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第二十五話 逃げる方向

 翌朝、ローゼンフェルト家の屋敷には、焼きたてのパンの匂いが満ちていた。


 昨日までの屋敷なら、朝の匂いはもっと薄かった。

 花と、磨かれた床と、乾いた布と、静かに老いていく家具の匂い。

 けれど今朝は違った。

 台所では村へ運ぶためのパンが焼かれ、廊下には毛布を抱えた使用人が行き来し、玄関前には荷馬車が停まっている。


 完全な屋敷ではなくなっていた。


 ユリアは、そこにかすかな安堵を覚えた。


 窓の外の白い薔薇も、昨日の火事の煙を少し浴びたままだった。

 花弁の端が薄く曇っている。

 庭師が摘もうとしたのを、イリーナが止めたのだとリーザから聞いた。


「今日はそのままでいいわ」


 イリーナはそう言ったらしい。


 それが、ただの気まぐれなのか、少しだけ何かが変わったのか、ユリアにはまだ分からなかった。


 朝食の席には、イリーナとユリア、それからプロコップがいた。


 プロコップは、昨夜よりいくらか顔色が戻っていた。

 ただ、羽根帽子を失ったため、どこか全体に物足りない。

 本人もそれを自覚しているらしく、たびたび頭に手をやっては、ない帽子を直そうとしていた。


「フライケイラー卿」


 イリーナが言った。


「新しい帽子を用意させましょうか」


 プロコップはすぐに顔を上げた。


「よろしいのですか」


「昨日のお礼です」


「では、羽根は大きめで」


「プロコップ」


 ユリアが言った。


「何でしょう」


「遠慮という言葉を知っている?」


「知識としては」


「使う気は?」


「状況に応じて」


 イリーナは少し笑った。


 昨日までの笑みとは、どこか違っていた。

 完璧に整えられた笑みではない。

 疲れが混じり、火事の煙の残り香があるような笑みだった。


「大きすぎない羽根にしましょう」


「それは中庸という名の敗北です」


「では、ほどほどに立派な羽根で」


「妥協しましょう」


 プロコップは深く頷いた。


「私は寛大です」


「お礼を受け取る側が寛大なのね」


 ユリアが言うと、彼は胸を張った。


「受け取るにも器が要ります」


 朝食が終わると、イリーナはユリアを庭へ誘った。


 プロコップはついて来ようとしたが、家令に新しい帽子の寸法を測られることになり、玄関先で捕まった。


「お嬢様」


 彼は深刻な顔で言った。


「もし羽根の角度について不当な扱いを受けた場合、私は抗議します」


「好きになさい」


「帽子は男の第二の顔です」


「では今のあなたは、顔が一つ足りないのね」


「その通りです。非常に不安定です」


 彼が家令に連れて行かれるのを見届け、ユリアはイリーナと庭へ出た。


 庭は朝露で濡れていた。


 整えられた小道。

 左右に並ぶ白い薔薇。

 噴水の水音。

 昨日までと同じ庭のはずなのに、どこか違って見える。

 花弁の端に煤の痕があり、昨日、村へ毛布を運ぶために通った荷車の轍が、砂利の上に薄く残っていたからだろう。


「昨日は、助けられました」


 イリーナが言った。


「私は指示をしただけです」


「それが必要だったのよ」


 ユリアは薔薇の前で足を止めた。


「あなたも、よく動かれていました」


「領主ですもの」


「静かに暮らしているだけの方かと思っていました」


 イリーナは苦笑した。


「率直ね」


「失礼でしたか」


「少し。でも、間違ってはいないわ」


 彼女は白薔薇の枝に触れた。棘を避ける手つきは慣れている。


「私は、静かなものが好きなの。昔からではないわ。夫が亡くなってからよ。大きな声や、急な変化や、人の感情の波が怖くなった。だから、この屋敷を静かにした。庭を整え、使用人に音を立てさせず、客を選び、余計な噂を入れないようにした」


「それで、私も静かにしようとしたのですね」


「そうね」


 イリーナは否定しなかった。


「あなたが傷ついていると聞いて、私は思ったの。ここへ来れば、あなたも休めるだろうと。王都から離れ、噂から離れ、あなた自身の言葉からも少し離れて」


「私の言葉から」


「ええ」


 ユリアは薔薇を見た。


「言葉から離れたら、私は何になるのでしょう」


 イリーナは答えなかった。


 庭の噴水が、細く水を吐いていた。


「あなたは、ここに残りたい?」


 イリーナが尋ねた。


 ユリアはすぐには答えなかった。


 残ることはできる。


 この屋敷は安全だ。

 美しい。

 食事も寝床もある。

 誰も彼女を大声で罵らない。

 父と母も安心するだろう。

 王都の噂も遠のく。

 ニコライも、彼女が無事なら少しは心を軽くするかもしれない。


 ここで、静かに暮らす。


 本を読み、手紙を書き、庭を歩く。

 時々、村のことに口を出し、イリーナと礼儀正しく食事をする。

 人を傷つけることは減るだろう。

 少なくとも、昨日のアリョーナのように、その場で誰かを壊すことは少なくなる。


 けれど、それは自分が正しくなったからではない。


 ただ、刃を鞘ごと箱にしまうだけだ。


「残れません」


 ユリアは言った。


 イリーナは目を伏せた。


「そう言うと思ったわ」


「怒りますか」


「いいえ。少し寂しいだけ」


「寂しい?」


「ええ。あなたは難しい子だけれど、この屋敷には少し必要な難しさだったのかもしれない」


 ユリアは彼女を見た。


 イリーナは庭の轍へ視線を向けた。


「昨日、庭に荷車の跡が残ったでしょう。庭師がすぐ均そうとしたの。でも、止めたわ。あれを消すと、昨日のことまで綺麗に片づけてしまいそうで」


 風が吹いた。


 白薔薇が、かすかに揺れる。


「完璧な静けさは、楽だけれど、少し人を鈍くするのね」


 ユリアは何も言わなかった。


 言えば、何かを切る気がした。


 イリーナはユリアの沈黙に気づいたのか、小さく笑った。


「今、言葉を選んでいるのね」


「ええ」


「少し変わったわ」


「先日、人を壊しましたから」


「ヴィルデンハーゲンの娘のこと?」


「ええ」


「そのことを、忘れない方がいいわ」


「忘れません」


「でも、それだけで黙ってしまうのも違う」


 イリーナの声は、柔らかかった。


「昨日のあなたは、村の人を動かした。泣いている母親に、倒れるなと言った。あれは、刃ではなかったわ」


 ユリアは少しだけ目を伏せた。


「私はまだ、使い分けられません」


「なら、学べばいい」


「どこで?」


「ここでも学べるでしょう。でも、あなたはたぶん、道の上で学ぶ人ね」


 ユリアは、遠くの門を見た。


 丘の下には街道がある。村があり、川があり、宿場があり、逃げる花嫁や帰れない兵士や、待ち続ける娘がいる。


 そして、逃げ足の速い下級貴族も。


「フライケイラー卿と行くの?」


 イリーナが聞いた。


「まだ、決めていません」


「彼は逃げるわよ」


「知っています」


「借金もある」


「知っています」


「口も悪いし、頼りになるのかならないのか、分からない方ね」


「知っています」


 イリーナは少し笑った。


「では、なぜ」


 ユリアは答えを探した。


 プロコップは卑怯者だ。

 臆病で、虚栄心が強く、借金にだらしなく、都合が悪くなると逃げる。

 自分を英雄だと飾り立て、子供にからかわれ、犬やガチョウにも警戒する。


 だが、戻る。


 文句を言いながら。言い訳をしながら。善意ではないと言い張りながら。自分が小物であることを隠しきれないまま、それでも戻ってくる。


 そして、逃げ道を知っている。


 自分だけではなく、誰かを連れて逃げる道を。


「彼は、逃げ道を知っています」


 ユリアは言った。


 イリーナはそれを聞いて、静かに頷いた。


「そう」


「私は、逃げ道を軽蔑していました。逃げる人間も。けれど、逃げることで助かる人もいる。逃がすことで救えるものもある」


「あなたも逃げるの?」


「いいえ」


 ユリアは少し考えた。


「たぶん、違います。私はここから逃げたいのではなく、自分で行き先を決めたいのです」


 イリーナは、その言葉を受け止めるように黙った。


 やがて言った。


「セルゲイには、私から手紙を書くわ」


「父は怒るでしょうか」


「怒るでしょうね」


「母は泣きますね」


「たぶん」


「それでも?」


「それでも、あなたがここで静かに枯れていくよりはいい」


 ユリアは、初めてイリーナを少し近くに感じた。


 屋敷の中から、プロコップの声が聞こえた。


「いや、これは少し地味すぎる! 私は弔問に行くのではない、人生に立ち向かうのだ。羽根にはもう少し角度を!」


 イリーナは吹き出した。


 ユリアも、少し笑った。


「にぎやかな方ね」


「ええ」


「静かな屋敷には、時々ああいう人も必要なのかもしれないわ」


 その日の午後、プロコップは新しい帽子を手に入れた。


 羽根は、本人の希望より控えめで、イリーナの希望よりは少し大きかった。つまり、妥協の産物としてはよくできていた。


 プロコップは鏡の前で、何度も角度を確かめた。


「どうです、お嬢様」


「前よりはまともね」


「まとも」


「褒め言葉よ」


「もう少し詩的な表現が欲しいところです。たとえば、勇壮、気高い、見る者の心を奪う、など」


「帽子にそこまで背負わせるのは酷よ」


「帽子は背負うためにある」


「頭に乗せるものよ」


 彼は少し考えた。


「お嬢様は時々、常識的なことを冷酷に言いますな」


 ユリアは机の上に、旅支度のための手紙を置いた。


 父への手紙。母への手紙。イリーナからの添え状。リーザは荷をまとめている。ローゼンフェルト家に残る予定だった荷の多くは、そのまま馬車へ戻された。


 プロコップはそれを見て、動きを止めた。


「お嬢様」


「何」


「発つのですか」


「ええ」


「どこへ」


「まだ決めていないわ」


「それは、非常に危険な言葉です。目的地のない旅は、財布と靴に悪い」


「あなたは目的地があっても寄り道するでしょう」


「それは人生の余白です」


「では、余白を少し広げるだけよ」


 プロコップは帽子を取った。


 真面目な顔になった。


「私と?」


 ユリアは彼を見た。


「嫌なら、ここで別れていいわ。契約は終わった。あなたは報酬を受け取り、借金を少し返し、どこかへ逃げればいい」


「逃げる前提なのですな」


「得意でしょう」


「得意です」


 彼は否定しなかった。


 けれど、すぐには笑わなかった。


「お嬢様は、私を信用しているのですか」


「信用というほどではないわ」


「では?」


「あなたが逃げることは信用している」


「ひどい」


「戻る可能性も、少し信用している」


 プロコップは黙った。


 しばらくして、椅子に腰を下ろした。珍しく、芝居がかった仕草ではなかった。


「私は、あなたにふさわしい男ではありません」


「誰もそんな話はしていないわ」


「いえ、しています。旅を続けるということは、世間的にはそういう話に近づきます。子爵家の令嬢と、借金持ちの下級貴族。しかもその男は逃げ足だけが取り柄で、子供に変なあだ名をつけられ、帽子の羽根に人生を賭けている」


「客観的ね」


「自分の悪口は、先に言っておくと少し安く済む」


「それも逃げね」


「ええ」


 彼は胸に手を当てた。


「私は逃げる男です。危険からも、責任からも、時には自分の善意からも逃げます」


「知っているわ」


「あなたは、それでも?」


「私は、人を傷つける女よ。正しさを刃物にしてしまう。昨日のアリョーナのように、人を壊すこともある」


「知っています」


「それでも?」


 プロコップは彼女を見た。


 窓から入る午後の光が、彼の新しい帽子の羽根を少し明るく照らしていた。似合っていると言えば似合っている。似合いすぎて、少し腹立たしい。


「私は、あなたが刃を抜いた時、逃げるかもしれません」


「ええ」


「しかし、戻って止めるかもしれない」


「ええ」


「あなたは、私が逃げた時、刺すでしょう」


「ええ」


「そして、戻る道も残しておくかもしれない」


 ユリアは少しだけ黙った。


「努力するわ」


「不安な返事です」


「今の私には、それが正確よ」


 プロコップはしばらく考えた。


 それから立ち上がり、大げさに一礼した。


「では、プロコップ・フォン・フライケイラー、引き続きお供いたしましょう」


「報酬は?」


「もちろん必要です」


「そこは変わらないのね」


「愛や信頼で馬は飼えません。パンも買えません。羽根も買えない」


「羽根は必要?」


「非常に」


 ユリアは小さく笑った。


 その日の夕方、イリーナと屋敷の者たちが玄関前に集まった。


 昨日助けられた村の子供たちも来ていた。顔にはまだ煤の跡が少し残っている。彼らはプロコップを見ると、一斉に声を上げた。


「逃げ足卿!」


 プロコップは新しい帽子を押さえ、威厳を保とうとした。


「誰が逃げ足卿だ。私はプロコップ・フォン・フライケイラー。由緒ある家名を背負い、地下道より生還した男である」


「逃げ足卿、ありがとう!」


「地下で逃げたの?」


「子供を連れて逃げた!」


 子供たちは笑った。


 プロコップは一瞬、言い返そうとして、やめた。


「そうだ」


 彼は言った。


「私は逃げた。だが、君たちを置いては逃げなかった。そこは正確に語るように」


 子供たちは顔を見合わせた。


 それから、一人の男の子が言った。


「じゃあ、助けてから逃げる卿?」


 プロコップは額を押さえた。


「称号が長くなる一方だ」


 ユリアは横で言った。


「あなたにしては、正確な称号ね」


「お嬢様まで」


 イリーナが笑いながら、小さな包みを渡した。


「道中に。パンと干し肉です」


 プロコップの顔が輝いた。


「夫人、あなたは大変に高貴な方だ」


「食べ物を渡すと評価が上がるのですね」


「人間の本質です」


 イリーナはユリアの前に立った。


「手紙は、私からも出しておきます」


「ありがとうございます」


「王都に戻りたくなったら、戻ればいい。ここに来たくなったら、来てもいい。ただし、閉じ込めるためではなく、休むために」


 ユリアは少しだけ頭を下げた。


「はい」


「それと」


 イリーナは声を落とした。


「言葉を失わないで。けれど、それで傷ついた娘のことも忘れないで」


「忘れません」


 リーザが馬車に乗り込む。


 プロコップは御者台へ上がり、手綱を取った。新しい羽根帽子が、夕方の風に少し揺れる。《名誉》は馬車の前で、いつものように落ち着いていた。


「名誉」


 プロコップは声を低めた。


「再び旅だ。お前は馬車馬としての不遇に耐え、私は御者としての現実に耐える。どちらがより悲劇的かは、後世の議論に委ねよう」


 《名誉》は鼻を鳴らした。


「よし。異論なしだな」


「異論を言えないだけでしょう」


 ユリアが窓から言うと、プロコップは肩越しに振り返った。


「お嬢様、出発前から馬の言論を否定するのはおやめください」


「では、その馬に聞いて。どちらへ行くか」


「名誉は賢いが、地図は読めません」


「あなたは読めるでしょう」


「時々、間違えます」


「知っているわ」


 イリーナがそれを聞いて、少し笑った。


 プロコップは手綱を握り直した。


「さて、お嬢様」


「何」


「どちらへ」


 ユリアは一瞬、道を見た。


 東には王都へ戻る道がある。


 北には山を越える道がある。


 西へ行けば、プロコップの借金の一部を返すため、グリゴリーへ送金する町がある。さらにその先には、ヴィルデンハーゲンへ戻る道も分かれている。


 アリョーナに、今すぐ会えるわけではない。

 会うべきかも分からない。

 けれど、手紙を書くことはできる。謝罪させるかどうかを、彼女に委ねるだけでなく、こちらから言葉を選んで差し出すことはできる。


「まず、西へ」


 ユリアは言った。


「借金の手続きを済ませるわ」


 プロコップは御者台で顔をしかめた。


「実に現実的な出発ですな」


「逃げないためには、まず帳尻を合わせる必要があるのでしょう」


「お嬢様、旅の最初に帳尻という言葉を持ち出すのは縁起が悪い」


「そのあと、ヴィルデンハーゲンへ手紙を出す」


 プロコップは少しだけ真面目な顔になった。


「アリョーナ嬢へ?」


「ええ」


「会うのですか」


「まだ分からないわ。まず手紙を書く。返事を待つ。彼女が会いたくないなら、会わない」


「よろしい」


「その後は」


 ユリアは道の先を見た。


 夕方の光が、丘の道を金色にしていた。


「その後、考えるわ」


 プロコップは胸を張った。


「目的地未定の旅。実に危険で、非合理で、財布に悪い。だが、まあ」


「まあ?」


「少し面白そうではあります」


 馬車が動き出した。


 ローゼンフェルト家の屋敷が、少しずつ後ろへ下がる。

 白い壁。灰色の屋根。白薔薇の庭。開いたままの廊下の窓。

 そのすべてが、夕方の光の中で静かに遠ざかっていく。


 イリーナは玄関前で見送っていた。


 子供たちは道の端までついてきた。


「逃げ足卿、また来てね!」


「銅像作るね!」


「羽根、大きくしてね!」


 プロコップは御者台から振り返った。


「銅像は私を大きく、羽根はさらに大きく作れ! そして台座にはこう刻め。プロコップ・フォン・フライケイラー、助けてから逃げた男!」


 子供たちは声を上げて笑った。


 ユリアは馬車の窓から彼を見た。


「認めるのね」


「何を」


「助けてから逃げる男だと」


 プロコップは少しだけ考えた。


「逃げない男になるのは、私には荷が重すぎます」


「でしょうね」


「ですが、逃げる時に誰かを連れていくくらいなら、まあ、時々は」


「時々?」


「頻繁にやると評判になります。評判は仕事を呼ぶ。仕事は面倒を呼ぶ。面倒は命を縮める」


「もう遅いわ。子供たちが広めるでしょう」


 プロコップは絶望したように空を見上げた。


「子供ほど危険な吟遊詩人はいない」


 馬車は丘を下っていく。


 西の空は赤く染まり、遠くの森は黒く沈みはじめていた。風は少し冷たかったが、悪くなかった。道の先には、まだ何も決まっていない余白があった。


 ユリアは膝の上で、ヴィルデンハーゲンから受け取った木箱に触れた。


 パンは捨てませんでした。


 その短い言葉を、彼女は忘れないだろう。


 プロコップが御者台から肩越しに言った。


「お嬢様」


「何」


「確認しておきたいのですが」


「ええ」


「この旅は、危険な人助けの旅ではありませんな」


 ユリアは窓の外を見たまま答えた。


「危険な人助けの旅にしたいの?」


「断じて嫌です」


「なら、違うわ」


「よかった」


「ただ、道中で誰かが嘘をついていたら、気になるかもしれない」


「不穏です」


「誰かが逃げたがっていたら、あなたが気づくかもしれない」


「さらに不穏です」


「子供が泣いていたら」


「やめましょう」


「あなたは戻るかもしれない」


 プロコップは手綱を握り直した。


「お嬢様」


「何」


「私は、あなたといると非常に不利です」


「そうでしょうね」


「逃げ道を塞がれる」


「あなたも、私の刃を止めるわ」


「仕事が増えますな」


「報酬を払うわ」


 プロコップは真顔になった。


「今の言葉、証人は?」


「リーザがいるわ」


 馬車の中で、リーザが小さく笑った。


「聞いております」


「素晴らしい。侍女殿は実に信頼できる。では、契約成立です」


「まだ金額を言っていないわ」


「そこは今後の交渉で」


「借金の返済が先ね」


「お嬢様は本当に、夢に冷水をかけるのがお上手だ」


 ユリアは少し笑った。


 プロコップも、少しだけ笑った。


 その笑いは、いつものように大仰で、軽薄で、どこか逃げ腰だった。けれど、その奥に、ほんの少しだけ違うものがあった。


 逃げる男。


 逃げない女。


 けれど、これからは少し違う。


 彼は、誰かを連れて逃げることを覚えた。


 彼女は、真実を渡す手の強さを覚えはじめた。


 まだ恋とは呼べなかった。


 呼べば、二人ともきっと嫌な顔をするだろう。プロコップは報酬の話に逃げ、ユリアは定義を求めるに違いない。


 だから今は、それでよかった。


 馬車は西へ進んだ。


 夕陽の中で、プロコップの新しい羽根が風に揺れる。少し大きすぎる。少し滑稽で、少し誇らしげだった。


「フライケイラー卿」


「はい」


「羽根、似合っているわ」


 プロコップは御者台で固まった。


「お嬢様」


「何」


「今のは、罠ですか」


「違うわ」


「本当に?」


「ええ」


 彼はしばらく黙った。


 それから、少し顔を逸らし、咳払いをした。


「そうですか」


「ええ」


「では、記録に残してください。プロコップ・フォン・フライケイラー、西へ向かう旅路において、羽根が似合っていると認められる」


「長いわ」


「名誉は長いほどよいのです」


「逃げる時に邪魔よ」


「その時は畳みます」


 ユリアは窓にもたれなかった。背を伸ばしたまま、道の先を見ていた。


 遠くに、次の町の灯りが一つ、また一つと見えはじめていた。


 どの灯りにも、嘘があるかもしれない。


 臆病があるかもしれない。


 逃げたい誰かがいるかもしれない。


 言葉を必要とする誰かがいるかもしれない。


 そして、きっと面倒もある。


 プロコップはそれに気づけば逃げるだろう。


 文句を言い、金の話をし、危険を避け、子供に笑われるだろう。


 それでも、たぶん戻ってくる。


 ユリアは、そう思った。


 それは信頼と呼ぶには、まだ少し危うかった。


 けれど、旅を続けるには十分だった。

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