第二十話 静かな場所
昼を過ぎると、道はなだらかな丘へ入った。
葡萄畑が広がり、ところどころに古い石垣がある。
遠くには白い屋敷が見えた。丘の上に建っている。灰色の屋根、尖った塔、広い庭。美しい屋敷だった。
美しすぎるものは、時々、息をする場所を奪う。
あれが、ローゼンフェルト家の屋敷だろう。
馬車の中で、リーザが小さく息を呑んだ。
「立派なお屋敷ですね」
「ええ」
ユリアは窓の外を見た。
ニコライの手紙の一節が、また胸の中で開いた。
――あの家は静かです。静かすぎるかもしれません。
屋敷へ近づくにつれ、道はよく整えられていった。
馬車の揺れが小さくなる。
両側には背の高い糸杉が並び、足元には白い砂利が敷かれている。
門には黒い鉄細工の薔薇が絡み、門番の男は無駄のない動きで扉を開けた。
プロコップは御者台からあたりを見回した。
「これは」
「何」
「逃げにくい屋敷ですな」
ユリアは窓越しに彼を見た。
「最初に見るのがそこなの」
「当然です。左右は生垣。正面は門。裏手はたぶん庭園。道は美しいが見通しがよすぎる。逃亡者に対する配慮が足りない」
「普通、屋敷は逃亡者に配慮しないわ」
「だから世の屋敷は信用できないのです」
馬車は玄関前に停まった。
プロコップは手綱を引き、《名誉》を静かに止めた。それから御者台を降りる前に、ひどく小さな声で言った。
「名誉、ここから先は気をつけろ。美しい場所ほど、餌が少ない」
《名誉》は何も答えなかった。
白い石段の上に、女が一人立っていた。
イリーナ・フォン・ローゼンフェルト。
年は四十代の半ばほどだろう。
銀の混じる淡い髪を結い、深緑の衣をまとっている。
美しい人だった。
だが、美しさが少し乾いているようにも見えた。
水を与えられないまま、形だけ保たれた花のようだった。
彼女は微笑んだ。
その微笑みは、よく訓練されていた。
「ようこそ、ユリア」
「お招きありがとうございます、ローゼンフェルト夫人」
「イリーナでいいのよ。遠いとはいえ、親類ですもの」
ユリアは一礼した。
「では、イリーナ様」
イリーナは少しだけ笑った。
「相変わらず、きちんとしているのね」
「初対面に近い相手へ、いきなり距離を詰めるのは礼儀ではありませんので」
イリーナの微笑みが、ほんのわずかに固まった。
プロコップは御者台から降り、《名誉》の手綱を使用人へ預けながら、小声で言った。
「到着早々、門扉に言葉の刃を立てるのは感心しませんな」
「事実よ」
イリーナはプロコップへ視線を移した。
「こちらが護衛の方ね」
プロコップは帽子を取った。
「プロコップ・フォン・フライケイラーにございます。由緒ある家名を背負い、幾多の困難を退け、時に避け、時に戦略的に距離を取りながら、ご令嬢を無事ここまでお送りいたしました」
「まあ」
イリーナは上品に微笑んだ。
「大変な旅でしたのね」
「ええ。主に精神面が」
「フライケイラー卿」
ユリアが言うと、彼はすぐに口を閉じた。
イリーナの後ろには、使用人たちが控えていた。
屋敷の中へ入ると、空気が変わった。
静かだった。
静かすぎるほどに。
床は磨かれ、壁には風景画がかかり、廊下には花が活けられていた。
香りは薄い。
花の香りというより、古い家具と乾いた布と、長いあいだ動かされていない時間の匂いがした。
誰も大きな声を出さない。
使用人の靴音も小さい。扉の開け閉めにも音がない。完璧な屋敷だった。
完璧であるために、生きているものの気配を少しずつ削った屋敷だった。
「疲れたでしょう」
イリーナは優しく言った。
「お部屋を用意してあります。南向きの明るい部屋よ。庭も見えるわ。ここでは、ゆっくり休めます」
「ありがとうございます」
「王都のことは、忘れてしまいなさい」
ユリアは彼女を見た。
「忘れるべきことなのですか」
イリーナは立ち止まらなかった。
「忘れた方が楽なことはあるわ」
「楽になることが、正しいとは限りません」
「正しさは、時々人を疲れさせるわ」
その言い方は、柔らかかった。
柔らかい布の中に針を隠すような声だった。
ユリアは返事をしなかった。
案内された部屋は、たしかに美しかった。
大きな窓から庭が見える。庭には白い薔薇が整然と植えられ、その奥には噴水がある。
寝台には薄い青の天蓋がかかり、机には新しい便箋とインクが置かれていた。
棚には数冊の本もある。すべて、静かに暮らすためのものだった。
リーザはほっとしたように荷を置いた。
「いいお部屋ですね」
「ええ」
ユリアは机の上の便箋を見た。
何も書かれていない白い紙。
きれいすぎる紙は、かえって何も書くなと言っているように見える。
夕食は、細長い食堂で取った。
卓にはイリーナとユリア、プロコップが着いた。リーザは別室だった。
プロコップは最初、使用人用の食堂へ回されかけたが、ユリアが「彼は護衛です」と言ったため、同席することになった。本人はそれを聞いて、少し誇らしげだった。
「私は客人ですかな」
「護衛よ」
「客人より危険な響きですが、席があるなら受け入れましょう」
イリーナはプロコップを珍しいもののように見ていた。
「フライケイラー卿は、お話がお上手ね」
「ありがとうございます。話術は、剣と同じく男の武器です」
「剣は?」
イリーナが尋ねると、プロコップの顔がわずかに曇った。
「現在、名誉ある事情により、ご令嬢の管理下にあります」
「管理下?」
「言い換えれば、人質です」
「担保よ」
ユリアが訂正した。
イリーナは少しだけ目を細めた。
「ずいぶん信頼されているのね、ユリア」
「信頼ではありません。必要な管理です」
「あなたらしいわ」
その言葉は、笑みと一緒に出された。
だが、ユリアには分かった。
ここでの「あなたらしい」は、褒め言葉ではない。
食事は静かだった。
料理は上品で、量は少なめだった。
白身魚、薄いスープ、柔らかなパン、白葡萄酒。
プロコップは明らかに足りなさそうな顔をしたが、必死に品よく食べていた。
「足りないの?」
ユリアが聞くと、彼は小声で言った。
「足りています。私の胃は貴族的に満たされています」
「顔が飢饉よ」
「お嬢様、食卓での残酷な観察はお控えを」
イリーナは静かに笑った。
「ここでは、軽い食事にしているの。夜は胃に負担をかけない方がいいでしょう」
「実に健康的で、私の魂には少々厳しい」
「フライケイラー卿」
「はい、黙ります」
食後、イリーナはユリアを小さな客間へ誘った。
プロコップもついて来ようとしたが、使用人に別室で酒を勧められた。彼は一瞬迷い、ユリアを見た。
「お嬢様」
「行っていいわ」
「よろしいのですか!」
「この屋敷で、今すぐ刺客が出るとは思えない」
「刺客より、上品な会話の方が時々危険です」
「その時は自分で逃げ道を探すわ」
プロコップは不満そうだったが、酒という誘惑には勝てなかった。
「では、私は別室にて、屋敷の葡萄酒の安全性を確認してまいります」
「飲みすぎないで」
「安全確認は時に量を必要とします」
ユリアはイリーナと二人で客間に入った。
部屋には小さな暖炉があり、壁には刺繍の額がかかっていた。
窓には厚いカーテン。外の風も、庭の音も届かない。
イリーナは椅子に腰を下ろした。
「疲れたでしょう」
「旅には慣れました」
「そうではなくて」
彼女は静かに言った。
「人に会い続けることに、よ」
ユリアは答えなかった。
「あなたのことは、セルゲイから聞いています。婚約のことも。王都でのことも」
「父は、どのように」
「あなたが少し疲れている、と」
「便利な言葉ですね」
イリーナは微笑んだ。
「あなたは、そうやって何でも切ってしまうのね」
「切ったつもりはありません」
「つもりがなくても、切れることはあるわ」
ユリアの指が、膝の上で少し動いた。
イリーナは続けた。
「ここでは、無理に話さなくていいの。誰かを正す必要もない。誰かの嘘を暴く必要もない。あなたはただ、静かに過ごせばいい」
「それは、私に黙れという意味ですか」
「違うわ」
「では?」
「休みなさい、という意味よ」
ユリアは、暖炉の火を見た。
火は小さく整えられていた。燃えすぎず、消えもせず、ただ部屋を上品に暖めるための火だった。
「どれくらい」
「何が?」
「私は、どれくらいここで休むのですか」
イリーナは少し間を置いた。
「それは、あなた次第よ」
「期間を決めない言葉は、たいてい長くなります」
イリーナの笑みが薄くなった。
「あなたは、まだ若いわ。今は傷ついている。自分では認めたくないでしょうけれど」
「認めています」
「なら、なおさら。しばらく世間から離れるのも悪くない。ここには本がある。庭もある。刺繍も、楽器も。手紙は必要なら出せるわ。ただ、当分は王都の方々とは距離を置いた方がいいでしょう」
「誰と文通するかも、管理されるのですか」
「管理ではないわ。配慮よ」
「配慮という言葉は、鎖を柔らかく見せるのに便利ですね」
イリーナは黙った。
部屋の静けさが、さらに深くなった。
「ユリア」
イリーナの声は、少し低くなった。
「私はあなたの敵ではないわ」
「そうでしょうね」
「あなたを傷つけたいわけでもない」
「それも本当でしょう」
「では、なぜそんなふうに構えるの」
ユリアは彼女を見た。
「敵でない人間が、人を閉じ込めることもあるからです」
イリーナの顔から、笑みが消えた。
「閉じ込める?」
「この屋敷は静かです。美しい。安全で、礼儀正しく、誰も大きな声を出さない。ここにいれば、私は誰も傷つけないでしょう。家の恥にもならない。社交界の噂にもならない。父も母も安心する」
「それの何が悪いの」
「私は、生きているだけになります」
イリーナは長いこと黙っていた。
その沈黙に、ユリアはかすかに既視感を覚えた。
誰かが言葉を選び、自分を傷つけないようにしながら、結局どこかへ押しやろうとする沈黙。
「あなたは本当に、難しい子ね」
イリーナはやがて言った。
「ええ」
「少し眠りなさい。今日はもう話さない方がいいわ」
「そうですね」
ユリアは立ち上がった。
一礼して部屋を出る。
廊下に出ると、空気が少し冷たかった。
だが、外の冷たさではない。静かな屋敷の中に溜まった冷たさだった。




