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第五話 真実を暴く女

 広間の空気が変わった。


 客たちは一斉に顔を上げた。女将が厨房から出てくる。プロコップはパンを持ったまま、ほんの少しだけ椅子を後ろへ引いた。


「おや」


 ユリアは言った。


「逃げ道?」


「万一、騒動がこちらへ飛んできた時のために、椅子の可動域を確認しただけです」


 婦人は卓の上に小さな袋をひっくり返した。櫛は出てこない。小瓶、針箱、ハンカチ、金具のついた財布。それらを見て、彼女はさらに声を荒げた。


「誰かが盗んだのよ」


 女将が近づいた。


「お客様、落ち着いてください。最後にお使いになったのは?」


「さっき部屋で髪を直した時よ。そのあと広間へ降りた。戻ったらなくなっていたの」


「お部屋に鍵は?」


「掛けたわ」


「では」


 婦人の目が、料理を運んでいたアーニャに向いた。


 アーニャは盆を持ったまま固まっていた。


「あの子が部屋に来たわ。湯を持ってきた。あの時よ」


「私は」


 アーニャの声は小さかった。


「私は取ってません」


「取っていない人間は、もっと早く否定するものよ」


 婦人はきつく言った。


 ユリアは杯を置いた。


 プロコップがすぐに低い声で言う。


「お嬢様」


「何」


「座っていましょう。これは宿の問題です。宿の問題は宿が片づける。旅人は食べ、寝て、朝には去る。実に美しい分業です」


「少女が盗人にされそうでも?」


「正義は高価です。しかも、この場合、銀の櫛一本にしては市場価格が荒れています」


「あなたらしい計算ね」


「ありがとうございます」


「褒めていないわ」


「知っています」


 ユリアは立ち上がった。


 プロコップは天井を仰いだ。


「神よ、私は止めました」


 彼はそう言ってから、残っていたパンを素早く懐に入れた。


 ユリアが近づくと、婦人は怪訝な顔をした。


「何か?」


「その銀の櫛は、どのようなものですか」


「あなたは?」


「ユリア・フォン・ヒルシュアイス」


 名前を聞いた瞬間、婦人の態度が少し変わった。子爵家の名は、宿場町でもまだ多少の重みを持っている。


「マリヤ・フォン・ブリュックナーです。櫛は銀製で、柄に小さな青い石が三つ入っています。母の形見なの」


 母の形見。


 その言葉で、広間は婦人の味方になった。人は盗品の値段より、涙の理由に反応する。


 ユリアはアーニャを見た。


「あなたは部屋に入ったの」


 アーニャは首を横に振ろうとした。


 その前に、ユリアが言った。


「首を振る前に考えなさい。嘘は、少ない方が後始末が楽よ」


 アーニャの顔が白くなった。


「入りました」


「湯を持って?」


「はい」


「櫛を見た?」


「見てません」


 ユリアは少女の左手を見た。布の巻かれた親指。盆を持つ時、彼女はその指だけ浮かせていた。


「今のは嘘ね」


 アーニャの目に涙が浮かんだ。


 婦人が声を上げた。


「やっぱり!」


「黙って」


 ユリアの声は大きくなかった。だが、よく通った。


 婦人は息を呑んだ。


 ユリアはアーニャから目を離さない。


「見たのね」


 アーニャは唇を噛んだ。


「見ました」


「触った?」


「触ってません」


「また嘘」


 アーニャの目から涙が落ちた。


「触りました。でも、取ってません」


「なぜ触ったの」


「綺麗だったから」


「それだけ?」


 アーニャは答えなかった。


 広間の隅で、誰かが小さく笑った。


「やっぱり貧乏人は」


 その言葉を言った男は、すぐにユリアと目が合って黙った。


 ユリアはアーニャに近づいた。


「親指を見せなさい」


「嫌です」


「見せなさい」


「嫌」


「見せなければ、あなたが櫛を盗んだと判断されるわ」


 アーニャは泣きながら手を握り込んだ。


 その時、プロコップが割り込んだ。


「お嬢様」


「何」


「子供を追い詰める時は、少し手加減した方がいい。小さい獲物は、強く握ると潰れます」


「あなたはこの子を信じるの」


「信じません」


 彼は堂々と言った。


「私は人間をそう簡単に信じない。信じると、借金の保証人にされます」


 アーニャが泣きながら彼を見た。


 プロコップは困った顔をした。


「ただ、この娘は盗人の顔をしていない」


「どんな顔?」


「盗んだ人間は、逃げ道を見る。盗んでいない人間は、助けてくれそうな馬鹿を見る」


「あなたを見ているわね」


「そこが問題なのです」


 子供たちが入口から覗いていた。厩番の少年と、小さな娘と、もう一人、痩せた少年。アーニャより幼い。彼だけが笑っていなかった。


 ユリアはその少年を見た。


 少年はすぐに目を逸らした。


 プロコップもそれを見た。


「ほう」


 彼は低く言った。


 ユリアはアーニャの手に視線を戻した。


「親指の布を外して」


 アーニャは震える手で布をほどいた。


 親指の腹に、小さな傷があった。細く、浅い。だが傷の端に、きらきらした細かい粉がついている。


「銀の欠片?」


 婦人が言った。


 ユリアは首を横に振った。


「石の粉でしょう。青い石が欠けているのでは?」


 婦人は急いで荷袋の中を探った。そこには櫛はない。だが、櫛を包んでいたらしい布が出てきた。彼女はそれを広げ、顔をこわばらせた。


「石が一つ、前から少し緩んでいたの」


 ユリアはアーニャに聞いた。


「あなたは櫛を落としたのね」


 アーニャは泣きながら首を振った。


「私じゃない」


「では誰」


 少女は口を閉じた。


 その沈黙は、盗人の沈黙ではなかった。誰かを守る沈黙だった。


 ユリアは入口の痩せた少年を見た。


 少年はもういなかった。


 プロコップは帽子を手に取った。


「私は少し外の空気を吸ってきます」


「逃げるの?」


「違います。空気の質を確認するのです」


「その質は、厩の方角にありそうね」


「お嬢様は本当に、空気の流れにお詳しい」


 プロコップは広間を出た。


 女将がアーニャの肩を掴んだ。


「アーニャ、正直にお言い。あんた、イリヤをかばってるのかい」


 アーニャは泣きながら、何も言わなかった。


 ユリアはそれで十分だった。


 広間はざわめいた。婦人マリヤは怒りと不安の間で揺れていた。商人は退屈そうに見せながら、話の成り行きを楽しんでいる。巡礼の妻は胸の前で手を組み、夫は目を伏せていた。


 人は、他人の罪を見る時だけ少し元気になる。


 ユリアはマリヤに向き直った。


「櫛はおそらくまだ売られていません」


「どうして分かるの」


「盗んだのが子供なら、まず町の中で売ろうとします。でも銀の櫛は目立つ。石がついているならなおさら。大人なら隠す。子供なら急ぐ。急ぐ子供は失敗する」


「では、早く捕まえて」


「捕まえるより、戻させた方が早いわ」


「盗人を庇うの?」


「いいえ。櫛を取り戻すための一番短い道を選んでいるだけです」


 マリヤはまだ不満そうだったが、黙った。


 外では、夕方の光が少しずつ薄くなっていた。


 プロコップは宿の裏手を歩いていた。


 井戸の向こうに厩があり、その奥に薪小屋がある。干し草の匂いと馬の体温が混じっている。厩の中では《名誉》が落ち着いた顔で草を噛んでいた。


 プロコップはその横を通りながら、小声で言った。


「名誉、私は今から面倒なことをする。止めるなら今だ」


 《名誉》は草を噛んだ。


「沈黙は承認と受け取る」


 彼は懐に入れていたパンを取り出した。


「出てこい」


 返事はなかった。


「私は忙しい。高貴な護衛兼御者というものは、夕食の途中で立ち上がるだけでも大変な損失を被っている。出てこなければ、このパンは私が食べる」


 薪小屋の陰で、何かが動いた。


 痩せた少年が顔を出した。


 イリヤ・ヴァイスマン。


 髪は姉と同じ黒。目だけが大きく、頬はこけている。片手を胸に押しつけていた。


 プロコップはパンを見せた。


「腹が減っているな」


 少年は答えなかった。


「答えなくていい。腹の減った子供は、目がうるさい。実に迷惑だ」


 イリヤは警戒したまま言った。


「逃げ足卿」


「その名で呼ぶな。私はプロコップ・フォン・フライケイラー。由緒ある」


「姉ちゃんを捕まえに来たの?」


「違う。私は捕まえる仕事は嫌いだ。捕まえると、たいてい責任が発生する」


「じゃあ、何しに来たの」


「櫛を返してもらいに来た」


 イリヤの肩が震えた。


「持ってない」


「嘘だな。嘘の下手さが姉に似ている。家族の絆とは恐ろしいものだ」


「持ってない」


「そうか」


 プロコップはパンを半分に割った。


 柔らかい方を少年へ投げた。イリヤは思わず受け取った。


「食え」


「いらない」


「なら返せ」


 イリヤは返さなかった。


 プロコップは満足そうに頷いた。


「実に正しい判断だ。空腹の時に意地を張るのは、貴族だけで十分だ。あれは我々の悪い伝統である」


 イリヤは小さくパンをかじった。目に涙が浮かんだが、泣かなかった。


「櫛を売るつもりだったのか」


 プロコップが聞いた。


 少年は黙った。


「パンか」


 黙ったまま。


「薬か」


 少年の目が動いた。


 プロコップは空を見た。


「なるほど。薬か。誰の」


「母さん」


「病気か」


「咳が止まらない。女将さんは医者を呼ぶ金なんてないって。姉ちゃんは、働けばいいって。でも、働いても足りない」


「それで銀の櫛か。大きな一歩を踏み出したな。窃盗という名の崖へ」


 イリヤは唇を噛んだ。


「姉ちゃんは悪くない」


「知っている。あの娘は自分で盗むには泣き方が早すぎる」


「おれが悪い」


「そうだな」


 イリヤは驚いてプロコップを見た。


 プロコップは肩をすくめた。


「慰めてほしかったか。残念だが、私はそこまで安い善人ではない。盗んだなら悪い。だが、悪いことをしたからといって、全部終わるわけではない。人間はその後始末のために、しぶとく生きている」


 イリヤは胸に押しつけていた手をゆっくり開いた。


 銀の櫛があった。


 柄の青い石が一つ欠けていた。細かな傷もある。きっと慌てて隠した時に、どこかへぶつけたのだろう。


「売れなかった」


「だろうな」


「みんな、どこで手に入れたって聞くから」


「商人は親切そうな顔をしていても、銀には鼻が利く。子供の嘘より銀の匂いを信じる連中だ」


「姉ちゃん、怒られる?」


「怒られる」


 イリヤの顔が歪んだ。


「だが、盗人にはならんかもしれない」


「ほんと?」


「このプロコップ・フォン・フライケイラーが、今から非常に面倒な交渉をする。報酬は高いぞ」


「払えない」


「知っている」


「じゃあ」


「将来、私の銅像を建てろ」


「銅像?」


「そうだ。馬に乗った私だ。片手に剣、もう片手に金貨。足元には感謝する民衆」


 イリヤは少しだけ笑った。


「馬車を引いてるところじゃなくて?」


 プロコップは傷ついた顔をした。


「子供というものは、なぜこうも真実に無礼なのか」

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