第八話 花嫁の心境
水車小屋は、村の外れの小川沿いにあった。
もう使われていないらしく、水車は半分ほど腐り、苔に覆われていた。水は細く流れているのに、輪は動かない。止まったまま濡れている木は、どこか年老いた獣の背のように見えた。
周囲には湿った草が生い茂り、昼だというのに、そこだけ少し暗かった。
扉の前で、ミーシャが立ち止まった。
「姉ちゃん」
中から返事はなかった。
ユリアが扉に手をかけると、古い木が低く軋んだ。
薄暗い小屋の奥に、白い花嫁衣装の娘が座っていた。
ナターリヤ・アイヒナー。
髪は栗色で、編み込まれた花は半分ほど崩れていた。白いドレスの裾は泥で汚れ、靴は片方だけ脱げている。膝の上で両手を固く握りしめ、頬には涙の跡が残っていた。
美しい娘だった。
だが今は、その美しさがかえって痛々しい。白い衣装は祝福のためではなく、彼女を逃げられない場所へ縫いつける布のように見えた。
「姉ちゃん」
ミーシャが駆け寄ろうとすると、ナターリヤは首を横に振った。
「来ないで」
声はかすれていた。
ユリアは数歩だけ近づいた。
「ナターリヤ・アイヒナーね」
「誰ですか」
「通りすがりの者よ」
「通りすがりの人は、花嫁を探しに来ません」
「私もそう思うわ」
プロコップが後ろで深く頷いた。
「まったく同感です。通りすがりの者は通り過ぎるべきである、というのが私の長年の主張でしてな」
ナターリヤは泣きはらした目で、少しだけ彼を見た。
「あなたは?」
「私は、巻き込まれた者です」
「この人はプロコップ・フォン・フライケイラー」
ミーシャが言った。
「弱そうだけど、逃げ道を知ってる人」
「弱そうは余計だ」
プロコップは眉をひそめた。
「子供というものは、なぜ人の誇りを土足で踏むのか」
ユリアはナターリヤの足元を見た。
片方だけ靴の脱げた足に、赤い擦り傷がある。長く歩いた傷ではない。急いで走った時の傷だ。ドレスの袖口には、誰かに掴まれたような皺もあった。
「逃げたのね」
ユリアが言った。
ナターリヤは俯いた。
「はい」
「ボリスが嫌いなの?」
ナターリヤはすぐに首を横に振った。
「嫌いじゃありません」
「では、好きなの?」
返事が遅れた。
その遅れだけで、答えは半分出ていた。
プロコップが小さく言った。
「お嬢様、質問がまっすぐすぎます。槍で扉を叩いているようなものですぞ」
ユリアは少しだけ彼を見た。
「扉が開かないなら、叩くしかないわ」
「叩きすぎると、扉ではなく中の人間が壊れます」
ナターリヤは唇を震わせた。
「ボリスは、優しい人です。村の人も、みんなそう言います。母も、あんな良い人はいないって」
「あなたは?」
「私も、そう思おうとしました」
ユリアは彼女を見た。
「ボリスの母親の世話が嫌なのね」
ナターリヤの顔がこわばった。
ミーシャが息を呑んだ。
「どうして……」
「式の朝に逃げた花嫁が、花婿の悪口を言わない。ボリスの名前を出す時、あなたは怯えない。でも母親の話が出た時だけ、指に力が入った。それと袖口の皺。今朝、誰かがあなたを引き止めた。立っている人間の掴み方ではない。座ったまま、強く袖を掴んだ皺よ」
ナターリヤは何も言わなかった。
沈黙は、肯定に近かった。
「ボリスは、結婚すればあなたが家に入り、母親の世話をすると思っている。家のこともする。店か畑か、家業も手伝う。彼はそれを、夫婦で支え合うことだと思っている」
ナターリヤの目から、また涙が落ちた。
「私は、嫌だなんて言ってはいけないと思ったんです」
「どうして」
「みんなが、ボリスはいい人だって言うから。お母様は病気で可哀想だって。嫁に行くんだから、それくらい当たり前だって。私の母も、女はそういうものだって」
プロコップは水車小屋の柱にもたれた。
「そういうもの、という言葉は便利ですな。誰が決めたか分からないので、責任者がいない」
ユリアはナターリヤに言った。
「あなたは、妻になるのが嫌なのではない。給金の出ない女中になるのが嫌なの」
ナターリヤは両手で顔を覆った。
「でも、ボリスは優しいんです。私を責めない。声を荒げない。私が疲れていると、休めばいいって言ってくれる。でも、そのあとで必ず言うんです。母さんも悪気はないんだ、慣れればうまくいくって」
「悪気がない人間は厄介よ。自分を悪人だと思っていないから、相手の痛みに鈍い」
プロコップが横から言った。
「お嬢様。今日はまた、刃の手入れが行き届いておりますな」
「事実よ」
「ええ。そして事実は時々、服を着るのを忘れる。見せられた方が寒くなる」
ユリアは彼を見た。
「では、どう言えばいいの」
プロコップは困った顔をした。
「私に聞かないでいただきたい。私は逃げ道の専門家であって、泣いている花嫁の扱いは管轄外です」
「管轄外のわりには、口を挟むのね」
「危険な刃物が見えた時は、臆病者ほど声を出します。自分の身を守るために」
ナターリヤが顔を上げた。
「逃げてもいいのでしょうか」
その問いは、ユリアではなくプロコップへ向いていた。
プロコップは少しだけ眉を動かした。
「なぜ私に聞く」
「逃げるのが上手そうだから」
ミーシャがうなずいた。
「うん」
プロコップは深く傷ついた顔をした。
「姉弟そろって無礼者めが」
それでも、彼は少し考えた。
小屋の外で、小川の水が古い石に当たっている。水車は動かない。けれど水だけは、止まらずに流れていた。
「……逃げてもいい」
ナターリヤは息を止めた。
「ただし、逃げた後の腹と寝床については考えるべきだろう」
「腹と寝床?」
「そうだ。逃亡というものは、美しい言葉ではない。腹は減る。足は痛む。金は減る。味方も減る。だが、それでも逃げなければ壊れる時がある。そういう時は逃げるべきだろう」
プロコップは自分の帽子を取って、曲がった羽根を直した。
「ただし、逃げるなら、泣きながらではなく、靴を履いてからだ。片足では遠くへ行けぬ」
ナターリヤは、脱げた靴を見た。
ミーシャがそれを拾って、姉の前に置いた。
ナターリヤは靴を履こうとして、手を止めた。
「でも、私が行かなかったら、ボリスの家は困ります」
「困るでしょうね」
ユリアは言った。
「村もあなたを責める。母親も泣く。ボリスは傷つく。あなたは悪者にされるかもしれない」
ナターリヤの顔がさらに青ざめた。
プロコップがユリアを見た。
「お嬢様、今の包装紙はどこへ行きました」
「必要なことよ」
「包装紙にも必要性はあります」
ユリアはナターリヤを見たまま続けた。
「でも、それはあなたが結婚する理由にはならない。誰かが困るからといって、あなたが一生を差し出す義務はないわ」
ナターリヤはまた泣いた。
さっきまでの泣き方とは少し違っていた。怯えた涙ではなく、固く結んでいたものがほどけるような涙だった。
「私、ひどい人間ですか」
プロコップが先に答えた。
「ひどい人間は、自分がひどいかどうかをここまで心配しません」
ユリアは彼を見た。
「珍しくまともね」
「お嬢様。珍しくは余計です」
その時、水車小屋の外で人の声がした。
「ナターリヤ!」
ボリスの声だった。
ナターリヤが身を硬くする。
ミーシャは姉の前に立とうとした。まだ小さな体なのに、必死で両手を広げる。
プロコップは扉の方を見た。
「来ましたな。現実というものは、呼んでもいないのに足が速いものだ」




