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第十一話 正しさは人を傷つける


 夕方になる前に、グライフェンの町が見えた。


 城壁の名残のような低い石垣があり、その内側に家々が集まっている。

 大きな町ではないが、街道の分かれ目にあるため、人の出入りは多かった。


 馬車、荷車、旅人、羊の群れ。市場の方からは、焼き栗と魚の匂いがした。


 南側の宿は「赤い樅の木亭」といった。


 看板には、赤く塗られた樅の木が描かれている。青鳥亭よりは立派だった。窓枠はきちんと塗られ、扉の金具も磨かれている。


 プロコップは看板を見上げた。


「これは高そうですな」


「虫はいない」


 ミハイルが言った。


「虫がいないことは素晴らしい。しかし財布から金貨が逃げる宿でもあります」


「あなたは逃げるものに詳しいのね」


 ユリアが馬車から降りながら言った。


「逃げるものは、私の親類のようなものです」


 宿の中は清潔だった。


 女将はやせた中年の女で、必要なことだけを話す人間だった。

 ユリアは部屋を取り、リーザを先に上げた。プロコップは勘定を見て顔をしかめたが、ユリアが何も言わないうちに黙った。

 昨日の櫛の修理費を思い出したのだろう。


 ミハイルは広間の隅の席に座った。


 彼は宿を知っているようだった。女将も彼を見て、少しだけ表情を変えた。


「また泊まるのかい、ミハイル」


「ああ」


「今日こそ出るんじゃなかったの」


「明日だ」


 女将はそれ以上言わなかった。


 ユリアはその会話を聞いていた。


 プロコップも聞いていた。


 夕食の時、ミハイルは一人で黒パンと煮込みを食べていた。


 酒は飲まない。

 ただ、水だけを飲む。


 周りでは旅人たちが騒ぎ、商人たちが値段の話をし、若い男たちが賭け札を並べている。

 ミハイルだけが、音から少し離れて座っていた。


 ユリアは彼の向かいに座った。


 ミハイルは驚かなかった。


「何か」


「あなたは何日ここにいるの」


「三日」


 女将が通りすがりに言った。


「八日だよ」


 ミハイルは目を伏せた。


 プロコップがユリアの隣に座りながら言った。


「女将という種族は、余計な真実を持っていますな」


「お前も座るのか」


 ミハイルが聞いた。


「私は護衛ですので」


 プロコップは堂々と言った。


「危険な会話から、お嬢様と私の胃を守る義務があります」


「自分の胃もなのね」


「胃は重要です。戦場でも恋愛でも旅でも、胃を軽んじる者は判断を誤ります」


 ユリアはミハイルを見た。


「八日、ここにいる」


「そうらしい」


「故郷までは?」


「半日」


「近いのね」


「ああ」


「半日先の故郷へ、八日帰れない」


 ミハイルは水杯を握った。


 プロコップが小声で言った。


「お嬢様。また刃が……」


「分かっているわ」


「分かっていて抜くのは、さらに悪いですぞ」


 ユリアはミハイルから目を離さなかった。


「あなたは故郷へ帰りたいのではない。裁かれに行きたいのね」


 ミハイルの指が止まった。


 広間の音が、少し遠くなったように感じられた。


「何だと」


「家族に会いたいのではない。家族に責められたい。お前はなぜ生きて帰ったのか、と言ってほしい。そうすれば、あなたは自分を罰せられる」


 プロコップが椅子を引いた。


「ユリア嬢」


 彼が初めて、少し強く名前を呼んだ。


 ユリアは彼を見た。


 プロコップの顔から、いつもの芝居がかった笑みが消えていた。


「そこまでにしましょう」


「なぜ」


「今のは当たった。だから危ない」


 ミハイルは立ち上がった。


 椅子が床をこすった音に、近くの客が振り返る。


「お前に何が分かる」


 声は低かった。怒鳴ってはいない。だが、怒鳴る寸前の声だった。


 ユリアは静かに言った。


「分からないわ」


「なら言うな」


「分からないから、見ているの」


「見せ物じゃない」


「ええ。だから聞いている」


 ミハイルの拳が震えていた。


 プロコップはゆっくり立ち上がった。


 逃げるためではない。少なくとも、すぐには。


「ミハイル殿」


「黙れ」


「黙りたいのは山々です。私は沈黙が好きだ。安全で、安価で、後悔が少ない。だが、ここで黙ると、明日の朝、後味の悪いスープを飲む羽目になる」


 ミハイルは彼を睨んだ。


 プロコップは両手を少し広げた。武器を持っていないことを見せるように。


「このご令嬢は、時々人の胸を扉だと思って蹴破ります。本人は中で火事が起きているか確かめたいだけなのですが、住人にとっては迷惑です」


「なら止めろ」


「止めています。今、非常に勇敢にも止めています。私の人生において、かなり上位に入る勇敢さです」


 ユリアは黙っていた。


 ミハイルの怒りは、少しだけ行き場を失ったようだった。


 彼は再び椅子に座った。


「帰れないんだ」


 誰に言うともなく、ミハイルは言った。


 声は急に老けていた。


「妹は手紙に、母が毎日待っていると書いた。村の者も、俺が帰れば喜ぶと。戦が終わったのだから、もう安心だと」


 彼は笑った。


 短い、乾いた笑いだった。


「安心。そう書いてあった」


 ユリアは何も言わなかった。


 プロコップも、珍しく黙っていた。


「俺の隊は、川沿いの砦にいた。最後の月だ。もう戦はほとんど終わっていた。みんな、帰ったら何をするか話していた。畑、嫁、酒場、家の屋根の修理。くだらない話ばかりだった」


 ミハイルの目は、広間ではなく、どこか暗い砦を見ていた。


「夜に襲われた。数は向こうが多かった。俺たちは逃げるしかなかった。隊長は、負傷者を置いて退けと言った。そうしなければ全滅すると」


 彼は水杯を見た。


「俺は従った」


 ユリアは、彼の右手が震えているのを見た。


「友人がいた。アレクセイ・ベルンハルト。足をやられて動けなかった。俺の名前を呼んだ。俺は聞こえた」


 広間の音が戻ってきた。


 誰かが笑っている。誰かが皿を置いた。暖炉の薪がはぜた。だが、その卓だけは、別の場所に沈んでいた。


「俺は逃げた」


 ミハイルは言った。


「戻らなかった。朝になって砦へ戻った時、アレクはいなかった。死体もなかった。捕まったのか、川へ落ちたのか、分からない。俺は生きていた」


 プロコップはゆっくり息を吐いた。


 ミハイルは続けた。


「アレクには弟がいた。俺の村の近くに住んでいる。母も妹も、俺が帰れば喜ぶ。だがアレクの弟も来るだろう。聞くはずだ。兄はどう死んだのか、と」


「それで、ここにいるのね」


 ユリアが言った。


 今度の声は、少しだけ低かった。


「半日先の故郷へ帰れずに」


 ミハイルは頷いた。


「俺は卑怯者だ」


 その言葉に、プロコップが眉を動かした。


「卑怯者にも種類があります」


 ミハイルは彼を見た。


「何?」


「雑に一括りにされると、専門家として困ります」


「専門家?」


「私は卑怯について、かなり深い実地経験があります」


 プロコップは真面目な顔だった。


「あなたは逃げた。命令に従った。友人を置いた。たぶん、その夜に戻れば死んでいた。だが戻らなかったことを、今も悔やんでいる」


「それが何だ」


「本物の卑怯者は、噛みません」


 ミハイルの表情が止まった。


「噛む?」


「ええ。後悔を。骨みたいに。何度も何度も。味などしないのに。歯だけが痛む」


 プロコップは自分の杯を見た。


「本物の卑怯者は、うまく逃げた話として酒の肴にします。自分を責める代わりに、他人のせいにする。命令が悪い、隊長が悪い、運が悪い、馬が悪い、天気が悪い。まあ、馬と天気は時々本当に悪いが」


「あなたならどうする」


 ミハイルが聞いた。


 プロコップはすぐには答えなかった。


 ユリアは彼の横顔を見た。


 いつもの彼なら、ここで何か大げさなことを言う。自分ならもっと華麗に逃げるとか、請求書だけ残して消えるとか。だが今は違った。


「私なら」


 プロコップはゆっくり言った。


「たぶん逃げる」


 ミハイルは彼を見続けた。


「そして、長い言い訳を考える。非常に立派で、聞く者が眠くなるほど長い言い訳を。私はそういう才能がありますからな」


 彼は少しだけ笑った。


 笑いはすぐに消えた。


「だが、呼ばれた声は残るでしょう」


 ミハイルは目を伏せた。


「残る」


「なら、帰るしかない」


 プロコップの声は静かだった。


「なぜ」


「逃げても声はついてくる。どうせ追われるなら、故郷の寝台に追われた方がいい。宿代も浮く」


 ミハイルはかすかに笑った。


「最後が台無しだ」


「私は最後まで立派だと体に悪い」


 ユリアはミハイルに言った。


「アレクセイの弟に、分からないことは分からないと言えばいい」


 ミハイルは顔を上げた。


「それで許されるのか」


「知らないわ」


「知らない?」


「許すかどうかは、その弟のものよ。あなたのものではない。あなたができるのは、彼から怒る権利を奪わないことだけ」


 ミハイルは黙った。


「あなたは責められたい。けれど、自分の頭の中で自分を責めている限り、誰にも会わなくて済む。ある意味では楽なのよ」


 ミハイルの顔が少し歪んだ。


 ユリアは続けた。


「本当に怖いのは、責められることではないわ。相手が泣くかもしれないこと。黙るかもしれないこと。許すかもしれないこと。あなたの望む罰をくれないかもしれないこと」


 ミハイルは、今度は怒らなかった。


 プロコップが低く言った。


「今のは、少し包んでありましたな」


「そう?」


「ええ。薄紙くらいには」


「それは褒めているの」


「命がけです」


 ミハイルは水を飲んだ。


 手の震えは、まだ止まっていなかった。だが先ほどより、少しだけ呼吸が深くなっている。


「明日、発つ」


 彼は言った。


「本当に?」


 プロコップが聞いた。


「半日だ」


「半日は長い。人生が何度か嫌になる距離です」


「それでも行く」


「よろしい」


 プロコップは頷いた。


「では私は、明日の朝あなたを見送ります。もちろん、同情ではありません。あなたが本当に出発するか確認するだけです。人間は朝になると、夜の決意を半分ほど紛失しますからな」


 ミハイルは彼を見た。


「お前も来るか」


「どこへ」


「村まで」


 プロコップは目を見開いた。


「なぜ私が」


「逃げ道の専門家なのだろう」


「それは、逃げるための専門家であって、帰るためでは」


 ミハイルは少しだけ笑った。


「似たようなものだ」


「まったく違います。帰る道は心理的負担が重い」


 ユリアが言った。


「フライケイラー卿」


「嫌です」


「まだ何も言っていないわ」


「顔が言いました」


「明日、途中まで同行しましょう」


「やはり言った」


 プロコップは両手で顔を覆った。


「私は護衛として雇われたのであって、元兵士の良心の案内人ではありません。契約とは何だったのか。文明社会の土台が揺らぎます」


「虫のいない宿を教えてもらったわ」


「それは大きな恩ですが、半日分の良心に相当するかは疑問です」


 ミハイルは小さく笑った。


 その笑いは、さっきより人間らしかった。

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