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第三話 ヒーローとは送れてやってくるものだ

 三日後の朝、プロコップ・フォン・フライケイラーは遅れて現れた。


 空は晴れていた。晴れているのに、道はまだ湿っていた。

 玄関前には、ヒルシュアイス家の小型の旅用馬車が用意されていた。

 王都の夜会へ出るような華やかな馬車ではない。けれど、扉には控えめな家紋が入り、座席の革も窓枠の金具も、子爵家の娘を乗せるだけの品は保っていた。

 荷はすでに積まれ、リーザが最後の包みを確認している。


 ただし、馬はまだ繋がれていなかった。


 ユリアはそれを見て、少しだけ眉を動かした。


「馬は?」


 父は咳払いをした。


「フライケイラー卿が用意している」


「御者は?」


「彼が兼ねる」


「護衛であり、御者でもあるのですね」


「そうだ」


「安い理由が増えました」


 父は何か言いたげにしたが、言わなかった。

 母は玄関の少し奥で、ハンカチを握っていた。

 彼女は馬車を見るたびに不安そうな顔をし、ユリアを見るとさらに不安そうな顔をした。


 それでも、護衛はまだ来ない。


 父の口元が硬くなる。マルクスは懐中時計を三度見た。ユリアは階段の上で、手袋をはめながら待っていた。


 約束の時刻を半刻過ぎたころ、門の方で騒がしい声がした。


「待て、待てと言っている。これは遅刻ではない。到着時刻に対する優雅な抵抗である。高貴な者は、鐘に支配されぬものだ」


 声は大きかった。


 門から入ってきた男は、薄茶の外套を羽織り、羽根飾りのついた帽子を斜めにかぶっていた。

 外套は旅慣れているというより、雨と泥に負けた布のようだった。

 腰にはいちおう剣が帯びてある。だが、その剣よりも、胸を張る姿勢の方が目立った。


 男は馬から降りようとして、足を鐙に引っかけた。


 一瞬、庭全体が静かになった。


 男はかろうじて倒れなかった。何事もなかったように帽子を直し、咳払いをした。


「馬が私の高貴な着地に嫉妬したようだ」


 リーザが目を伏せた。

 笑いをこらえたのかもしれない。


 ユリアは階段の上から彼を見た。


 プロコップ・フォン・フライケイラー。


 年は二十代半ばほど。顔立ちは悪くない。

 鼻筋は通り、目はよく動く。動きすぎる。口元には、自分を大きく見せようとする笑みが貼りついていた。服はそれなりに整えているが、袖口の擦れと靴の傷は隠せていない。羽根飾りは立派だが、少し曲がっている。


 彼は広間の前まで来ると、芝居がかった仕草で帽子を取った。


「セルゲイ・フォン・ヒルシュアイス子爵閣下。お目にかかれて光栄至極。私はプロコップ・フォン・フライケイラー。由緒ある家名を背負い、旅路の危険を知り、なおかつ報酬の尊さを忘れぬ、実に均衡の取れた男でございます」


 父は一拍置いてから言った。


「遅れた理由を聞こう」


「馬です」


 即答だった。


 ユリアは少しだけ眉を動かした。


「馬が?」


 父が言う。


 プロコップは深く頷いた。


「はい。馬というものは、四本も足があるくせに、時折まったく信用できません。途中で一度、道端の草に心を奪われましてな。私は説得しました。しかし馬は反論しました。議論は実に長引いた」


「馬が反論したのか」


「無言で。沈黙は最も頑固な反論です」


 リーザが今度こそ肩を小さく震わせた。マルクスも咳払いをした。笑いを隠したのかもしれない。


 父は頭痛をこらえるように眉間を押さえた。


「旅の護衛を任せられるのだろうな」


 プロコップは胸に手を当てた。


「もちろんです。私は危険に対して極めて敏感です。誰よりも早く危険を察知し、誰よりも適切な撤退路を見つける」


「撤退路?」


「生き残る者だけが、依頼主を目的地までお送り届けることができるのです。死んだ護衛は勇敢かもしれませんが、荷物持ちとしてはいささか無能と言わざるを得ない」


 ユリアは階段を下りた。


 プロコップの目が彼女に向いた。


 彼は一瞬、言葉を失った。


 ユリアは濃紺の旅着に灰色の外套を羽織っていた。

 華美な装飾はない。

 だが、白い首筋と冷えた横顔が、かえってよく目立った。美しいというより、触れれば切れそうな静けさがあった。


 プロコップはすぐに態勢を立て直し、大げさに一礼した。


「そして、こちらがヒルシュアイス家のご令嬢であらせられますな。いや、実に――」


「言う前に選びなさい」


 ユリアは言った。


 プロコップは口を開けたまま止まった。


「褒めるなら、使い古した言葉はやめて。美しい、気高い、氷のようだ、そのあたりは聞き飽きているわ。気の利いたことを言えないなら、黙っていた方が損害は少ない」


 プロコップはゆっくり口を閉じた。


 そして、にこりと笑った。


「これはこれは。噂より刃渡りが長い」


「噂より足が速そうね」


「初対面の婦人にそこまで正確なことを言われると、私の繊細な名誉が傷つきますな」


「名誉があったの」


「先祖伝来の品です。磨けば光る」


「売れば?」


「買い手がつけば検討します」


 父が低く咳払いをした。


「ユリア。フライケイラー卿。道中は互いに礼を失わぬように」


 プロコップはまた胸に手を当てた。


「ご安心を。私は婦人に対しては常に礼儀深い。危険な時はまず婦人を馬車に乗せ、その後で私も全力で乗ります」


「置いて逃げるとは言わないのね」


 ユリアが言う。


「置いて逃げるなど、とんでもない」


 プロコップは心外そうに目を見開いた。


「荷物と依頼主を置いて逃げれば、報酬が減ります」


 母が小さく「あら」と声を漏らした。


 ユリアは彼を見つめた。


「正直ね」


「私は嘘をつきません」


「今のが一つ目」


「失礼な。正確には、私は必要な時にだけ嘘をつきます」


「二つ目」


「お嬢様は数を数えるのがお上手だ」


「あなたは数えられると困ることが多そうね」


「借金の話なら、担当者を通してください」


 ユリアはほんの少しだけ、目を細めた。


 プロコップは笑っていた。

 だが、借金という言葉を自分で出した時、左の親指が外套の端を撫でた。

 気にしている。だが隠すつもりが浅い。嘘は雑だけれど、悪意は薄い。


 面倒な男だ、とユリアは思った。


 プロコップもまた、ユリアを見ていた。


 美しい。

 だが、それを口にすれば氷の刃で刺されそうだと思った。

 賢い。

 だが、それを褒めても刺される。

 冷たい。

 だが冷たいと言えば、なぜそう見えるのか三つほど理由を述べられ、最後にはこちらの人格まで分析されることだろう。


 関わってはいけない女だ、と彼は直感した。


 しかし報酬はすでに半分受け取っている。


 人生には、逃げ遅れる危険というものがある。


 プロコップは自分の馬の首を軽く叩いた。


「紹介しておきましょう。これが我が愛馬、《名誉》です」


 ユリアは栗毛の馬を見た。


 馬は大人しく、黒い目でこちらを見ている。少なくとも、持ち主よりは誠実そうだった。


「名誉」


「ええ。よい名でしょう。私の名誉は、四本脚で立っております」


「あなた、この馬を売ろうとしたのね」


「お嬢様。馬の前で主人を辱めるのはお控えください。主従関係に響きます」


 父が馬車の方を示した。


「その馬を馬車に繋いでくれ」


 プロコップは一瞬、動きを止めた。


「閣下」


「何だ」


「この馬のない馬車は、祈りで進む予定ではなかったのですな」


「君の馬を使う」


「私の名誉が、この馬車を引くと」


「そうなる」


 プロコップは《名誉》を見た。

 《名誉》は何も知らぬ顔で、濡れた石畳の匂いを嗅いでいた。


「名誉とは、時に重荷を負うものですな」


 ユリアは馬車と馬を見比べた。


「あなたの名誉、初日からこき使われるのね」


「お嬢様、名誉とは飾るだけのものではありません」


「賭けで失いそうな名前なのに?」


「なぜ今から不吉なことを言うのです」


 プロコップは不本意そうな顔をしながらも、《名誉》を馬車の前へ連れていった。

 引き具を確かめ、革紐を締める。その手つきは意外に慣れていた。

 大仰な口ほど手元は騒がしくない。


 ユリアは少しだけそれを意外に思った。


 プロコップは気づいたのか、胸を張った。


「旅の男は、馬具くらい扱えねばなりません。馬具、財布、逃げ道。この三つは人生の基礎です」


「剣は?」


「時々、役に立ちます」


「時々なのね」


「抜かずに済む剣こそ、最も優秀な剣です」


「あなたの場合、抜く前に逃げるだけでしょう」


「それもまた、剣を長持ちさせる知恵です」


 結局、《名誉》は馬車の前へ繋がれた。

 プロコップはその様子を、まるで葬儀でも見守るような顔で眺めていた。


「名誉。聞け。これは屈辱ではないぞ。高貴なる奉仕だ。馬車を引くのではない。未来を運ぶのだ」


 《名誉》は尻尾を振った。


「今のは同意です」


「虫を払っただけでは?」


 ユリアが言うと、プロコップは聞こえなかったふりをした。


 荷の積み込みが終わる。


 母はユリアの手を取った。白い指が少し震えていた。


「体を大事にして」


「ええ」


「手紙を書くのよ」


「必要なことがあれば」


「必要がなくても」


 ユリアは母を見た。


 母の目は赤かった。

 昨夜、泣いたのだろう。

 泣くことは事実を変えない。

 けれど、母にとっては何かを外に出す手段なのかもしれない。

 そう考えて、ユリアは少しだけ声を和らげた。


「書きます」


 母はうなずいた。


 父は娘に近づいた。何か言いかけて、言葉を選び、結局短く言った。


「無事に着きなさい」


「はい」


「それと」


 父は一瞬だけ、プロコップの方を見た。


「あの男を信用しすぎるな」


 ユリアは父の視線を追った。


 プロコップは御者台へ上がろうとしていた。片足を掛け、少しだけ踏み外しかけ、何事もなかったように咳払いをしている。


「お父様」


「何だ」


「私はあの方を、まだ一秒も信用していません」


 父は苦い顔をした。


「ならいい」


 ユリアは馬車に乗った。リーザも後に続く。

 

 プロコップは御者台に上がり、手綱を握った。

 腰には剣、頭には曲がった羽根飾り。御者台に座っているのに、本人だけは騎士のつもりでいるらしい。

 その姿は滑稽で、少しだけ堂々としていた。


「フライケイラー卿」


 父が言った。


「娘を頼む」


 プロコップは深く頭を下げた。


「お任せください。私の命に代えましても」


 ユリアが馬車の中から言った。


「今のは嘘ね」


 プロコップは顔を上げた。


「お嬢様、出発前から護衛の士気を折るのはお控えいただきたい」


「あなたは命に代えないわ」


「代えませんとも」


 父が眉をひそめた。


 プロコップは堂々と言った。


「命に代えては、お嬢様を目的地までお送りできません。私が生き残ることは、依頼の一部です。実に責任感のある発言とご理解いただきたい」


 マルクスがとうとう下を向いた。


 ユリアは馬車の窓からプロコップを見た。


「あなた、思ったより長生きしそうね」


「最高の褒め言葉です。短命の英雄など、絵に描けば立派ですが、当人は寒い墓の下ですからな」


「英雄になりたいのでは?」


「なりたいですとも。ただし生きたまま」


 プロコップは《名誉》の耳へ向かって言った。


「よいか、名誉。今日は我々の品格がかかっている。ゆっくり、堂々と、できれば安く進め」


 馬は何も答えなかった。


「沈黙は信頼の証です」


「呆れているだけでは?」


 ユリアが馬車の中から言うと、プロコップは振り返らずに答えた。


「お嬢様、馬と私の関係に水を差さないでいただきたい」


 馬車が動き出した。


 門が開く。

 ヒルシュアイス家の屋敷が、ゆっくり後ろへ下がっていく。

 母は玄関に立ったまま、白いハンカチを握っていた。父は動かず見送っていた。家令も侍女も、みな雨上がりの光の中で小さくなっていく。


 ユリアは窓から顔を離した。


 リーザは向かいの席で、心配そうに座っている。


「大丈夫よ」


 ユリアが言うと、リーザは少し驚いた顔をした。


「私、何か顔に出ていましたか」


「出ていたわ。あなたは不安になると、鞄の留め具を三度触る」


 リーザは慌てて手を膝に置いた。


「申し訳ありません」


「謝るほどではないわ」


 馬車の前で、プロコップの声がした。


「名誉、右だ。左は水たまりが深い。水たまりというものは信用ならん。浅そうな顔をしている時ほど、奴らは深い」


 リーザが小さく笑いをこらえた。


 ユリアは窓の外を見た。


 プロコップは御者台で手綱を握っている。

 背筋だけは立派だった。

 風に外套がなびき、羽根飾りが揺れる。

 遠くから見れば、旅の騎士にも見えなくはない。

 御者台に座っていなければ、という条件つきで。


 道端の農家から、犬の吠える声がした。

 小さな黒犬が垣根の下から出てきて、馬車へ向かって吠える。


 プロコップの肩が跳ねた。


「犬だな」


 彼は言った。


「非常に獰猛な犬だ」


 黒犬は尻尾を振っていた。


 ユリアは窓越しに言った。


「フライケイラー卿」


「何でしょう」


「あなた、犬が怖いの?」


 プロコップは御者台で胸を張った。


「怖いのではありません。私は無用な敵を作らない主義です。犬という種族は、交渉が通じにくい。しかも噛む。外交相手として最悪です」


 黒犬がさらに一声吠えた。


 《名誉》は気にせず歩いた。むしろ、主人より落ち着いている。


「名誉、堂々としているな。よいぞ。主人を見習ったか」


「逆では?」


 ユリアが言うと、リーザがとうとう笑った。


 プロコップは振り返った。


「馬車の中で私の名誉が傷つけられている気配がする」


「今、名誉は馬車を引いているわ」


 馬車はゆっくりと王都を離れていく。


 道の両側には、濡れた畑が広がっていた。黒い土が朝の光を吸って、ところどころ銀色に光っている。遠くでは農夫が鍬を持ち、さらに遠くでは煙突から細い煙が上がっていた。


 屋敷の空気はもう届かない。


 ニコライの声も、父の沈黙も、母の涙も、馬車の後ろに少しずつ置かれていく。 

 けれど、置いてきたものは消えない。旅というものは、場所を変えれば心も変わるというほど親切ではない。ただ、同じ痛みを見る角度が少し変わるだけだ。


 ユリアは窓の外を見ていた。


 御者台のプロコップが、肩越しに振り返る。


「お嬢様」


「何」


「念のため申し上げておきますが、旅路というものは危険に満ちています。盗賊、悪天候、故障した橋、質の悪い宿、さらに質の悪いスープ。つまり、我々は常に死と隣り合わせです」


「スープで死ぬの?」


「まずいスープは魂を削ります」


「それで?」


「危険に際しては、私の指示に従っていただきたい」


「逃げろ、以外の指示があるの?」


「あります。伏せろ、黙れ、財布を隠せ、そして場合によっては私を見失うな」


「御者台にいるのに?」


「私が先に安全な場所を確認している可能性があります」


「つまり逃げたのね」


「先行偵察です」


 ユリアは少しだけ息を吐いた。


「フライケイラー卿」


「はい」


「あなたは卑怯者ね」


 プロコップは、まるで称号を授けられた騎士のように顎を上げた。


「違います。私は生存に対して誠実なのです」


 《名誉》が鼻を鳴らした。


「ほら、名誉も同意している」


「馬まで巻き込まないで」


「名誉は私の側です」


「今は馬車の側よ」


 プロコップは一瞬黙った。


「お嬢様」


「何」


「その返しは少々鋭すぎます」


「刃渡りが長いのでしょう」


「噂以上でしたな」


 馬車は道を進んだ。

 春の終わりの風が、雨上がりの草の匂いを運んできた。どこかで雲雀が鳴いている。空はまだ薄く曇っていたが、西の方にだけ、ほんの少し光が差していた。


 ユリアはその光を見た。


 旅は始まったばかりだった。

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