第九話 花婿の事情
ボリスが扉を押し開けた。
後ろには村の男が二人いた。彼らは中の様子を見て、すぐに足を止めた。ボリスだけが、一歩前へ出る。
彼はナターリヤを見つけると、ほっとしたような顔をした。
「ナターリヤ。よかった。怪我はないか」
近づこうとした。
ナターリヤは一歩下がった。
その動きで、ボリスの顔が変わった。
「どうして逃げたんだ。みんな心配している」
ナターリヤは答えられなかった。
ボリスは声を柔らかくした。
「大丈夫だ。怒っていない。母も混乱しているだけだ。戻ろう。式は少し遅らせればいい」
ユリアは言った。
「式を遅らせるだけで済むと思っているの」
ボリスは初めてユリアを見た。
「あなたは?」
「ユリア・フォン・ヒルシュアイス」
彼は驚き、すぐに礼を取った。
「貴族のご令嬢でしたか。失礼しました。しかしこれは、私どもの家の問題です」
「そうね。だから問題なの」
「どういう意味でしょう」
ユリアはナターリヤを見た。
白い衣装の袖口が、彼女の指の中で皺になっている。逃げてきた娘の手は、まだ逃げきれていない。
「あなたは彼女を妻にしたいのではないわ」
水車小屋の空気が冷えた。
プロコップが小声で言った。
「お嬢様、少し手心というものを……」
ユリアは続けた。
「あなたは、自分の母親を世話し、家を守り、あなたを責めず、村人から見ても申し分のない嫁が欲しい。そこにナターリヤという人間がいることを、都合よく見落としている」
ボリスの顔が赤くなった。
「違います。私はナターリヤを大切に思っています」
「大切に思うことと、相手を使わないことは別よ」
「使うだなんて」
「あなたの母親は病気。家は人手が足りない。あなたは優しい息子でいたい。だから妻を迎える。違う?」
「それは、家族になるということです」
「家族という言葉に、どれだけの労働を隠すつもり?」
ボリスは言葉を失った。
ナターリヤは俯いたまま泣いている。ミーシャは姉の手を握った。村の男たちは気まずそうに視線を逸らした。
プロコップが前へ出た。
「シュナイダー殿」
「何ですか」
「私の名はプロコップ・フォン・フライケイラー。こう見えて、実に由緒正しく、そこそこ不運な男でもある」
ボリスは戸惑った。
「今、その話が必要ですか」
「必要です。なぜなら、必要のないことを挟まなければ、この場は刺し傷だらけになる」
ユリアは少しだけ彼を見た。
プロコップは帽子を胸に当てた。
「率直に言えば、あなたは悪人には見えない」
ボリスの顔に、少しだけ安堵が浮かんだ。
「ですが」
プロコップは続けた。
「悪人でないことは、相手を不幸にしない保証にはなりません。私は自慢ではありませんが、悪人でなくても人に迷惑をかけた経験が豊富です」
「本当に自慢ではないわね」
ユリアが言った。
「今は黙っていてください。私は珍しく善良そうなことを言っています」
プロコップはボリスに向き直った。
「あなたは花嫁に逃げられた。恥でしょう。腹も立つ。村人の目も痛い。分かります。私など、犬から退却しただけで子供に一生言われる」
「犬と一緒にしないでください」
「犬は重要です」
プロコップは真顔だった。
「ただ、花嫁が逃げたということは、少なくともあなたの家は、彼女にとって逃げ場のない場所に見えていたということです。そこだけは、少し考えた方がよい」
ボリスはナターリヤを見た。
「本当に、そんなに嫌だったのか」
ナターリヤは唇を震わせた。
「あなたが嫌だったんじゃない」
「なら」
「でも、あなたの家に入るのが怖かった。お母様の世話も、家の仕事も、全部できるって言われて。できなければ、私が悪いことになる。あなたは優しく言うの。無理しなくていいって。でも、無理しないで済む形を、何も用意してくれなかった」
ボリスは黙った。
その沈黙は長かった。
外で小川の音がしていた。古い水車は動かない。ただ、流れだけが昔と同じように続いている。
ボリスはゆっくり言った。
「僕は、君なら分かってくれると思っていた」
「何を?」
「母のことも、家のことも。僕が一人で大変だったことも」
ナターリヤは涙を拭いた。
「私は、あなたを助けるために生まれたんじゃない」
その言葉は弱々しかった。
けれど、初めて彼女自身の声だった。
ボリスの肩が落ちた。
彼は怒るかと思われた。だが怒らなかった。困ったように、笑い損ねたような顔をした。
「そうか」
プロコップが小声で言った。
「今の『そうか』は悪くない」
ユリアは黙っていた。
ボリスは深く息を吸った。
「今日の式は、取りやめる」
村の男の一人が驚いた。
「ボリス、それは」
「黙ってくれ」
ボリスは初めて、はっきりした声を出した。
「僕が決める」
それから、ナターリヤへ向き直った。
「君が戻りたくないなら、無理に連れ戻さない。だが、村へは戻った方がいい。ここに一人でいても危ないから」
ナターリヤはミーシャを見た。
「母さんに、何て言えば」
プロコップが言った。
「真実を全部言う必要はない」
ユリアは彼を見た。
プロコップは肩をすくめた。
「何です。私がそう言うと、不審ですか」
「少し」
「傷つきました」
「慣れているでしょう?」
「慣れても痛いものは痛い。借金取りの催促と同じです」
彼はナターリヤに向き直った。
「母親には、式は延期になったと言え。あなたが今すぐ嫁に行ける状態ではない、と。事実だ。全部ではないが、嘘でもない」
ユリアが静かに言った。
「真実を、相手が聞ける大きさに切るのね」
プロコップは少し照れたように顔を背けた。
「料理の話です。大きすぎる肉は喉に詰まる」
その時、ミーシャがプロコップの袖を引いた。
「逃げ足卿」
「だから、どいつもこいつもなぜその名で呼ぶのだ」
「姉ちゃん、逃げてもいい?」
プロコップはしゃがみ込んだ。
彼は子供と話す時だけ、少し目線を下げる。それをユリアは初めて近くで見た。
「いい。ただし、逃げる時は、誰かに行き先を言っておけ。完全に消えると、心配した者が追ってくる。追ってくる者が増えると、逃げるのが難しくなる。これは実に実戦的な助言だ」
「逃げ足卿みたいに?」
「私は追われても逃げ切るが、お前たちは足が短い」
ミーシャは笑った。
ナターリヤも、涙のあとで少しだけ笑った。
水車小屋から村へ戻る道は、来た時より長く感じた。
広場では、村人たちがまだ待っていた。花輪は風に揺れ、教会の扉は開いたままだった。ボリスの母は椅子に座り、顔を強張らせていた。
ボリスが前へ出て、式の延期を告げた。
村はざわめいた。誰かが不満を言い、誰かが同情し、誰かが面白そうに耳を寄せた。噂はもう走り出している。
ナターリヤは母親らしい女に抱きしめられ、すぐに叱られた。泣きながら叱る母と、泣き疲れた娘。その横でミーシャが、何とか姉をかばおうとしていた。
ユリアはそれを少し離れて見ていた。
プロコップは彼女の横に立った。
「完全な解決ではありませんな」
「当然よ」
「おや。お嬢様にしては諦めがよろしい」
「人の一生は、村の広場で一度に片づかないわ」
「実に正しい。しかも今日は刺さり方が浅い」
ユリアは彼を見た。
「褒めているの?」
「私としては命がけです」
風が吹いた。
教会の花輪から白い花びらが一枚落ちた。それは地面に触れる前に少し舞い、泥の上へ静かに伏せた。
ボリスは母のそばへ戻り、何かを話していた。母は怒っていた。だが、ボリスは逃げなかった。少なくとも今は。
ナターリヤは家族に囲まれていた。自由になったわけではない。村の目も、家の声も、明日からまた彼女の上に降ってくるだろう。
それでも、今日だけは花嫁の衣装のまま、祭壇へ連れて行かれずに済んだ。
プロコップが言った。
「さて、お嬢様。我々は出発しましょう。ここに長居すると、祝いの酒が不幸の酒になり、そのうち誰かが私に歌を求める」
「歌えるの」
「歌えますが、人類への配慮として控えています」
馬車へ戻る途中、ミーシャが走ってきた。
「逃げ足卿!」
プロコップは振り返らなかった。
「聞こえません」
「ありがとう!」
プロコップは足を止めた。
そして、振り返らずに片手だけ上げた。
「礼はいらん。銅像を建てろ。今回は水車のそばだ。勇敢な姿で」
「逃げてる姿?」
「前進している姿だ!」
ミーシャは笑って戻っていった。
プロコップは広場の端に停めていた馬車のそばへ戻ると、《名誉》の手綱をほどいた。栗毛の馬は、何事もなかったように草を噛んでいる。
「名誉。待たせたな。主人が世の不条理と戦っている間、お前は呑気に草を食んでいたわけだ」
《名誉》は鼻を鳴らした。
「よろしい。沈黙は反省の証と受け取る」
「たぶん反省していないわ」
ユリアが言うと、プロコップは御者台へ上がりながら答えた。
「名誉は私に似て、反省を内に秘める性質なのです」
「外に出した方がいいと思うわ」
「出しすぎると安くなります」
馬車が村を離れるころ、夕方の光が麦畑に斜めに落ちていた。村の鐘が一度だけ鳴った。結婚を告げる鐘ではない。ただ、日暮れを告げる鐘だった。
ユリアは窓の外を見ていた。
リーザは静かに座っている。何か言いたそうだったが、言わなかった。彼女は少しずつ、言葉を待つことを覚えているのかもしれない。
御者台のプロコップが、肩越しに声をかけた。
「お嬢様」
「何」
「今日の件ですが」
「ええ」
「私は大変働きました」
「そうね」
プロコップは驚いたように振り返りかけた。
「今、認めましたか」
「前を見て」
「はい」
彼は慌てて前を向いた。
「しかし認めましたな」
「認めたわ」
「では、報酬に加算を」
「しないわ」
「なぜです。私は花嫁の逃亡問題という、契約外の精神的重労働を」
「あなたは自分で言ったでしょう。巻き込まれた者だと」
「巻き込まれた者にも謝礼は必要です」
「あなたにはパンをあげるわ」
プロコップは少し考えた。
「白パンですか」
「黒パン」
「……交渉の余地は」
「ないわ」
「では、その黒パンに薄くバターを」
「考えておく」
プロコップは満足げに頷いた。
「交渉成立ですな」
ユリアは彼を見た。
「あなたは本当に、逃げることを悪いと思っていないのね」
プロコップは手綱を少し緩めた。
《名誉》の歩みが、わずかに遅くなる。
「悪い逃げ方はあります」
「たとえば?」
「自分だけ逃げて、後ろの扉に鍵をかける逃げ方です」
ユリアは黙った。
「よい逃げ方もあります」
「たとえば?」
プロコップは前を見た。
「鍵を開けてから逃げる。できれば、足の遅い者を先に逃がす。もっとできれば、追手が来る方角について嘘をつく」
「最後があなたらしいわ」
「私は嘘をつく時も実用的です」
夕風が、彼の外套を揺らした。
ユリアは少しだけ目を伏せた。
逃げること。
正しいこと。
助けること。
それらは、彼女が思っていたほど、きれいに分けられるものではないらしい。
プロコップは相変わらず卑怯だった。虚栄心が強く、金に汚く、犬やガチョウにも警戒する。けれど彼は今日、逃げたい花嫁に、逃げてもいいと言った。泣いている娘に、靴を履けと言った。
それは、妙に現実的な優しさだった。
馬車は西へ進んだ。
空の端には、薄い赤が広がっていた。遠い森は黒く沈み、その上に一番星が小さく出ていた。
プロコップが不意に言った。
「お嬢様」
「今度は何」
「今日の私は、少し立派でしたか」
ユリアは窓越しに彼を見た。
「少しね」
プロコップは胸を張った。
「では、後世の歴史家にはそう伝えてください。プロコップ・フォン・フライケイラー、リントドルフの花嫁騒動において、少し立派であった、と」
「少し、を大きく書かれないように注意しておくわ」
「お嬢様は本当に、名誉に対して節約家ですな」
「あなたは浪費家すぎるのよ」
プロコップは笑った。
その笑いは、いつものように芝居がかっていた。けれど、少しだけ軽かった。
馬車の車輪は、乾きはじめた道を静かに転がっていった。




