6話 それでも俺は信じる
なんとか無事に、セレストは家に帰ることができた。
どういうわけか後ろから青年が追いかけてくる気配はなく、それがかえって不気味だった。
玄関を開けると、彼の母親が出迎えてくれた。
しかしセレストは何も言わずに、そそくさと自分の部屋に入ってしまった。
明るい我が子らしくない行動に、母親は戸惑いを隠せない様子だった。
しかも出掛けるときに持っていた荷物を持たずに帰宅したのだから、尚更だろう。
セレストは山の中で起きたことを思い出しながら、布団の中に包まった。
さっきから体の震えが収まらない。
手足の先も冷たく、真冬の雪山から半袖で帰ってきたような状態だった。
加えて首の圧迫感もなかなか癒えず、少しだけズキズキと痛んでいた。
(どうして……俺を殺そうと?
俺が鬱陶しかったのか?)
しかしどんなに考えても、答えは出なかった。
逆に寒気がどんどんひどくなり、体調は悪化していく一方だった。
そんな中、ドアをノックする音が聞こえた。
「入るね?」
そう言って入ってきたのは、温かい紅茶が入ったティーポットを持った母親だった。
彼女はそっとテーブルにお茶を置き、セレストがいるベッドの隅に座った。
そして優しく、息子の頭を撫でた。
「熊に会ったの?」
「……」
優しい声に、セレストは返事できなかった。
名前も知らない脱走兵らしき人物に首を絞められただなんて、怖くて言えなかった。
よく考えてみれば、どうして怪しい青年と仲良くできたのか不思議で仕方ない。
でも素直に言えば、何か本当に取り返しがつかないことになる気がしてならなかった。
母親はセレストの沈黙を質問の肯定と捉えたらしく、そっと息子を抱き寄せた。
そして少し声を震わせながら、彼の背中を擦った。
「……無事でよかった、本当に。
しばらく一人で山に入っちゃだめよ?」
母親は息子をあやした後、そっと彼から離れて立ち上がった。
その後紅茶を入れて一口飲ませ、「おかわりはここね」とだけ言って部屋を出た。
残されたセレストは、お茶の水面に映る風景を眺めながら、ある日に友達から言われた話を思い出した。
——ドッペルゲンガー。
自分にそっくりな人物が、自分を殺して成り代わろうとする話。
あの青年は、セレストになりたかったのだろうか?
そのために本物を殺さないといけなかったのだろうか?
セレストの首を絞めていた時の彼の顔。
今までの引きつった笑顔とは全く違う、異常な笑みだった。
苦しみ、痛み、悲しみ、怒り……
そんな複数の感情がぐちゃぐちゃに混ざった状態で、無理やり笑っていた。
その顔は狂気じみていて、悪魔が嘲笑しているかのようだった。
辛い時こそ、笑う。
セレストが青年に教えたことだ。
もしかして、本当は殺したくなかったんじゃないか?
でも手をかけないといけない何かしらの理由があったのではないか?
そう考えると、全ての辻褄が合った。
「だったら……彼と、話さないと」
怖くないといえば嘘になる。
でももし彼の胸の内を聞くことができれば、力になれるかもしれない。
あんなに優しい青年のことだ、今罪悪感で押しつぶされそうになっているに違いない。
だったらできた溝を埋めて、何か譲歩できることがあるかもしれない。
「……行かないと」
セレストはベッドから出て、部屋の窓を開けた。
玄関に向かえば、母に遭遇することは避けられない。
熊が出た山においそれと息子を送り出すわけがないだろう。
だから彼は窓から家の外に出た。
そして人目をできるだけ避けて、さっき通った道を逆走した。
目指すのはもちろん、青年がいるあの山だ。
もう日は暮れ始めていた。
今すぐ引き返したほうがいいのは分かっていた。
でも今すぐに青年に会わないと、彼と寄りを戻せないような気がしてならなかった。
手ぶらのまま、セレストは必死に山の中を走り続ける。
青年が生活している、あのテントに向かって。
距離はそこまで遠いというわけでもないので、完全に日が沈むまでには帰れるはず。
青年にあったらまず、ここに来るまで何があったのか聞かないと。
そしてどうしてセレストになる必要があるのか答えてもらい、一緒に何ができるか考えないと。
そうすればきっと、全部やり直せる。
そんなことを考えていると、セレストはいつの間にか竹林の中にいた。
「はぁ……はぁ……!」
テントが見えてきた。
近くには呆然と立っている青年の姿もある。
彼は気配を感じ取ったのか、ゆっくりとセレストの方を向き驚愕していた。
無理もない。
さっき殺そうとした相手が戻ってきたのだから。
セレスト自身も、これが普通ではないことは分かっていた。
それでも、セレストは青年の元へ走り寄る。
だがおかしい。
青年は、明らかに顔が青ざめていた。
信じられないものを見て、それが現実だと受け入れられない様子。
最初セレストは、もう自分に会いたくないだけかと思った。
しかし青年は、予想外の言葉を叫んだ。
「——後ろ!!!」
「え?」
振り返ると、目の前に黒い壁があった。
いや違う。
毛が生えている。
これは生き物だ。
恐る恐る見上げると、大型の熊が右手を大きく振り上げていた。
飢えた目と、ナイフのように鋭い爪。
それがセレストを完全に捉えていた。
いつから?
どこから追いかけてきた?
なぜ気づかなかった?
そんなことがセレストの頭を駆け巡り、体が硬直してしまった。
青年は大慌てで刀を取り、熊に向かって一目散に駆け出した。
「やめろぉぉぉぉぉ!!!」
青年は悲痛な叫びを上げながら、刀を大きく振りかざした。
だが熊の動きのほうが、ほんの少しだけ早かった。
熊は、セレストの喉を掻き切った。




