表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

20/25

第二十話 静かな場所

 昼を過ぎると、道はなだらかな丘へ入った。


 葡萄畑が広がり、ところどころに古い石垣がある。

 遠くには白い屋敷が見えた。丘の上に建っている。灰色の屋根、尖った塔、広い庭。美しい屋敷だった。


 美しすぎるものは、時々、息をする場所を奪う。


 あれが、ローゼンフェルト家の屋敷だろう。


 馬車の中で、リーザが小さく息を呑んだ。


「立派なお屋敷ですね」


「ええ」


 ユリアは窓の外を見た。


 ニコライの手紙の一節が、また胸の中で開いた。


 ――あの家は静かです。静かすぎるかもしれません。


 屋敷へ近づくにつれ、道はよく整えられていった。


 馬車の揺れが小さくなる。

 両側には背の高い糸杉が並び、足元には白い砂利が敷かれている。

 門には黒い鉄細工の薔薇が絡み、門番の男は無駄のない動きで扉を開けた。


 プロコップは御者台からあたりを見回した。


「これは」


「何」


「逃げにくい屋敷ですな」


 ユリアは窓越しに彼を見た。


「最初に見るのがそこなの」


「当然です。左右は生垣。正面は門。裏手はたぶん庭園。道は美しいが見通しがよすぎる。逃亡者に対する配慮が足りない」


「普通、屋敷は逃亡者に配慮しないわ」


「だから世の屋敷は信用できないのです」


 馬車は玄関前に停まった。


 プロコップは手綱を引き、《名誉》を静かに止めた。それから御者台を降りる前に、ひどく小さな声で言った。


「名誉、ここから先は気をつけろ。美しい場所ほど、餌が少ない」


 《名誉》は何も答えなかった。


 白い石段の上に、女が一人立っていた。


 イリーナ・フォン・ローゼンフェルト。


 年は四十代の半ばほどだろう。

 銀の混じる淡い髪を結い、深緑の衣をまとっている。

 美しい人だった。

 だが、美しさが少し乾いているようにも見えた。

 水を与えられないまま、形だけ保たれた花のようだった。


 彼女は微笑んだ。


 その微笑みは、よく訓練されていた。


「ようこそ、ユリア」


「お招きありがとうございます、ローゼンフェルト夫人」


「イリーナでいいのよ。遠いとはいえ、親類ですもの」


 ユリアは一礼した。


「では、イリーナ様」


 イリーナは少しだけ笑った。


「相変わらず、きちんとしているのね」


「初対面に近い相手へ、いきなり距離を詰めるのは礼儀ではありませんので」


 イリーナの微笑みが、ほんのわずかに固まった。


 プロコップは御者台から降り、《名誉》の手綱を使用人へ預けながら、小声で言った。


「到着早々、門扉に言葉の刃を立てるのは感心しませんな」


「事実よ」


 イリーナはプロコップへ視線を移した。


「こちらが護衛の方ね」


 プロコップは帽子を取った。


「プロコップ・フォン・フライケイラーにございます。由緒ある家名を背負い、幾多の困難を退け、時に避け、時に戦略的に距離を取りながら、ご令嬢を無事ここまでお送りいたしました」


「まあ」


 イリーナは上品に微笑んだ。


「大変な旅でしたのね」


「ええ。主に精神面が」


「フライケイラー卿」


 ユリアが言うと、彼はすぐに口を閉じた。


 イリーナの後ろには、使用人たちが控えていた。


 屋敷の中へ入ると、空気が変わった。


 静かだった。


 静かすぎるほどに。


 床は磨かれ、壁には風景画がかかり、廊下には花が活けられていた。

 香りは薄い。

 花の香りというより、古い家具と乾いた布と、長いあいだ動かされていない時間の匂いがした。


 誰も大きな声を出さない。

 使用人の靴音も小さい。扉の開け閉めにも音がない。完璧な屋敷だった。

 完璧であるために、生きているものの気配を少しずつ削った屋敷だった。


「疲れたでしょう」


 イリーナは優しく言った。


「お部屋を用意してあります。南向きの明るい部屋よ。庭も見えるわ。ここでは、ゆっくり休めます」


「ありがとうございます」


「王都のことは、忘れてしまいなさい」


 ユリアは彼女を見た。


「忘れるべきことなのですか」


 イリーナは立ち止まらなかった。


「忘れた方が楽なことはあるわ」


「楽になることが、正しいとは限りません」


「正しさは、時々人を疲れさせるわ」


 その言い方は、柔らかかった。


 柔らかい布の中に針を隠すような声だった。


 ユリアは返事をしなかった。


 案内された部屋は、たしかに美しかった。


 大きな窓から庭が見える。庭には白い薔薇が整然と植えられ、その奥には噴水がある。

 寝台には薄い青の天蓋がかかり、机には新しい便箋とインクが置かれていた。


 棚には数冊の本もある。すべて、静かに暮らすためのものだった。


 リーザはほっとしたように荷を置いた。


「いいお部屋ですね」


「ええ」


 ユリアは机の上の便箋を見た。


 何も書かれていない白い紙。


 きれいすぎる紙は、かえって何も書くなと言っているように見える。


 夕食は、細長い食堂で取った。


 卓にはイリーナとユリア、プロコップが着いた。リーザは別室だった。


 プロコップは最初、使用人用の食堂へ回されかけたが、ユリアが「彼は護衛です」と言ったため、同席することになった。本人はそれを聞いて、少し誇らしげだった。


「私は客人ですかな」


「護衛よ」


「客人より危険な響きですが、席があるなら受け入れましょう」


 イリーナはプロコップを珍しいもののように見ていた。


「フライケイラー卿は、お話がお上手ね」


「ありがとうございます。話術は、剣と同じく男の武器です」


「剣は?」


 イリーナが尋ねると、プロコップの顔がわずかに曇った。


「現在、名誉ある事情により、ご令嬢の管理下にあります」


「管理下?」


「言い換えれば、人質です」


「担保よ」


 ユリアが訂正した。


 イリーナは少しだけ目を細めた。


「ずいぶん信頼されているのね、ユリア」


「信頼ではありません。必要な管理です」


「あなたらしいわ」


 その言葉は、笑みと一緒に出された。


 だが、ユリアには分かった。


 ここでの「あなたらしい」は、褒め言葉ではない。


 食事は静かだった。

 料理は上品で、量は少なめだった。

 白身魚、薄いスープ、柔らかなパン、白葡萄酒。

 プロコップは明らかに足りなさそうな顔をしたが、必死に品よく食べていた。


「足りないの?」


 ユリアが聞くと、彼は小声で言った。


「足りています。私の胃は貴族的に満たされています」


「顔が飢饉よ」


「お嬢様、食卓での残酷な観察はお控えを」


 イリーナは静かに笑った。


「ここでは、軽い食事にしているの。夜は胃に負担をかけない方がいいでしょう」


「実に健康的で、私の魂には少々厳しい」


「フライケイラー卿」


「はい、黙ります」


 食後、イリーナはユリアを小さな客間へ誘った。


 プロコップもついて来ようとしたが、使用人に別室で酒を勧められた。彼は一瞬迷い、ユリアを見た。


「お嬢様」


「行っていいわ」


「よろしいのですか!」


「この屋敷で、今すぐ刺客が出るとは思えない」


「刺客より、上品な会話の方が時々危険です」


「その時は自分で逃げ道を探すわ」


 プロコップは不満そうだったが、酒という誘惑には勝てなかった。


「では、私は別室にて、屋敷の葡萄酒の安全性を確認してまいります」


「飲みすぎないで」


「安全確認は時に量を必要とします」


 ユリアはイリーナと二人で客間に入った。


 部屋には小さな暖炉があり、壁には刺繍の額がかかっていた。

 窓には厚いカーテン。外の風も、庭の音も届かない。


 イリーナは椅子に腰を下ろした。


「疲れたでしょう」


「旅には慣れました」


「そうではなくて」


 彼女は静かに言った。


「人に会い続けることに、よ」


 ユリアは答えなかった。


「あなたのことは、セルゲイから聞いています。婚約のことも。王都でのことも」


「父は、どのように」


「あなたが少し疲れている、と」


「便利な言葉ですね」


 イリーナは微笑んだ。


「あなたは、そうやって何でも切ってしまうのね」


「切ったつもりはありません」


「つもりがなくても、切れることはあるわ」


 ユリアの指が、膝の上で少し動いた。


 イリーナは続けた。


「ここでは、無理に話さなくていいの。誰かを正す必要もない。誰かの嘘を暴く必要もない。あなたはただ、静かに過ごせばいい」


「それは、私に黙れという意味ですか」


「違うわ」


「では?」


「休みなさい、という意味よ」


 ユリアは、暖炉の火を見た。


 火は小さく整えられていた。燃えすぎず、消えもせず、ただ部屋を上品に暖めるための火だった。


「どれくらい」


「何が?」


「私は、どれくらいここで休むのですか」


 イリーナは少し間を置いた。


「それは、あなた次第よ」


「期間を決めない言葉は、たいてい長くなります」


 イリーナの笑みが薄くなった。


「あなたは、まだ若いわ。今は傷ついている。自分では認めたくないでしょうけれど」


「認めています」


「なら、なおさら。しばらく世間から離れるのも悪くない。ここには本がある。庭もある。刺繍も、楽器も。手紙は必要なら出せるわ。ただ、当分は王都の方々とは距離を置いた方がいいでしょう」


「誰と文通するかも、管理されるのですか」


「管理ではないわ。配慮よ」


「配慮という言葉は、鎖を柔らかく見せるのに便利ですね」


 イリーナは黙った。


 部屋の静けさが、さらに深くなった。


「ユリア」


 イリーナの声は、少し低くなった。


「私はあなたの敵ではないわ」


「そうでしょうね」


「あなたを傷つけたいわけでもない」


「それも本当でしょう」


「では、なぜそんなふうに構えるの」


 ユリアは彼女を見た。


「敵でない人間が、人を閉じ込めることもあるからです」


 イリーナの顔から、笑みが消えた。


「閉じ込める?」


「この屋敷は静かです。美しい。安全で、礼儀正しく、誰も大きな声を出さない。ここにいれば、私は誰も傷つけないでしょう。家の恥にもならない。社交界の噂にもならない。父も母も安心する」


「それの何が悪いの」


「私は、生きているだけになります」


 イリーナは長いこと黙っていた。


 その沈黙に、ユリアはかすかに既視感を覚えた。

 誰かが言葉を選び、自分を傷つけないようにしながら、結局どこかへ押しやろうとする沈黙。


「あなたは本当に、難しい子ね」


 イリーナはやがて言った。


「ええ」


「少し眠りなさい。今日はもう話さない方がいいわ」


「そうですね」


 ユリアは立ち上がった。


 一礼して部屋を出る。

 廊下に出ると、空気が少し冷たかった。

 だが、外の冷たさではない。静かな屋敷の中に溜まった冷たさだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ