縋った眼差しの正体は
「おねーさん、着替えとシャワーありがとう」
シャワーから上がってきた彼が少し大きめの服を着て、ふわりと笑いながら現れた。
「……どういたしまして」
男性物のサイズなんて分からなくて、大きめのを選んでしまったから、これで大丈夫なのかと不安になってしまい
「…服、大きいわよね……」
ついそんなことを言ってしまった。けれど、そんな不安は
「ん?このくらいゆるーく着れるほうがおれ好きだよ」
ゆったりとした雰囲気を纏いながらふわりと無邪気に笑う彼によってどこかへ消えてしまった。
その笑顔は本当にどこまでも子供みたいで、頬が緩みそうになってしまう。……駄目よ、まだやることがあるわ。
「それならよかったわ。……さ、早く座って。ドライヤーするわよ」
「……おねーさん、そのくらいひとりで出来るよ。子供じゃないし」
私の前までやってきた彼が少しむくれた顔をした。
「…そうよね。ごめんなさい」
勝手に子供扱いして、色々やりすぎてしまったわ。私よりも年下に見えるとはいえ子供なわけないもの。気をつけないとだめね……。
「謝らなくていーよ。…おねーさんが色々してくれるのはうれしいし」
目の前で優しく微笑まれ、鼓動が跳ねる。
「…それなら、よかったわ」
「うん。それよりおねーさんもシャワー浴びなよ」
「……え、えぇ。そうするわ…」
どうしてうるさいのか分からない胸を抑えながら、私は逃げるようにお風呂場へ向かった。……やっぱり、疲れているんだわ。そうじゃなかったら、こんなに心臓がうるさくなることなんてないもの。疲れているから、感覚がおかしくなって変なことになっているだけ。……早くシャワーを浴びて寝る支度をしなくちゃ。あ、彼の寝る場所を考えないと。家に布団なんてないし…。……一日くらいソファで寝ても問題ないわよね。えぇ、きっと大丈夫よ。私はソファで寝て彼にはベッドで寝てもらいましょう。
シャワーを終え、リビングへ戻ろうとすると、中から声が聞こえてきた。少しドアを開けて様子を伺うと彼が誰かと電話をしているようで、邪魔をしないようにと、ドアを閉めようとしたところで彼の声が聞こえてきた。
「おねーさん入っていいよ」
「ごめんなさい、邪魔したわよね…」
「ううん。もう終わったから平気。……おねーさん、ここ座って」
そう言いながらローテーブルとソファの間をトントンと彼が叩く。
「え…?」
「こっちきてよ。おねーさん」
少し大人びた優しい眼差しに引き寄せられるように、私は彼の指した所へ座った。後ろのソファに彼が座った音がして、彼に問いかける。
「…何をするつもりなの?」
「んー?ドライヤー。おれがやる」
そう言いながら、まだ濡れている私の髪に彼の指が触れた気がして、微かに感じたその感覚が気になって落ち着かない。
「自分で、できるわ…」
こんな状態でドライヤーなんてされたらもっと落ち着かなくなりそうと思いそんな言葉を口にすると
「えっと、泊めてもらうお礼…みたいな。全然足りないけど、おれにできるのはこのくらいだから」
背中越しでもわかるくらい弱々しくて、それでいて本当にこれしかないかのように切実な声が聞こえてきた。顔は見えないけれど頭の中にしょんぼりとした彼の表情が浮かんできて
「それなら……お願いするわ」
最終的に頷いたのだった。
「まかせて」
ドライヤーの風が肌に触れる。よく知るはずのその風が、いつもよりあたたかく感じた。指で髪をとかれる感覚がくすぐったくて落ち着かない。そして、そわそわしたまま数分が過ぎていき─────。
「終わったよ。…おねーさんの髪さらさらだね」
「…そう、かしら……」
「うん」
そんな返事の後にへへっと嬉しそうに笑う声が聞こえて、いつまでも私の髪を彼が触り続けた。恥ずかしさから勢いで立ち上がった私は、その場から離れようとした。けれど後ろから何かを引っ張られた気がして振り向くと、私の服の裾を彼が掴んでいた。
「…どうかしたの?」
ソファに座ったまま私を見上げる彼。その目は、公園で会った時の彼とよく似ていた。私に縋るような…何か訴えかけるようなそんな眼差し。
「……おねーさんに、お願いがあって………」
不安げに瞳が揺れる。それと同じくらいの不安が彼の表情には浮かんでいた。そんな顔を見せられて、彼の話を聞かないなんて選択肢は消え、私は彼の隣に座った。
「お願いってなんなのかしら?」
「……んーと、まずは…うん、自己紹介」
「自己紹介…?あ、そういえばしてなかったわねお互い」
「うん。おれからする。……おれは、冴島 璃来」
「素敵な名前ね」
私がそう言うと、彼は少し驚いたような顔をした。
「…………」
「……なにか変だったかしら?」
「…ううん。なんでもない。おねーさんの名前、教えて?」
なにか誤魔化されたような気がしたけれど答えてくれない感じがして深くは聞かないことにした。
「私は、木乃恵 杏香よ」
「…杏香さん。きれいな名前だね」
「…あ、ありがとう…」
突然、下の名前で呼ばれて驚いてしまう。けれど彼といるのは今夜だけ。そう思えばどんな風に呼ばれてもいいと軽く流した。
「それで?お願いってなんなのかしら?」
私がそう聞くと、彼はうーんと唸りながら言葉を探していた。少ししてようやく彼が口を開く。
「おねーさん、やっぱりおれのこと知らないよね」
「……え?」
どこかで会っていたのかと思ったけれど、そんな記憶はなくて戸惑ってしまう。けれどそんな戸惑いは彼の言葉によって吹き飛ぶ。
「おれ、モデルやってるんだ」
──────モデル?
「あと、最近は演技もやってるから俳優業も」
演技…俳優……?
あまり触れてこなかった世界の言葉に思考が止まってしまう。
「おねーさんの部屋テレビないからそんな気はしてたんだ」
「テレビ……あ、そうね……。昔からあまり見てこなかったから、買わなかったの」
頭の中はぼんやりとしていたけれど彼の言葉にはなんとか答えることができた。
「あなた…芸能人だったの……?」
「うん。一応、そんなかんじ。それで……ここからが本題なんだけど───。……おねーさん?」
私の様子に気がついたのか、小首を傾げながら彼の顔が迫ってくる。
「……!だ、大丈夫よ。ちょっとびっくりしただけ…。話を続けて」
驚きはしたけれど彼を見ればすぐに納得できる話だった。背も大きいし顔立ちもしっかりしているもの。芸能界にいるって言われて不思議に思うわけないわ。そうよ。きっと私の鼓動が跳ねたのだって、そういう人達特有のオーラみたいなものにあてられたせいだわ。そんな風に一人で納得して今は彼の話を聞くことに専念しようと切り替えた。
「そう?…じゃあ本題。実は、最近ストーカーがいて。おれの物盗んだり家に変なもの届いたりしてて」
ストーカー…その言葉を聞いた瞬間、縋っていた彼の姿を思い出して、胸にチクリと針が刺さったように痛む。
そんな人がいなければ彼があんな顔をしなくてすんだはずよね……。
「おねーさん?……おれ、いまは平気だよ。怖いとかなんにもない」
「…それなら、いいけれど……。ごめんなさい。話の腰を折ったわね。続けて平気よ」
「うん。…ありがとうおねーさん」
ふわりと優しく笑った彼に無理をしている様子はない。
ここにいて少しは安心してくれてるってことよね。そう思えたおかげか、針の痛みは薄れていた。
「えっと、それで…しばらく家に帰っちゃダメってなって、ホテルで過ごすはずだったんだけど……」
その言葉の続きを待っていたけれど彼はなかなか口を開こうとせず、言うのをどこか躊躇っている様子だった。仕方なく私から問いかける。
「……はずだったってことは、そうじゃなくなった理由があるのよね?」
「…うん。おれが、ホテルで過ごすの断ったから」
「どうして断ったの?ホテルにいた方が安全でしょう」
「だって……ホテルは落ち着かないから。あそこは泊まる場所で、帰る場所じゃないから」
彼の目が再びぼんやりとしたものになる。けれどすぐにふわりとした雰囲気を纏って話を続けた。
「それをマネージャーに言ったら、友達の家に泊めてもらえばいいって言われて。でもおれ、そんな友達いないから、どーしようかなって考えてたら疲れちゃって…それで公園で休んでたんだ。そしたらネコがいて、おねーさんが現れて」
そう言いながら嬉しそうに笑い、彼が私を見つめた。
「だから、えっと……そうだ!おれ、野菜切るとかならできるよ。あとドライヤーするとかもできるし…掃除は…あんま得意じゃないけどおねーさんがやれって言うならやるし、あとは……えっと─────」
「……そんな回りくどい言い方しないではっきり言いなさい」
「………今夜だけじゃなくて、おねーさんともう少しいたい。少しの間だけでいいから……おれをおねーさんのそばにおいてください」
まっすぐに私を見つめる彼の瞳はとても切実なものだった。縋るのとはまた違う。けれど何かを…帰る場所が欲しいと訴えかけているような眼差しだった。
「……はぁ。掃除くらいはしてもらうわよ」
「…!おねーさん、それって……」
「どのくらいになるのかは分からないけれど、ここにいていいわよ」
「────! おねーさん……!」
彼の表情が一気に明るくなり
「ありがとう…!!」
ぱあっと笑ったかと思えば
「───────!!!」
彼は私に抱きついてきた。
「い、いきなり…なに、して…………」
「ありがとうおねーさん。ほんとにありがとう」
そう耳元で囁かれ、鼓動が騒がしくなる。
「だ、抱きついていいとは…言ってないわよ……」
「へへっ。だってうれしくて。…おねーさんに断られたらどーしようって思ってたから」
私から離れた彼があどけない顔で笑う。
「…はぁ。まったく……嬉しいのはもう分かったから、いきなり抱きつくのは禁止よ。いいわね?」
「…はーい」
ほんと、子供みたいね。なんて微笑ましく思っていると
「あ、もう一個お願いがあるんだけど……。おれ、おねーさんと一緒に寝たい」
またしても思考が止まってしまうような言葉が聞こえてきた。
「一緒に……寝る…?」
「うん。いつもはぬいぐるみぎゅってすると眠れるんだけど、今日はなんも無いし。おれ、なんかそばにないと眠れなくて……」
「だ、抱き枕にはならないわよ…?」
「そんなことしないよ。ただ、おねーさんと一緒の布団に入って寝たい。……ダメ?あったかくてすぐ眠れるよ」
甘えるような視線に『眠れない』という言葉。そんなこと言われたら断れないじゃない……。
「……分かったわ。一緒に、寝ましょう」
「ほんとにいーの?」
「……えぇ」
「…おねーさん、ありがとう。おれのお願い聞いてくれて。……じゃあ、はやく寝よ。おれもう眠い」
「その前に歯磨きでしょう?ほら、行くわよ」
「あ、そうだった。わーい、おねーさんとはみがき〜」




