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第二十四話 フライケイラーの地下道

 一方、プロコップは屋敷へ駆け戻っていた。


 丘を登る道は、こんな時には長すぎた。

 《名誉》が息を荒くする。

 プロコップも息を荒くする。

 途中で二度ほど、自分だけこのまま別の道へ行けばどうなるかを考えた。


 北へ抜ける道がある。

 剣も腰に戻っている。

 報酬は失うが、命は助かる。


 逃げ道は、はっきり見えた。


 見えたから、腹が立った。


「まったく」


 彼は《名誉》に言った。


「私はどうしてこうも、逃げ道がよく見えるのに、最近は戻る道ばかり選ぶのだ。これは病か。高貴な病か。いや、ただの愚かさだな」


 《名誉》は答えなかった。


「無言の同意は傷つくぞ」


 屋敷へ着くと、イリーナと家令がすでに庭の北側へ向かっていた。

 薔薇垣の裏に、小さな石造りの入口があった。

 普段は蔓に隠れて見えない。鉄の扉は錆びており、開けると湿った冷気が流れ出した。


 プロコップは《名誉》から降り、手綱を家令に押しつけた。


「丁重に。これは馬であり名誉であり、現在は交通手段でもあります」


 家令は困惑しながらも頷いた。


 プロコップは松明を受け取った。


 年老いた庭師が震える声で言った。


「昔、あそこから下の村まで続いていると聞いたことがあります。けれど、誰も通ったことは」


「誰も通ったことのない道ほど、通る時に嫌な音を立てます」


 プロコップは言った。


「イワン、来い。背は低い方がいい。高貴な私は少々困るが、今日は我慢しよう」


 若い村人イワンは黙って頷いた。


 イリーナがプロコップを見た。


「危険なら戻って」


「夫人。私は危険なら戻る男です」


 彼は胸を張った。


「ただ、今回は戻る方向が少し複雑でしてな」


 そう言って、地下へ入った。


 階段は狭かった。


 石は湿っており、足元に苔があった。

 松明の光が壁を赤く揺らし、天井から水が滴る。酒蔵の匂いがした。

 古い樽、冷えた石、湿った土。

 その奥に、かすかに煙の匂いが混じっている。


 プロコップはすぐに止まった。


「煙が来ている。通じているな」


「子供たちは」


「まだ分からん」


 彼は壁に手を当てた。


 地下の空気は、時々かすかな流れを持っている。

 逃げ道を探す者は、その流れを読む。人が築いたものは、たいていどこかへ抜けようとする。完全に閉じた場所は、食料にも人間にも不向きだからだ。


 フライケイラー家の昔話を思い出した。


 祖先は敵を倒したのではない。

 城を守り抜いたのでもない。

 燃える町から、地下の穴を通して人を逃がした。


 子供の頃、プロコップはその話が嫌いだった。


 剣を振り、敵を討ち、名誉を勝ち取った祖先がよかった。人を逃がしただけなど、いかにも地味だ。

 地下道。煙。泣く子供。煤けた顔。

 そんなものは英雄譚ではないと思っていた。


 今、彼はその地味な話の中にいた。


「笑えん」


 彼は呟いた。


「何か?」


 イワンが聞く。


「先祖が、今の私を見たら鼻で笑うだろうと思ってな」


「なぜです」


「剣を持っているのに、また穴を這っている」


 イワンは真面目に言った。


「人を助けるなら、いいのでは」


 プロコップは彼を見た。


「君は若いのに、時々ひどく単純で痛いことを言うな」


「すみません」


「謝るな。正しいと余計に腹が立つ」


 彼らは奥へ進んだ。


 酒蔵の奥に、古い木戸があった。

 錠は朽ちていたが、扉は歪んでいる。二人で肩を当てると、鈍い音を立てて開いた。


 その先は、低い通路だった。


 天井が低く、プロコップは腰をかがめなければ進めない。

 煙が少しずつ濃くなる。彼は布を濡らして口に当て、イワンにも同じようにさせた。


「声を出すな。必要な時だけ短く」


 そう言った直後、奥から小さな音がした。


 咳。


 子供の咳だった。


 プロコップは立ち止まった。


 もう一度、音がした。


 今度は泣き声が混じっていた。


「いた」


 イワンが言いかける。


 プロコップは手で制した。


 通路の先に、崩れた木枠があった。

 古い貯蔵穴の一部だろう。煙が上の隙間から流れ込んでいる。木枠の向こうに、小さな影が三つあった。


「おい」


 プロコップは声を低くした。


「生きているか」


 返事は、泣き声だった。


 十分だった。


 彼は木枠を押した。動かない。イワンと二人で引く。古い木が軋む。天井から土が落ちた。


「無理にやると崩れます」


「知っている。だから嫌なのだ」


 プロコップは周囲を見た。


 横に小さな隙間がある。

 大人は通れない。子供なら通れる。だが、子供たちは煙で弱っている。自力で出るのは難しい。


「イワン」


「はい」


「私は今から、非常に不本意なことをする」


「何を」


「この高貴な体を、狭い穴へ押し込む」


「……入れますか」


「失礼な。入る。入らなければ、私はここで歴史に笑われる」


 プロコップは外套を脱ぎ、剣を外した。


 腰が急に軽くなる。


 またか、と彼は思った。


「剣を預かれ」


「はい」


「丁重に。これは私の威厳の三割だ」


 イワンは真剣に頷いた。


 プロコップは隙間へ体をねじ込んだ。


 狭い。

 暗い。

 湿っている。

 石が肋骨に当たる。

 まったく英雄的でない。


 だが、向こう側で子供が咳をしている。


「くそ」


 彼は呟いた。


「私は子供の咳が嫌いだ」


 何とか向こう側へ抜けると、そこに三人の子供がいた。


 一人は男の子。八歳ほど。もう一人はもっと小さな女の子。三人目は、粉挽きの娘らしい少し年上の少女だった。彼女が下の二人を抱えるようにしていた。


 煙で目が赤い。


「誰」


 少女がかすれた声で聞いた。


「プロコップ・フォン・フライケイラー」


 彼は咳き込みながら言った。


「由緒ある家名を背負う、今、非常に狭い場所で威厳を失っている男だ」


 男の子が泣きながら言った。


「助けて」


「そのために来た。感謝は後で銅像にして返せ」


「銅像?」


「大きいやつだ」


 少女の顔が少しだけ緩んだ。


 プロコップは布を子供たちの口に当てた。


「聞け。泣くなとは言わん。泣いていい。ただし、吸う息は少なくしろ。泣きすぎると煙も一緒に食う。煙はまずい。私の経験では、安宿の豆よりまずい」


 小さな女の子が、泣きながら少し笑った。


「よし。笑えるなら生きている」


 彼は一人ずつ、隙間へ押し出した。


 向こう側でイワンが受け取る。最初の男の子。次に小さな女の子。最後に年上の少女。


 その時、上で何かが崩れた。


 木の梁が落ち、火の粉が隙間から落ちてきた。煙が一気に濃くなる。


 プロコップは咳き込んだ。


「行け!」


 イワンが向こうで叫んだ。


「フライケイラー様!」


「様をつける余裕があるなら、子供を連れて走れ!」


 彼は最後の少女の背を押した。


 少女は隙間を抜けた。向こうでイワンが受け止める。


 プロコップも続こうとした。


 だが、さっきより隙間が狭くなっていた。落ちた木片が引っかかっている。


「冗談だろう」


 彼は木を押した。


 動かない。


 煙が喉を焼く。


「私はこういう死に方をする予定ではない。もっと老いて、温かい寝台の上で、借金取りより先に逃げ切った顔で死ぬ予定だ」


 独り言が咳に変わった。


 その時、向こう側からイワンの声がした。


「手を!」


「先に子供を」


「もう行かせました!」


「剣は?」


「持っています!」


「よし、威厳は無事だ!」


 プロコップは片腕を隙間へ差し込んだ。


 イワンが引く。


 石が肋骨に食い込む。服が破れる。羽根帽子はとっくにどこかで落ちていた。高貴さの欠片もない。


 それでも、彼は抜けた。


 向こう側へ転がり出た瞬間、背後で木枠がさらに崩れた。


 通路が半分塞がる。


 イワンが彼を起こした。


「走れますか」


「走れるかだと」


 プロコップは咳をしながら立ち上がった。


「私は逃げ足において、世界最高水準の男だ」


 彼らは子供たちを抱え、来た通路を戻った。


 屋敷の酒蔵へ出た時、プロコップは全身煤だらけだった。

 外套は破れ、袖は焦げ、顔は真っ黒になっていた。

 髪には蜘蛛の巣がついている。


 だが、子供たちは生きていた。


 屋敷の庭へ出ると、使用人たちが駆け寄った。

 イリーナが毛布を持って待っていた。子供たちを包み、水を飲ませる。


 プロコップは石段に腰を下ろした。


 咳が止まらない。


 イリーナが彼の前に膝をついた。


「よく」


「感謝は不要です」


 プロコップはかすれた声で言った。


「後日、銅像の相談を」


 イリーナは泣きそうな顔で笑った。


「《名誉》は」


 プロコップが咳の合間に言った。


「名誉は無事ですか」


 家令が慌てて答えた。


「庭に。無事です」


「よろしい。私より扱いを丁寧に」


「あなたも今、丁寧に扱われているわ」


 イリーナが言うと、プロコップは煤だらけの顔で少しだけ笑った。


「では、私も馬並みには出世しましたな」


 その頃、村では火がようやく弱まり始めていた。


 ユリアは煙の中で、人を動かし続けていた。

 焦げた納屋の柱が崩れ、灰が舞う。母親たちは井戸のそばで待っている。

 待つことしかできない時間は、人を最も苦しめる。


 遠くから馬の足音がした。


 丘の方から、屋敷の使用人が駆けてくる。


「見つかりました!」


 その声は、村中に広がった。


「子供たちは無事です! 地下道から、フライケイラー卿が!」


 母親たちが泣き崩れた。


 ユリアは、その場で目を閉じた。


 深く息を吸う。煙の匂いが肺に入る。少し咳き込んだ。


 無事。


 その言葉が、こんなにも重いとは思わなかった。


 子供たちが屋敷の方から運ばれてきた時、村はしばらく言葉を失った。


 煤だらけの顔。毛布に包まれた小さな体。泣きながら母親に抱きつく子供たち。


 その後ろから、プロコップが歩いてきた。


 歩いているというより、半分引きずられていた。

 イワンに肩を貸され、帽子もなく、髪は乱れ、顔は煤で真っ黒だった。

 外套は焦げ、片袖は破れている。腰には剣が戻っていたが、鞘は煤で汚れていた。


 その少し後ろを、《名誉》が使用人に引かれて歩いていた。馬車馬の革具を半分だけ戻され、不服そうに耳を動かしている。


 子供たちの一人が泣きながら叫んだ。


「逃げ足卿が助けてくれた!」


 村人たちが一斉に彼を見た。


 プロコップは、かすれた声で言った。


「逃げ足卿ではない!! 私はプロコップ・フォン・フライケイラー……」


 そこで咳き込んだ。


 子供たちは泣きながら笑った。


 ユリアは彼へ近づいた。


「ひどい格好ね」


 プロコップは顔を上げた。


「お嬢様。第一声がそれですか」


「生きている人間にしか言えない言葉よ」


「なるほど。それは実に、あなたらしい祝辞です」


 彼は少しふらついた。


 ユリアはとっさに腕を伸ばし、支えた。


 プロコップは彼女の手を見た。


「おや」


「何」


「お嬢様が、私を支えている」


「倒れられると邪魔なの」


「そうですか。実用的でよろしい」


 彼は少しだけ笑った。


 その笑いは疲れていた。けれど、逃げてはいなかった。


 村の母親の一人が、泣きながらプロコップの前へ来た。


「ありがとうございました」


 彼は困ったように後ろへ下がろうとした。


 だが、ユリアの手が腕を掴んでいたため、逃げられなかった。


「いや、その、礼は」


「本当に、ありがとうございました」


 母親は頭を下げた。


 プロコップは狼狽した。


「私は別に、善意でやったわけではありません。地下道があるかどうか、知的好奇心が」


「嘘ね」


 ユリアが言った。


「お嬢様、今は少し見逃す優しさを」


「あなたは子供を助けたわ」


「結果的に」


「助けた」


 プロコップは何か言おうとした。


 だが、周囲には村人たちがいた。母親たちがいた。子供たちがいた。イリーナも、家令も、リーザもいた。


 逃げ道は、いくつも見えただろう。


 しかし、彼は逃げなかった。


「では」


 彼は煤だらけの顔で、妙に真面目に言った。


「礼は、銅像で」


 村人の間に、少し笑いが起きた。


 緊張が解ける音だった。


 ユリアも、少しだけ笑った。


 火は夕方までに完全に消えた。


 粉挽き小屋は半分焼け、納屋は失われた。

 だが、村人は全員生きていた。

 怪我人はいたが、命に関わる者はいない。

 イリーナは村へ食料と毛布を配らせ、家令に被害の記録を取らせた。

 彼女は静かなだけの女ではなかった。少なくとも、領地の主としての責任は持っていた。


 その夜、屋敷の広間には、煤と煙の匂いが少し残っていた。


 プロコップは椅子に沈み込んでいた。

 湯で顔を洗っても、まだ耳の後ろに煤が残っている。羽根帽子は救出されなかった。本人はそれを「名誉ある戦死」と呼んだ。


「お嬢様」


 彼は疲れ切った声で言った。


「私は今日、かなり立派だったのでは?」


 ユリアは向かいに座っていた。


「ええ」


 プロコップは目を見開いた。


「ええ?」


「今日は立派だったわ」


 彼はしばらく黙った。


 それから、急に居心地悪そうに身じろぎした。


「お嬢様」


「何」


「もう少し、いつものように削っていただけますか。褒められると落ち着かない」


「あなたは面倒ね」


「その調子です。少し安心しました」


 ユリアは彼を見た。


「でも、今日のあなたは本当に立派だった」


 プロコップは逃げられない顔をした。


 剣も、帽子も、言い訳も、今日は役に立たなかった。


 彼はしばらくして、ぽつりと言った。


「私の先祖は」


 ユリアは黙って聞いた。


「城を守った英雄ではありませんでした。敵将を討ったわけでも、旗を立てたわけでもない。地下道から、民を逃がした。それで小さな土地と、フライケイラーの名を得た」


「いい話ね」


「私は嫌いでした」


「なぜ」


「地味だからです」


 彼は笑った。


「子供の頃は、剣を振る英雄がよかった。馬上で敵を蹴散らし、美女に見つめられ、王から褒められ、金貨もたくさんもらう。そういう先祖がよかった」


「最後があなたらしいわ」


「重要です」


 彼は少しだけ目を伏せた。


「逃がしただけ。そう思っていました。戦わず、逃げ道を作っただけだと」


「今日、同じことをしたのね」


「ええ」


 プロコップは深く息を吐いた。


「そして、思ったより大変でした。先祖には少し謝ってもいい」


「謝るだけ?」


「銅像も建てます。私の横に小さく」


「先祖の方が大きいのでは?」


「歴史的にはそうでしょうが、発注するのは私です」


 ユリアは笑った。


 今度は、はっきり笑った。


 プロコップはそれを見て、少し驚いた顔をした。だが、からかわなかった。


 しばらくして、ユリアは言った。


「私は今日、少しだけ分かった気がするわ」


「何を」


「真実を言うことと、人を動かすことは違う。昨日の私は、アリョーナから足場を奪った。今日は、村の人に立つ場所を残して言葉を使った」


「かなり進歩ですな」


「褒めているの」


「命がけです」


「あなたも、逃げたわね」


 プロコップは顔を上げた。


「私が?」


「ええ。今日は誰よりも逃げ道を探した」


「それは」


「でも、自分だけではなかった」


 プロコップは黙った。


 ユリアは静かに続けた。


「あなたは逃げる男よ。でも、誰かを連れて逃げることもできる」


 プロコップは、長いこと何も言わなかった。


 暖炉の火が、彼の横顔を照らしている。

 煤は落ちきっていない。

 袖は破れ、髪は乱れ、椅子に沈んでいる姿は、英雄とは呼びにくかった。


 それでもユリアには、妙に目に残った。


「お嬢様」


「何」


「その言葉は、私には少々高すぎます」


「そう」


「もう少し安くしていただきたい」


「できないわ」


「困った方だ」


 彼は目を伏せた。


 そして、小さく言った。


「では、少しだけ受け取ります」


 夜が深くなると、屋敷の静けさは戻ってきた。


 けれど昨日の静けさとは少し違っていた。

 廊下にはまだ誰かの足音が残り、地下から運び出された煤の匂いがあり、台所では村へ送るパンを焼く音がしていた。屋敷は、完璧ではなくなっていた。


 その分だけ、息がしやすかった。


 ユリアは自室に戻る前に、廊下の窓を見た。


 昨夜、プロコップが開けようとしていた窓だった。

 今夜は少し開いている。外の風が入り、白薔薇の匂いと、遠い煙の名残を運んできた。


 プロコップが横に立った。


「閉めますか」


「いいえ」


「寒くありませんか」


「少し」


「では閉めた方が」


「少し寒いくらいの方が、眠らずに済むわ」


「それは健康に悪い」


「あなたに言われるとは思わなかった」


「私は健康にはうるさい。逃げるにも体力が要ります」


 ユリアは窓の外を見た。


 下の村には、まだ小さな灯りがいくつか見える。火事のあとの夜。誰も完全には眠れないだろう。それでも子供たちは、母親の腕の中で眠るかもしれない。


 その事実だけは、悪くなかった。


「フライケイラー卿」


「はい」


「明日、あなたは発つの?」


 プロコップはすぐには答えなかった。


 夜風が、彼の焦げた袖を小さく揺らした。


「本来は」


「本来は?」


「発つべきです」


「そう」


「ですが、今日私は、地下道で命を張り、羽根帽子を失い、外套を焦がしました。これほどの損失を出して、ただ帰るのは商業的に不適切です」


「つまり?」


「追加報酬の交渉が必要です」


「嘘ね」


「ええ」


 彼はあっさり認めた。


「では、本当は?」


 プロコップは窓の外を見た。


「この屋敷は、昨日より少し逃げやすくなりました」


「どういう意味」


「窓が開いている。地下道も知った。村へ降りる道も分かった。人も少し動き始めた」


「ええ」


「なら、もう少し残っても、死にはしないかもしれない」


 ユリアは彼を見た。


「それは、私のため?」


「違います」


 即答だった。


「私は、私の後味のために残るのです。お嬢様をここに置いて去ると、どうも胃のあたりが落ち着かない。胃は重要です」


「あなたらしいわ」


「ええ。実用的な男ですから」


 ユリアは小さく頷いた。


「では、明日も逃げ道を探して」


「承知しました」


「ただし、自分だけのではなく」


 プロコップは少しだけ笑った。


「分かっております」


 窓の外で、夜の庭が静かに揺れた。


 白薔薇は、もう完全な白ではなかった。火事の煙を吸ったのか、いくつかの花弁の端が薄く灰色になっている。


 その方が、少し生きている花に見えた。



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