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第二十三話 名誉を借りる男

 その時、外から煙の匂いが流れてきた。


 遠い火の匂いだった。木が燃える匂い。

 湿った藁が焦げる匂い。風がそれを屋敷の丘まで運んできている。


 プロコップの顔が、はっきり変わった。


「急ぎましょう」


 玄関前には、すでに馬車が二台用意されていた。


 一台はローゼンフェルト家の荷馬車で、毛布と水樽が積まれている。

 もう一台はユリアたちの小型馬車だった。《名誉》が馬具をつけられ、落ち着かないように前脚を踏み替えている。


 プロコップは迷わず御者台へ上がった。


「名誉、今日は文句を言うな。主人も言わん。たぶん」


 《名誉》が鼻を鳴らす。


「よろしい。沈黙の同意だ」


「独り言を言っている暇はないわ」


 ユリアが馬車に乗り込むと、プロコップは手綱を引いた。


「出します」


 馬車は白い砂利を蹴って走り出した。


 下の村は、屋敷から半里ほど下った谷間にあった。


 ローゼンフェルト家の領地に属する小さな村で、粉挽き小屋と幾つかの農家、納屋、馬小屋が寄り集まっている。

 丘の上の屋敷から見ると、絵のように穏やかな場所に見えた。


 だが、近づくにつれて、その絵は崩れた。


 煙が谷に溜まっていた。


 黒色の煙が地面を這い、風に押されて道へ流れてくる。

 村の入口では女たちが桶を運び、男たちが水車小屋の方へ走っていた。

 子供が泣いている。犬が吠えている。燃えているのは粉挽き小屋の横の納屋だった。乾いた藁が入っていたのだろうか、火の色は明るく、妙に美しかった。


 美しい火は、たいてい危険だ。


 プロコップは馬車を止めると、御者台から飛び降りた。すぐに周囲を見る。


「風は北から。煙は谷の底へ流れている。水車小屋の裏へ行くな。煙を吸う」


「子供は?」


 ユリアが聞く。


 村の女が泣きながら答えた。


「見当たらないのは三人です。ソーニャの子が二人と、粉挽きのニーナが一人。朝、古い貯蔵穴の方で遊んでいたって」


「貯蔵穴?」


 プロコップの顔がこわばった。


 イリーナが家令に向かって言った。


「どこなの」


 家令ボリスが指差す。


「粉挽き小屋の裏手です。昔の麦蔵へつながる穴が残っています。今は使っておりません」


「なぜ塞いでいないの」


 ユリアが言うと、家令は苦い顔をした。


「塞ぐ予定でした」


「予定は、子供を閉じ込めるには不十分ね」


 その言葉に、家令の顔が歪んだ。


 プロコップがユリアを見た。


「今は刺すより先に掘り出しましょう」


「ええ」


 彼は火の方を見た。


 煙が濃い。粉挽き小屋の裏へ直接向かうのは危険だった。村人の一人が布で口を覆って近づこうとしたが、すぐに咳き込み、膝をついた。


 プロコップは低く呟いた。


「駄目だ。正面は無理だ」


「なら、どうするの」


 ユリアが聞いた。


 プロコップは谷の斜面を見た。


 その目が、いつもの逃げ道を探す目になった。


 ただし、今度は自分が逃げるためではない。


「この村は古い。粉挽き小屋の裏に貯蔵穴があるなら、屋敷の古い酒蔵か氷室につながっている可能性がある」


 家令が驚いた。


「なぜそれを」


「昔の屋敷は、食料と人を隠すために穴を掘る。地下の風は、上の持ち主より正直だ」


 プロコップは言いながら、地面に膝をついた。


 土を触り、煙の流れを見る。


「ここではない。煙がこちらへ吸われていない。別の空気穴がある」


 イリーナが言った。


「屋敷の地下に、古い酒蔵があります。今はほとんど使っていません」


「入口は?」


「庭の北側、薔薇垣の裏に」


 プロコップは舌打ちした。


「丘の上か」


「戻るの?」


 ユリアが言った。


「戻ります」


 プロコップは即答した。


「だが、これは逃げではありません。上から入るのです。地下が通じていれば、子供たちの近くへ出られる。通じていなければ、私が暗く湿った場所で大変不愉快な思いをするだけです」


「私も行くわ」


「駄目です」


 彼は即座に言った。


 ユリアは目を細めた。


「なぜ」


「地下道は狭い。煙が入っているかもしれない。天井が落ちるかもしれない。鼠がいるかもしれない。私は鼠にも一定の敬意を払っていますが、暗闇で会うのは遠慮したい」


「理由が多いわね」


「多いほど正しい」


「あなた一人で行くの?」


「一人ではありません。誰か、細身で、力があり、無駄口を叩かず、私の指示に従う者」


 プロコップは周囲を見た。


 村の若い男が一人、前へ出た。


「行きます」


 名はイワン・クラウゼといった。二十歳ほどで、煤で顔が汚れていた。目だけが強かった。


 プロコップは頷いた。


「よろしい。あなたは勇敢そうだ。私は勇敢な者を嫌いではない。前に出しやすいからだ」


 イワンは一瞬、返事に困った。


 ユリアはプロコップを見た。


「私は上で何をすればいい」


 プロコップはすぐに答えた。


「人を動かしてください」


「人を?」


「火事場では、親切な人間ほど邪魔になります。水を運ぶ者、子供を探す者、泣く者、叫ぶ者、みな正しいが、ばらばらでは死人が増える」


「分かったわ」


「それと」


 彼は少し言いにくそうにした。


「真実を使うなら、短く。人が動ける形で」


 ユリアは彼を見た。


 昨日、彼が言った言葉がまだ残っている。


 ――刺す場所を選べ。


 ユリアは頷いた。


「努力するわ」


「努力という言葉は不安ですが、今は信じましょう」


 プロコップはイリーナへ向き直った。


「夫人、屋敷へ戻ります。酒蔵を開けてください。古い図面があるなら、持ってこさせてください。なければ、年寄りを。昔の屋敷の穴は、図面より年寄りが覚えています」


 イリーナはすぐに頷いた。


「ボリス、聞いたわね」


「はい」


「毛布と水は村に残す。ユリア、あなたは」


「村に残ります」


 イリーナは一瞬、止めようとした。


 だが、燃える納屋から黒い煙が上がり、女の叫び声がした。


 彼女は言葉を飲み込んだ。


「分かったわ」


 プロコップは《名誉》へ駆け寄った。


 そして馬車の前に立つと、素早く留め具を外しはじめた。


「フライケイラー卿?」


 ユリアが呼ぶ。


「馬車では遅い。名誉を借ります」


「あなたの馬でしょう」


「今は馬車馬です。立場というものは時に不便ですな」


 プロコップは最後の革紐を外した。


 《名誉》は首を振り、自由になった背を震わせた。プロコップはその首筋を軽く叩く。


「名誉。久しぶりに、主人を乗せろ。今日は逃げるためではない」


 彼は鞍も整わぬまま《名誉》の背へ飛び乗った。


 不格好ではなかった。


 御者台で手綱を握っていた男の姿が、ほんの一瞬だけ、昔の騎士じみて見えた。


 しかし本人はすぐに言った。


「勘違いしないでいただきたい。これは格好をつけているのではありません。移動効率です」


「分かっているわ」


「念のためです。歴史家が誤解すると困る」


「今回は、書いておくわ。プロコップ・フォン・フライケイラーは、逃げ道を探しに戻った」


 プロコップは少し不満そうにした。


「もう少し勇ましい表現は」


「戻ってから考えなさい」


「実に合理的だ」


 彼は《名誉》を走らせた。


 丘の上へ向かって。


 背中が煙の向こうに小さくなる。


 ユリアはそれを一瞬だけ見送り、それから振り返った。


 村は混乱していた。


 火はまだ燃えている。

 納屋の屋根が崩れかけ、火の粉が飛んでいた。

 女たちは泣き、男たちは怒鳴り合い、桶の列は途中で乱れている。

 誰も悪くはない。だが、誰もが自分の恐怖に従って動いていた。


 ユリアは深く息を吸った。


 そして言った。


「泣く人は井戸のそばへ。水を運ぶ人は二列に。空の桶を持って戻る道と、満ちた桶を運ぶ道を分けなさい。ぶつかって水をこぼす暇はないわ」


 声は大きすぎなかった。


 だが、よく通った。


 村人たちが彼女を見る。


「子供を探す人は、名前を叫ばないで。煙の中で声を出すと、吸う息が増える。布を濡らして口に当てて。粉挽き小屋の裏へ近づくのは二人まで。他は邪魔になる」


 誰かが怒鳴った。


「貴族のお嬢様に何が分かる!」


 ユリアはその男を見た。


「あなたがここで怒鳴ると、子供が一人助かるの?」


 男は口を閉じた。


「怒鳴る力があるなら、桶を運びなさい。腕は使えるでしょう」


 彼は顔を赤くしたが、すぐに桶を取った。


 リーザも井戸のそばで布を濡らしている。手は震えていたが、逃げなかった。


「リーザ」


「はい」


「子供の母親たちをこちらへ。火のそばへ行かせないで」


「ですが」


「行けば倒れる。倒れた人を助ける手がまた減る。そう伝えて」


 リーザは頷いた。


 母親たちは泣き叫んでいた。ユリアは彼女たちのそばへ行った。


「見つけます」


 それだけ言った。


 一人の母親がユリアの袖を掴んだ。


「本当に?」


 ユリアは、言葉を選んだ。


 見つかるとは言えない。

 助かるとも言えない。

 嘘で支えることは、もうしたくなかった。


 だが、真実をそのまま投げれば、彼女は崩れる。


「今、見つけるために動いています」


 ユリアは言った。


「だから、あなたは倒れないで。子供が戻った時、抱く腕が必要です」


 母親は泣きながら頷いた。


 それは慰めではなかった。


 けれど、彼女は座り込まずに済んだ。


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