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第二十一話 旅の終着

 廊下の角を曲がると、プロコップが壁にもたれていた。


 片手に酒杯を持っている。だが、中身はほとんど減っていなかった。


「飲んでいないの」


「味見はしました。高級な葡萄酒です。私の舌が身分差に緊張しております」


「なぜここに」


「逃げ道の確認です」


「この廊下に?」


「客間から出る人間の顔も確認できます」


 ユリアは立ち止まった。


 プロコップは彼女の顔を見た。


「どうでした」


「静かだったわ」


「でしょうな」


「あなたの言う通り、上品な会話は危険ね」


「剣より厄介です。剣なら、少なくとも抜いたことが分かる」


 ユリアは窓の方を見た。


 廊下の窓からは、夜の庭が見えた。

 白い薔薇は闇の中でも白かった。

 整えられすぎた庭。道から外れた草の一本も見当たらない。


「ここが、私の目的地なのね」


 ユリアは言った。


「そのようですな」


「あなたの仕事は終わりね」


 プロコップはすぐには答えなかった。


 酒杯の中で、葡萄酒が小さく揺れた。


「契約上は」


「ええ」


「明日、私は報酬の話をして、剣を返していただき、借金の半分をグリゴリーへ送る手続きをし、そして華麗に去る予定です」


「華麗に?」


「予定では」


 ユリアは彼を見た。


「去りたい?」


 プロコップは目を逸らした。


「非常に難しい問いです。安全、金銭、精神衛生の観点からは、去るべきです。この屋敷は私に向いていない。食事は少ない。逃げ道も少ない。会話は上品で危険。おまけに剣は人質」


「それで?」


「それで」


 彼は困ったように笑った。


「去るべき時に去れない男は、実に愚かです」


「あなたは愚かなの?」


「お嬢様には、もう少し優しい問いを学んでいただきたい」


 ユリアは何も言わなかった。


 プロコップも笑みを消した。


「今日は、お休みください」


「あなたがそういうことを言うのね」


「私にも実用的な優しさくらいはあります。めったに出ませんが」


「希少品ね」


「保護してください。できれば夕食の増量で」


 ユリアは少しだけ笑った。


 その笑いはすぐに消えたが、プロコップは見逃さなかった。見逃してもいいものを、彼は時々見逃さない。


 部屋へ戻ると、リーザが待っていた。


「大丈夫ですか」


「ええ」


「本当に?」


 ユリアは椅子に腰を下ろした。


 窓の外では、庭が月明かりに白く浮かんでいる。美しい。静か。安全。何も起きない場所。


 そこにいる自分を想像した。


 本を読み、刺繍をし、礼拝堂へ行き、庭を歩く。


 王都の噂が薄れるまで。

 父が安心するまで。

 母が泣かなくなるまで。

 ニコライが別の誰かと結婚するまで。

 自分の言葉が、人々の記憶から少しずつ消えていくまで。


 それは死ではない。


 けれど、生きているとも言いにくかった。


「リーザ」


「はい」


「私はここで、静かに暮らせると思う?」


 リーザはすぐには答えなかった。


 彼女はユリアの侍女だった。主人に都合の悪いことを言わない訓練を受けている。

 けれど、この旅で少し変わったのかもしれない。

 彼女はしばらく考えたあと、静かに言った。


「暮らせるとは思います」


「そう」


「でも、お嬢様は、だんだん口数が少なくなると思います」


「それは悪いこと?」


「分かりません。でも、私は……少し怖いです」


 ユリアは彼女を見た。


「私が黙ることが?」


「はい」


 リーザの声は震えていたが、逃げなかった。


「お嬢様のお言葉は、怖い時があります。でも、お嬢様が何も言わなくなる方が、もっと怖い気がします」


 ユリアは目を伏せた。


 今日、何人目だろう。


 自分に言葉を残すなと言わない人間は。


 ニコライ。

 プロコップ。

 リーザ。


 みな、自分の言葉に傷ついたことがある。あるいは怯えたことがある。それなのに、黙るなという。


 人間は複雑で、面倒で、分類しにくい。


 ユリアは机の上に、ヴィルデンハーゲンで受け取った木箱を置いた。蓋の樫の木の葉を指でなぞる。


 ――パンは捨てませんでした。


 アリョーナは、まだ彼を待っているのかもしれない。

 待たないと決めたのかもしれない。

 何も決められず、ただ眠っているのかもしれない。


 ユリアには、もう分からなかった。


 分からないものが増えていく。


 それは不快だった。

 だが、不快なだけではなかった。


 夜半、屋敷はさらに静かになった。


 遠くで時計が鳴った。


 一つ、二つ、三つ。


 ユリアはなかなか眠れなかった。


 窓の外の白い薔薇は、月の下でも光を失わない。風もない。葉も揺れない。すべてが止まっているようだった。


 その静けさの中で、ふと廊下の方から小さな物音がした。


 足音ではない。もっと軽い音。


 ユリアは上着を羽織り、扉を開けた。


 廊下の先で、プロコップが窓を開けようとしていた。


「何をしているの」


 彼はびくりと肩を跳ねさせた。


「お嬢様。夜中に背後から声をかけるのは、心臓への暗殺です」


「窓を開けようとしていたわね」


「確認です」


「逃げ道の?」


「ええ」


 彼はあっさり認めた。


 ユリアは窓へ近づいた。


 外は庭だった。二階の窓からは、下の芝生までかなり高さがある。降りられなくはないが、普通は降りない。


「ここから逃げるつもり?」


「いいえ。私はまだそこまで追い詰められていません。それに、この高さは足に悪い。逃走には着地が重要です」


「では、なぜ」


 プロコップは窓の外を見た。


「この屋敷は静かすぎる」


「あなたもそう思うの」


「思います。音がなさすぎる場所は、人を眠らせるか、狂わせるかのどちらかです」


「大げさね」


「私は大げさで身を守る男です」


 彼は窓から手を離した。


「お嬢様」


「何」


「明日、私は帰るべきでしょう」


「ええ」


「契約は終わった。報酬も必要だ。借金もある。私には私の、実にみすぼらしい事情が山ほどある」


「そうね」


「ですが」


 彼はそこで言葉を切った。


 ユリアは待った。


 彼は待たれることに慣れていないようだった。しばらく帽子の羽根を探すように頭へ手をやり、帽子をかぶっていないことに気づいて手を下ろした。


「この屋敷にあなたを置いていくのは、少々、後味が悪い」


「後味」


「ええ。私は後味というものに弱い。子供の泣き顔と同じです。腹に残る」


「私は子供ではないわ」


「知っています。子供より厄介です」


 ユリアは、ほんの少しだけ笑った。


 プロコップも少し安心したように息を吐いた。


「ただ、私はあなたを連れ出す理由もない」


「そうね」


「誘拐は犯罪です。逃亡の手助けも、状況によっては面倒です。私は犯罪と面倒を嫌う。とても嫌う」


「でしょうね」


「だから、もし逃げるなら」


 彼は言いにくそうに言った。


「お嬢様ご自身が決めてください。私は、道くらいは知っています」


 廊下は静かだった。


 窓の外で、雲が月を少し隠した。庭の白薔薇が、灰色に沈む。


 ユリアはプロコップを見た。


「あなた、私が逃げたいと思っていると?」


「分かりません」


「あなたにしては珍しい答えね」


「私は人の財布と逃げ道については詳しいが、あなたの心の中まで地図にした覚えはありません」


「見れば分かるのでは?」


「お嬢様は、見れば見るほど分からなくなる種類の方です」


 プロコップは肩をすくめた。


「ただ、ここにいるあなたは、少し息を止めているように見える」


 ユリアは答えなかった。


 胸の奥で、その言葉が静かに触れた。


 息を止めている。


 そうかもしれない。


「今夜は逃げないわ」


「それは何よりです。夜の逃亡は足元が危険です」


「明日も、たぶん逃げない」


「たぶん、ですか」


「ええ」


 プロコップは深く頷いた。


「では私は、明日まで窓の確認を続けます」


「それは必要?」


「必要です。逃げ道とは、使わない時にこそ価値がある。あると知っているだけで、人は少し呼吸できる」


 ユリアは窓の外を見た。


 月はまた雲から出た。


 白い薔薇が、静かに光を取り戻す。


 美しい庭。

 静かな屋敷。

 安全な檻。


 その中で、開きかけの窓が一つ。


 ユリアは、小さく息を吸った。


「フライケイラー卿」


「はい」


「その窓、閉めなくていいわ」


 プロコップは彼女を見た。


 それから、ゆっくり頷いた。


「承知しました」


 廊下に、夜の空気が少し流れ込んだ。


 遠くで、葉の擦れる音がした。


 この屋敷に来て、初めて聞く外の音だった。

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