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第十話 帰らない兵士

 翌日は、朝から風が強かった。


 空には雲がなかった。

 青いというより、薄く磨かれた硝子のような色をしていた。街道の両側には背の低い草が波のように伏せ、遠くの森は風に押されて、黒い縁を少しずつ震わせている。


 馬車は西へ進んでいた。


 リントドルフの村はもう見えない。昨日の白い花輪も、逃げた花嫁も、広場に立ち尽くした花婿も、皆、丘の向こうへ置いてきた。


 けれどユリアの中には、まだナターリヤの声が残っていた。


 ――私は、あなたを助けるために生まれたんじゃない。


 弱い声だった。

 けれど、あの娘が初めて自分のために出した声だった。


 ユリアは馬車の窓に肘を置かず、いつものように背を伸ばして座っていた。向かいではリーザが裁縫箱を膝に乗せ、小さなほつれを直している。針が布を出入りする音は、馬車の揺れに紛れて、ほとんど聞こえなかった。


 御者台では、プロコップ・フォン・フライケイラーが、しきりに帽子を押さえていた。


「風が強い」


 彼は手綱を握ったまま言った。


「ええ」


「これは危険です」


「風が?」


「風そのものではありません。風に乗って飛ぶものが危険なのです。砂、枝、噂、請求書。世の中の厄介なものは、たいてい風に乗ってやって来る」


「請求書は人が運ぶでしょう」


「だから人は風より悪質です」


 リーザが針を止め、笑いをこらえた。


 ユリアは窓越しに、御者台の背中を見た。プロコップの羽根飾りが風に煽られて、何度も横へ倒れかけている。そのたびに彼は片手で押さえ、《名誉》の手綱をもう片方の手で保っていた。


「昨日は少し立派だったのに、今朝には戻ったのね」


 プロコップは肩をそびやかした。


「立派さというものは、毎日使うと擦り減ります。私は家名同様、節約しているのです」


「家名も擦り減っているの?」


「失礼な。フライケイラー家の名誉は、古いだけあって非常に丈夫です。ただし、ところどころ雨漏りします」


「修理は?」


「費用が足りなくて」


「でしょうね」


 風がまた吹いた。


 道の先で、一枚の布が転がっていた。


 白い布ではない。古びた軍用の外套だった。埃にまみれ、片方の袖が道端の灌木に引っかかっている。


 プロコップは手綱を引いた。


 《名誉》が歩みを緩める。馬車の車輪が、乾きかけた土の上で小さく鳴った。


「お嬢様」


「何」


「あれは、私に関係のない外套です」


「でしょうね」


「ゆえに、我々は通り過ぎるべきです」


「持ち主が倒れているかもしれないわ」


「倒れているなら、さらに専門外です。私は医者ではない。僧侶でもない。財布の中身も薄い。つまり、人道的に関われる範囲が狭い」


「止めて」


 ユリアが言うと、プロコップは空を仰いだ。


「神よ、今日も私は敗北しました。できれば金貨をお恵みください」


 馬車が止まる。


 プロコップは御者台から降りる前に、《名誉》の首を軽く叩いた。


「名誉、ここで待て。主人が余計な良心に巻き込まれている間、お前だけは平静でいろ」


 《名誉》は耳を一度だけ動かした。


「よろしい。沈黙は同情の証だ」


「たぶん風が気になるだけよ」


 ユリアが言うと、プロコップは聞こえなかったふりをした。


 ユリアは馬車を降りた。草の匂いが強い。風は冷たくないが乾いていて、頬に細かな砂を運んでくる。


 道端の灌木の向こうに、人が座っていた。


 男だった。


 背は高いが、肩が落ちている。

 髭は伸び、髪には埃が絡んでいた。膝の上に両手を置き、まるで誰かを待っているように遠くの道を見ている。

 身につけている服は軍服の名残を持っていた。


 だが、肩章は外され、袖口は擦り切れている。


 腰には剣があった。


 ただ、鞘の革は乾き、手入れされていない。


 プロコップが少し後ろで言った。


「死体ではありませんな」


「残念そうね」


「死体なら、少なくとも口論はしません」


 男がゆっくり顔を上げた。


 目は青かった。だが、水のような青ではない。

 長く置いた刃物の色に似ていた。

 錆びてはいない。

 ただ、光が戻っていない。


「何か用か」


 声は低く、乾いていた。


 ユリアは男を見た。


「外套が道に出ていたわ」


「飛ばされた」


「取りに行かないの」


「そのうち」


「そのうち、という人はたいてい行かないわ」


 男は少しだけ目を細めた。


 プロコップが横から口を出した。


「失礼。こちらのご令嬢は、初対面の人間にも容赦なく真実を配ります。量が多い場合は、受け取りを拒否してください」


「お前は?」


「私はプロコップ・フォン・フライケイラー。由緒ある家名を背負い、通りすがりの不運に巻き込まれることを職業上避けたい男です」


 男は彼を見た。


「騎士か」


 プロコップは途端に胸を張った。


「そう見えますかな」


「見えない」


 プロコップは傷ついた顔をした。


「なら、なぜ聞いたのだ」


「剣を下げているからだ」


「剣を下げているからといって、すぐ斬り合いを求めるのは野蛮です。剣とは、身分と交渉力を三割ほど増すための装飾でもある」


「飾りか」


「失礼な。必要なら抜きます」


 ユリアが言った。


「必要になる前に逃げるのでは?」


「お嬢様、私の戦略を敵前で公開しないでいただきたい」


 男の口元が、ごくかすかに動いた。


 笑いかけたのかもしれない。だが、すぐに消えた。


「ヴァルトハイムのミハイルだ」


 男は短く名乗った。


「元兵士だ」


「元、なのね」


 ユリアが言うと、ミハイルは頷いた。


「戦は終わった」


「あなたの中では終わっていないように見えるけれど」


 プロコップが小さく咳払いした。


「お嬢様。まだ出会って三十呼吸ほどです」


「十分よ」


 ミハイルは怒らなかった。


 ただ、遠くの道をまた見た。


「西へ行くのか」


「ええ」


「なら、次の町はグライフェン。宿は二つある。南側の宿は高いが飯がましだ。北側は安いが、寝台に虫がいる」


 プロコップの顔が真剣になった。


「貴重な情報です。あなたは大変有能な方だ。虫の有無は旅の根幹に関わる」


「南に泊まれ」


「財布の中身が許せば」


 ミハイルはまた少しだけ口元を動かした。


 ユリアは彼の靴を見た。


 靴は西を向いていなかった。道の上で体は西を見ている。だが靴先は、少しだけ東へ向いている。おそらく無意識なのだろう。人の体は、時々その人より正直だ。


「あなたも西へ?」


「ああ」


「故郷があるの」


 ミハイルは一拍遅れて頷いた。


「ヴァルトハイム村だ。グライフェンの先にある」


「ではなぜ、ここに座っているの」


「疲れた」


「どれくらい?」


「少し」


「嘘ね」


 風が草を揺らした。


 ミハイルはゆっくりユリアを見た。


 プロコップが低く言う。


「お嬢様」


「彼は疲れているだけではないわ」


「それは分かりますが、疲れた熊を棒でつつく趣味は私にはありません」


「熊ではないわ」


「剣を持った元兵士です。私の分類では熊に近い」


 ミハイルは膝の上の手を握った。


 その手は大きかった。節が硬く、古い傷が多い。

 右手の薬指には指輪の跡があった。

 指輪そのものはない。

 妻がいるのか、いたのか、あるいは婚約していたのか。


 ユリアはそれも見た。


「家族が待っているのね」


 ミハイルは返事をしなかった。


「妻?」


「妹だ」


 少し間があって、彼は答えた。


「妹と、母がいる」


「手紙は?」


「来た」


「何と」


「帰ってこいと」


「では帰ればいい」


 ミハイルの顔が、初めてはっきり歪んだ。


 プロコップはその表情を見て、ふいに口を閉じた。


 ユリアはなおも見ていた。


「帰れない理由があるのね」


「ない」


「それも嘘」


 ミハイルは立ち上がった。


 背が高かった。

 ユリアより頭一つ以上高い。リーザなら怯えたかもしれない。だがユリアは動かなかった。


 ミハイルは低い声で言った。


「ご令嬢。世の中には、知らない方がいいことがある」


「知られたくないことの間違いでしょう」


「同じだ」


「違うわ」


 男の目に、一瞬だけ怒りが浮かんだ。


 プロコップがユリアの前へ半歩出た。


 半歩だけだった。

 全身で守るというより、逃げるにも守るにも転びそうな位置だった。それでも彼は、そこに立った。


「ミハイル殿」


 プロコップの声は、いつもより少し低かった。


「このご令嬢は、人の傷を見つけると、なぜか指で押す癖がある。私も日々被害を受けている。だが、悪意ではない」


「悪意でなければ許されるのか」


「許されませんな」


 プロコップは即答した。


 ユリアが彼を見た。


 プロコップは続けた。


「悪意のない刃物ほど始末が悪い。本人が刃物だと思っていないから」


 ユリアは黙った。


 風が彼女の外套を揺らした。


 ミハイルはしばらくプロコップを見ていたが、やがて肩から力を抜いた。


「妙な護衛だ」


「よく言われます」


「その令嬢に仕えているのか」


「違います。私は雇われているだけです。仕えるなどという高価な行為は、私の精神に負担が大きい」


 ミハイルは、今度は少しだけ笑った。


「そうか」


 彼は道端に落ちた外套を取りに行った。

 灌木から袖を外し、埃を払う。

 だが身につけはしなかった。ただ腕に掛けた。


「グライフェンまで行く」


 彼は言った。


「一緒にか?」


 プロコップの顔が引きつった。


「いや、私どもは別に」


「同じ道だ」


「道は同じでも、人生の都合は別です」


「南側の宿まで案内する」


 プロコップは少し考えた。


「虫のいない宿まで?」


「ああ」


 プロコップはユリアを見た。


「お嬢様。これは同行ではありません。宿情報に対する一時的な追随です」


「好きにしなさい」


「では、実に慎重な判断として、少しだけ同行しましょう」


 プロコップは《名誉》の手綱を取り直し、馬車を進ませた。


 ミハイルは馬車の横を歩いた。

 歩く速さは一定で、疲れているようには見えない。だが、時々ふと後ろを見る。東の道を。あるいは、もっと遠い場所を。


 プロコップは御者台でしばらく黙っていた。


 珍しいことだった。


 やがて彼は、耐えきれなくなったように言った。


「ミハイル殿」


「何だ」


「戦は、ひどかったか」


 ユリアは馬車の中で、その声を聞いた。


 ミハイルはしばらく答えなかった。


「ひどくない戦があるのか」


「私は戦の経験が少ないもので」


「剣を下げているのに?」


「剣を下げることと、戦へ行くことは別問題です。世の中には、脅しとして十分に役立つものを、実際に使わず済ませる知恵というものがあります」


「臆病なのか」


「ええ」


 プロコップはあっさり言った。


 ミハイルが御者台の彼を見上げた。


「認めるのか」


「認めます。私ほど自分の臆病に誠実な男は少ない。問題は、周囲がそれを欠点と呼ぶことです」


「欠点だろう」


「程度によります。臆病のおかげで、私は今も生きている。勇敢な知人の多くは、墓の下で非常に静かです」


 ミハイルは前を向いた。


「生きている方が、いつもましとは限らないさ」


 プロコップは答えなかった。


 ユリアは窓の外を見ていた。


 ミハイルの横顔は、遠いものを見ている。

 景色ではない。

 彼の目は、道の先ではなく、もっと前の時間を見ていた。

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