化していた獣を一閃した。


 ザン、と斬り捨てた鋭い音と共に狼の断末魔が暗闇に響き渡る。そしてそれに触発されたように、周囲に潜んでいた気配が一斉にささらへと向かった。


 その時、ささらは笑っていた。赤い目は楽しげに細められ、口元は堪えられないとばかりに口角を上げている。




「――任せとけ」



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