第四話 無くなった銀の櫛
王都を出て半日ほどは、道もまだよかった。
馬車の車輪は湿った土を噛み、時折小石を弾いた。
雨上がりの道は陽を受けると柔らかく光り、畑にはところどころ水が残っていた。
遠い森の縁だけが、薄い青のように霞んでいる。
御者台では、プロコップ・フォン・フライケイラーが落ち着きなく手綱を握っていた。
右手で手綱を持ち、左手で帽子の羽根を直し、時々、馬車を引く栗毛の馬《名誉》の耳元へ何かを囁く。
馬を励ましているのか、自分を励ましているのか、ユリアには分からなかった。
「名誉、右へ寄りすぎるな。左の轍は深い。私の人生と同じで、一度はまると抜け出しにくい」
《名誉》は淡々と歩いた。
「聞いているのか」
馬は耳を一度だけ動かした。
「よろしい。沈黙は理解の証だ」
馬車の中で、リーザが小さく笑いをこらえた。
ユリアは窓の外を見ながら言った。
「フライケイラー卿」
「何でしょう、ヒルシュアイス嬢。御者台からでも、私は優雅に応答できます」
「前を見て」
「見ています。前方、左方、右方、逃走可能方向、すべて確認済みです」
「手綱は?」
「握っています。名誉と私は一心同体です」
「馬の方が迷惑そうね」
「お嬢様。馬と主人の間に不用意な亀裂を入れるのは、旅の安全に関わります」
「亀裂が入るほどの信頼があるの?」
「あります。名誉は私を裏切りません」
「名前が重そうね」
「重いからこそ、馬車を引けるのです」
プロコップは胸を張ったらしい。窓越しには、羽根飾りが少し大きく揺れただけだった。
昼を過ぎると、道は緩やかに下りはじめた。
宿場町カーレンベルクは、低い丘の間にあった。
大きな町ではない。
石造りの教会の尖塔が一つ、広場の真ん中に立っている。
家々は古く、屋根の赤い瓦はところどころ欠けていた。
けれど街道沿いだけはにぎやかで、荷馬車、旅人、羊飼い、靴を泥だらけにした巡礼たちが行き交っていた。
馬の匂いと焼いた玉葱の匂いが混じり、遠くから鍛冶屋の槌音が聞こえた。
町の端に、古い宿があった。
看板には青い鳥が描かれている。雨風に色が褪せて、鳥というより魚に近かった。
「青鳥亭です」
御者台のプロコップが、肩越しに振り返った。
「ご安心ください。私はここをよく知っております」
「信用できる宿なの」
「少なくとも、前回泊まった時は屋根がありました」
「最低条件ね」
「世の中には、その最低条件を満たさない宿があるのです。旅は人を賢くしますな」
馬車が宿の前に停まると、厩から少年が走ってきた。まだ十二、三歳ほどで、髪は麦わらのように跳ねている。
少年は御者台のプロコップを見るなり、目を丸くした。
「あっ」
プロコップは御者台から降りようとして、片足を踏み外しかけた。
かろうじて地面に降り立つと、何事もなかったように外套を払った。
「今のは着地地点の調査だ」
少年は大きく息を吸った。
「逃げ足卿だ!」
宿の入口にいた二人の子供が振り返った。
干し草を抱えていた小さな娘も、井戸のそばから顔を出した。
「逃げ足卿!」
「逃げ足卿が来た!」
「この前、ガチョウから逃げた人だ!」
プロコップの顔が見る間に険しくなった。
「誰が逃げ足卿だ!! 私は戦略的後退の専門家である。そして、あれは普通のガチョウではない。あの眼光、あのくちばし、あの翼。あれは羽毛をまとった暴君だった」
子供たちは笑った。
ユリアは馬車から降りながら、その様子を見ていた。
奇妙だった。
大人ならば、彼の大仰な物言いに眉をひそめる。あるいは馬鹿にする。
だが子供たちは、彼を馬鹿にしながらも近づいていく。
怖がっていない。むしろ、待っていた芝居の役者が戻ってきたような顔をしている。
プロコップは子供たちを追い払うように手を振った。
「散れ、散れ。高貴な旅人は多忙である。馬車を停め、名誉を休ませ、依頼主の安全を確保し、ついでに宿代が高くないか警戒せねばならん」
「パンは?」
「なぜ私の懐からパンが出ると思う」
「前に出たよ」
「あれは事故だ」
「干し肉は?」
「それはもっと重大な事故だ」
厩番の少年は笑いながら、《名誉》の引き具を外しはじめた。
プロコップは急に真顔になった。
「丁重に扱え。それは私の名誉だ」
少年は栗毛の馬を見上げた。
「馬でしょ」
「馬であり、名誉だ。複雑な事情がある」
ユリアが横から言った。
「馬の方が事情を迷惑がっていそうね」
「お嬢様。私の名誉に余計な説明を加えないでいただきたい」
《名誉》は静かに鼻を鳴らした。
「ほら、名誉も困っている」
「今のは同意です」
「便利な解釈ね」
宿の女将が出てきた。
ヴァルヴァラ・シュタイン。丸い顔に鋭い目をした、四十代ほどの女だった。
腰に前掛けを巻き、腕まくりをしている。客を迎えるというより、客が逃げないよう見張る顔だった。
「まあ、フライケイラー様」
「女将、久しいな。相変わらずこの宿は、香ばしい貧困の匂いがする」
「相変わらず口だけは貴族ですね」
「口以外にも由緒があります」
「宿代を払った由緒はありませんでしたけど」
プロコップは急に空を見た。
「今日はいい天気だ」
「雨上がりですよ」
「雨上がりの晴れほど、人生に似たものはありませんな」
「話をそらす時だけ詩人になるの、やめてください」
ユリアは女将に近づいた。
「一泊します。部屋を二つ。私は侍女と同室で構いません。フライケイラー卿は別で」
女将はすぐに姿勢を正した。ユリアの外套の質、手袋、立ち方、言葉の硬さ。それだけで客の階層を見たのだろう。
「承知しました、お嬢様。上の角部屋をご用意します。少し床が鳴りますが、雨漏りは直しました」
「少し?」
ユリアが聞くと、女将は一瞬だけプロコップを見た。
「フライケイラー様が落ちたところだけです」
「落ちたのではない」
プロコップは厳かに言った。
「床の強度を、この身をもって調査したのだ」
「床が負けました」
「私の高貴さに耐えきれなかったのでしょう」
子供たちがまた笑った。
宿の中は、旅人の熱と煮込みの匂いで満ちていた。
広間には長い卓が三つ並び、壁際には薪が積まれている。
窓辺では商人らしい男が帳面をつけ、奥では巡礼の夫婦がスープをすすっていた。
ユリアたちは二階の部屋へ案内された。
角部屋は狭くはなかったが、立派とも言えなかった。
寝台が二つ、古い箪笥が一つ、小さな洗面台がある。
窓を開けると、宿の裏手の井戸と、厩の屋根が見えた。
「悪くありませんね」
リーザが荷を置きながら言った。
「あなたは評価が寛大ね」
「床があります」
「プロコップ卿よりは厳しくないのね」
リーザは笑いかけて、慌てて口を押さえた。
ユリアは外套を椅子に掛けた。
「笑っていいわ。彼はたぶん、そのために半分ほど存在している」
「もう半分は?」
「逃げるためでしょう」
夕方になると、広間にはさらに客が増えた。
ユリアは下へ降りた。リーザも続いた。
プロコップはすでに一番暖炉に近い席を確保していた。
しかも自分の前にだけ、しっかり皿と杯を並べている。
「お嬢様、こちらです」
彼は胸を張った。
「よい席を押さえておきました。暖炉に近く、入口も見え、非常時には台所口から撤退できる。完璧です」
「食事の席にまで逃げ道が必要なの」
「必要です。人生の災難は、たいてい食事中に来る。人が油断するからです」
「あなたは油断しないの」
「します。だから逃げ道を用意します」
ユリアは彼の向かいに座った。
女将の娘らしい少女が、料理を運んできた。
年は十五ほど。黒い髪を後ろで結び、手首が細い。
皿を置く時に少し指が震えた。
名前はアーニャ・ヴァイスマンと呼ばれていた。
彼女はユリアの前に皿を置くと、すぐに目を伏せた。
ユリアはその手を見た。
指先に、古い火傷の跡がある。
働く娘なら珍しくない。
ただ、左手の親指にだけ、白い布が巻かれていた。
新しい傷だ。
布はきつく巻きすぎている。
誰かに巻いてもらったのではなく、自分で慌てて巻いたのだろう。
「あなた」
ユリアが声をかけると、少女はびくりとした。
「はい」
「親指、締めすぎよ。血が止まる」
アーニャは左手を後ろへ隠した。
「平気です」
「平気な人間は、隠す前に礼を言うわ」
プロコップが小声で言った。
「お嬢様、食前に人を解剖するのはお控えを。スープが冷めます」
ユリアは彼を見た。
「あなたはスープと人命なら、スープを先に心配するのね」
「人命は熱くても冷めても人命ですが、スープは冷めると悲劇です」
アーニャは困ったように二人を見て、すぐに厨房へ戻った。
その背中を、ユリアは目で追った。
プロコップはパンを割りながら言った。
「やめておいた方がいい」
「何を」
「あの娘を見ることです。あなたが人を見る時は、猟犬が穴を見つけた時に似ている」
「褒めているの」
「私は命知らずではありません」
「なら忠告ね」
「ええ。あの手の娘には、事情があります。宿で働く若い娘には、だいたい事情があります。事情とは、こちらから突くと面倒に変わるものです」
「あなたは面倒を避けるのが好きね」
「大好きです。面倒も私を避けてくれれば、相思相愛なのですが」
ユリアはスープを口に運んだ。
味は悪くなかった。塩が少し強い。旅人向けなのだろう。外で働く男たちには、このくらいがちょうどいい。
その時、広間の奥で女の声が上がった。
「ないわ」
声は高く、細かった。
帳面をつけていた商人の隣に、派手な帽子をかぶった婦人が立っていた。
年は三十前後。
旅装は上等で、手袋も靴も町の女のものではない。
彼女は自分の荷袋を乱暴に探りながら、青ざめていた。
「ないの。わたくしの銀の櫛が!!」




