表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

8/25

第八話 花嫁の心境

 水車小屋は、村の外れの小川沿いにあった。


 もう使われていないらしく、水車は半分ほど腐り、苔に覆われていた。水は細く流れているのに、輪は動かない。止まったまま濡れている木は、どこか年老いた獣の背のように見えた。


 周囲には湿った草が生い茂り、昼だというのに、そこだけ少し暗かった。


 扉の前で、ミーシャが立ち止まった。


「姉ちゃん」


 中から返事はなかった。


 ユリアが扉に手をかけると、古い木が低く軋んだ。


 薄暗い小屋の奥に、白い花嫁衣装の娘が座っていた。


 ナターリヤ・アイヒナー。


 髪は栗色で、編み込まれた花は半分ほど崩れていた。白いドレスの裾は泥で汚れ、靴は片方だけ脱げている。膝の上で両手を固く握りしめ、頬には涙の跡が残っていた。


 美しい娘だった。


 だが今は、その美しさがかえって痛々しい。白い衣装は祝福のためではなく、彼女を逃げられない場所へ縫いつける布のように見えた。


「姉ちゃん」


 ミーシャが駆け寄ろうとすると、ナターリヤは首を横に振った。


「来ないで」


 声はかすれていた。


 ユリアは数歩だけ近づいた。


「ナターリヤ・アイヒナーね」


「誰ですか」


「通りすがりの者よ」


「通りすがりの人は、花嫁を探しに来ません」


「私もそう思うわ」


 プロコップが後ろで深く頷いた。


「まったく同感です。通りすがりの者は通り過ぎるべきである、というのが私の長年の主張でしてな」


 ナターリヤは泣きはらした目で、少しだけ彼を見た。


「あなたは?」


「私は、巻き込まれた者です」


「この人はプロコップ・フォン・フライケイラー」


 ミーシャが言った。


「弱そうだけど、逃げ道を知ってる人」


「弱そうは余計だ」


 プロコップは眉をひそめた。


「子供というものは、なぜ人の誇りを土足で踏むのか」


 ユリアはナターリヤの足元を見た。


 片方だけ靴の脱げた足に、赤い擦り傷がある。長く歩いた傷ではない。急いで走った時の傷だ。ドレスの袖口には、誰かに掴まれたような皺もあった。


「逃げたのね」


 ユリアが言った。


 ナターリヤは俯いた。


「はい」


「ボリスが嫌いなの?」


 ナターリヤはすぐに首を横に振った。


「嫌いじゃありません」


「では、好きなの?」


 返事が遅れた。


 その遅れだけで、答えは半分出ていた。


 プロコップが小さく言った。


「お嬢様、質問がまっすぐすぎます。槍で扉を叩いているようなものですぞ」


 ユリアは少しだけ彼を見た。


「扉が開かないなら、叩くしかないわ」


「叩きすぎると、扉ではなく中の人間が壊れます」


 ナターリヤは唇を震わせた。


「ボリスは、優しい人です。村の人も、みんなそう言います。母も、あんな良い人はいないって」


「あなたは?」


「私も、そう思おうとしました」


 ユリアは彼女を見た。


「ボリスの母親の世話が嫌なのね」


 ナターリヤの顔がこわばった。


 ミーシャが息を呑んだ。


「どうして……」


「式の朝に逃げた花嫁が、花婿の悪口を言わない。ボリスの名前を出す時、あなたは怯えない。でも母親の話が出た時だけ、指に力が入った。それと袖口の皺。今朝、誰かがあなたを引き止めた。立っている人間の掴み方ではない。座ったまま、強く袖を掴んだ皺よ」


 ナターリヤは何も言わなかった。


 沈黙は、肯定に近かった。


「ボリスは、結婚すればあなたが家に入り、母親の世話をすると思っている。家のこともする。店か畑か、家業も手伝う。彼はそれを、夫婦で支え合うことだと思っている」


 ナターリヤの目から、また涙が落ちた。


「私は、嫌だなんて言ってはいけないと思ったんです」


「どうして」


「みんなが、ボリスはいい人だって言うから。お母様は病気で可哀想だって。嫁に行くんだから、それくらい当たり前だって。私の母も、女はそういうものだって」


 プロコップは水車小屋の柱にもたれた。


「そういうもの、という言葉は便利ですな。誰が決めたか分からないので、責任者がいない」


 ユリアはナターリヤに言った。


「あなたは、妻になるのが嫌なのではない。給金の出ない女中になるのが嫌なの」


 ナターリヤは両手で顔を覆った。


「でも、ボリスは優しいんです。私を責めない。声を荒げない。私が疲れていると、休めばいいって言ってくれる。でも、そのあとで必ず言うんです。母さんも悪気はないんだ、慣れればうまくいくって」


「悪気がない人間は厄介よ。自分を悪人だと思っていないから、相手の痛みに鈍い」


 プロコップが横から言った。


「お嬢様。今日はまた、刃の手入れが行き届いておりますな」


「事実よ」


「ええ。そして事実は時々、服を着るのを忘れる。見せられた方が寒くなる」


 ユリアは彼を見た。


「では、どう言えばいいの」


 プロコップは困った顔をした。


「私に聞かないでいただきたい。私は逃げ道の専門家であって、泣いている花嫁の扱いは管轄外です」


「管轄外のわりには、口を挟むのね」


「危険な刃物が見えた時は、臆病者ほど声を出します。自分の身を守るために」


 ナターリヤが顔を上げた。


「逃げてもいいのでしょうか」


 その問いは、ユリアではなくプロコップへ向いていた。


 プロコップは少しだけ眉を動かした。


「なぜ私に聞く」


「逃げるのが上手そうだから」


 ミーシャがうなずいた。


「うん」


 プロコップは深く傷ついた顔をした。


「姉弟そろって無礼者めが」


 それでも、彼は少し考えた。


 小屋の外で、小川の水が古い石に当たっている。水車は動かない。けれど水だけは、止まらずに流れていた。


「……逃げてもいい」


 ナターリヤは息を止めた。


「ただし、逃げた後の腹と寝床については考えるべきだろう」


「腹と寝床?」


「そうだ。逃亡というものは、美しい言葉ではない。腹は減る。足は痛む。金は減る。味方も減る。だが、それでも逃げなければ壊れる時がある。そういう時は逃げるべきだろう」


 プロコップは自分の帽子を取って、曲がった羽根を直した。


「ただし、逃げるなら、泣きながらではなく、靴を履いてからだ。片足では遠くへ行けぬ」


 ナターリヤは、脱げた靴を見た。


 ミーシャがそれを拾って、姉の前に置いた。


 ナターリヤは靴を履こうとして、手を止めた。


「でも、私が行かなかったら、ボリスの家は困ります」


「困るでしょうね」


 ユリアは言った。


「村もあなたを責める。母親も泣く。ボリスは傷つく。あなたは悪者にされるかもしれない」


 ナターリヤの顔がさらに青ざめた。


 プロコップがユリアを見た。


「お嬢様、今の包装紙はどこへ行きました」


「必要なことよ」


「包装紙にも必要性はあります」


 ユリアはナターリヤを見たまま続けた。


「でも、それはあなたが結婚する理由にはならない。誰かが困るからといって、あなたが一生を差し出す義務はないわ」


 ナターリヤはまた泣いた。


 さっきまでの泣き方とは少し違っていた。怯えた涙ではなく、固く結んでいたものがほどけるような涙だった。


「私、ひどい人間ですか」


 プロコップが先に答えた。


「ひどい人間は、自分がひどいかどうかをここまで心配しません」


 ユリアは彼を見た。


「珍しくまともね」


「お嬢様。珍しくは余計です」


 その時、水車小屋の外で人の声がした。


「ナターリヤ!」


 ボリスの声だった。


 ナターリヤが身を硬くする。


 ミーシャは姉の前に立とうとした。まだ小さな体なのに、必死で両手を広げる。


 プロコップは扉の方を見た。


「来ましたな。現実というものは、呼んでもいないのに足が速いものだ」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ