第十九話 正しさを間違えた者
朝になると、雨はやんでいた。
ヴィルデンハーゲンの町は、薄い水気を含んだまま静かだった。
石畳には空の色が鈍く映り、井戸のそばの樫の木は、夜のあいだに少し痩せたように見えた。
葉の先から、まだ時々、水滴が落ちる。
その音は小さく、けれど昨日の夜から続いているもののように思えた。
アリョーナは、井戸のそばにはいなかった。
ユリアは宿の二階の窓から、それを見ていた。
誰も立っていない場所は、かえって人の形を残す。
昨日まで毎日そこに立っていた娘の姿が、雨に洗われた石畳の上に、見えない影のように残っていた。
「お嬢様」
リーザが背後から声をかけた。
「支度が整いました」
「ええ」
ユリアは窓を閉めた。
旅装に着替え、手袋をはめる。
いつもなら一度で済むその動作に、今日は少し時間がかかった。
指先が鈍い。
眠りが浅かったせいだろう。
あるいは、眠りとは別のものが体に残っているのかもしれない。
部屋を出ると、廊下の先にアリョーナの父が立っていた。
ベルクマン親方。
昨夜、娘を抱えていた大柄な男だ。
木工職人らしく、手が厚く、爪の間に木屑の跡が残っている。
彼はユリアを見ると、深く頭を下げた。
「ヒルシュアイス様」
声はかすれていた。
「娘さんは」
「眠っています。まだ、起きてはおりません」
「そう」
ユリアは一拍置いた。
言葉はある。謝罪。説明。釈明。どれも、すぐに出せる。けれど出せる言葉ほど、今は信用できなかった。
「昨日のことは」
彼女が言うと、親方は首を横に振った。
「私が悪いのです」
「そう言えば、私の責任が消えると?」
親方は顔を上げた。
ユリアは自分でも、また刃が出たのが分かった。
だが、今の言葉は彼を刺すためではなく、自分を逃がさないためのものだった。
「あなたは手紙を隠した。私は、それを雨の中で引き裂いた。どちらも事実です」
親方の手が震えた。
「娘は、あれを知らずにいた方が幸せだったのでしょうか」
「分かりません」
ユリアは答えた。
親方は、その言葉に少し驚いたようだった。
「分からないのですか」
「ええ。分からないわ。嘘を知らずに立っていることが幸せなのか、真実を知って崩れることが不幸なのか。私は昨日、それを分かっているつもりで言った。でも、分かっていなかった」
親方は黙った。
廊下の窓から、朝の光が細く入っている。古い床板の傷が、その光の中で薄く浮かんでいた。
「娘さんが起きたら、伝えてください」
「何を」
「私に謝罪させるかどうかは、彼女が決めていい、と」
親方は眉をひそめた。
「謝罪を、ですか」
「ええ。今、私が無理に謝れば、彼女は受け取るか拒むかを選ばされる。それもまた、重荷になるでしょう」
親方は長く息を吐いた。
「あなたは、難しい方ですね」
「よく言われます」
「でも」
親方は、少しだけ目を伏せた。
「昨夜、娘は一度だけ目を覚ましました」
ユリアは彼を見た。
「何か言ったの」
「パンを捨てないで、と」
ユリアは何も言えなかった。
親方は自分の大きな手を見た。
「私は、あの子を守っているつもりでした。だが、守っていたのは、自分だったのかもしれません」
「それは」
ユリアは言いかけて、止めた。
それはあなたの弱さだ。
そう言うことはできた。
けれど、今それを言えば、何が残るのだろう。
「それは、あなたが娘を愛していたからでしょう」
言い終えてから、自分でその言葉に少し驚いた。
親方も、驚いたようにユリアを見た。
ユリアは視線を外した。
「けれど……愛していても、人は間違えるわ」
親方は唇を結んだ。
やがて、もう一度頭を下げた。
「伝えておきます」
「お願いします」
階段を下りると、広間にプロコップがいた。
彼は暖炉のそばの椅子に腰かけ、剣のない腰を相変わらず気にしながら、湿った帽子の羽根を整えていた。
昨日の雨で、羽根はしんなりと曲がっている。
いくら直しても、元のようにはならなかった。
「それ、もう諦めた方がいいわ」
ユリアが言うと、プロコップは悲痛な顔をした。
「お嬢様。羽根飾りとは、男の威信の表現です。これが曲がるということは、私の尊厳が視覚的に歪むということです」
「中身に合っているわ」
「朝から容赦がない」
「いつもより控えめよ」
プロコップは彼女の顔を見た。
何かを測るような目だった。いつものように茶化す気配はあったが、彼はそれをすぐには使わなかった。
「アリョーナ嬢には?」
「会っていないわ」
「それでよいと思います」
「あなたがそう言うの」
「ええ。私は逃げ道のプロフェッショナルです。会わないという逃げ道が、時々、人を守ることもある」
「卑怯ではなく?」
「卑怯なことは否定しません。ただ、卑怯と配慮は、遠目には似ていることがある」
ユリアは彼を見た。
「便利な言い方ね」
「私の人生は、便利な言い方で補強されています」
彼は立ち上がった。
「さて。今日はローゼンフェルト家の屋敷へ向かうのでしょう」
「ええ」
「つまり、私の任務もいよいよ終わりに近づいている」
「そうね」
プロコップはそこで、少しだけ黙った。
すぐに胸を張る。
「実に感慨深い。私はこの困難な旅を生き延びた。犬、子供、借金取り、雨、花嫁、元婚約者、そしてお嬢様の会話。すべてを乗り越えた。後世は私を讃えるべきです」
「まだ着いていないわ」
「では、後世には少し待っていただきましょう」
宿を出る時、アリョーナの姿はやはりなかった。
ただ、宿の主人が小さな包みを渡してきた。
「ベルクマン親方からです」
布に包まれていたのは、小さな木彫りの箱だった。まだ磨き切られていない。だが、蓋には樫の木の葉が彫られていた。
「娘さんが落ち着いたら、渡してくださいと」
「私に?」
「ええ」
ユリアは箱を受け取った。
蓋を開けると、中に小さな紙片が入っていた。
字は拙かった。
――パンは捨てませんでした。
それだけだった。
ただ、それだけ。
ユリアは紙片を箱へ戻した。
「ありがとう」
宿の主人は頭を下げた。
馬車が動き出すと、町はすぐに後ろへ流れていった。
井戸のそばの樫の木も、濡れた石畳も、アリョーナの立っていた場所も、遠ざかっていく。
プロコップは御者台で手綱を握っていた。
剣はまだユリアの馬車の中にある。
布に包まれ、鞄の横に置かれていた。プロコップは時折、肩越しに馬車の中のそれを見て、まるで人質でも取られているような顔をした。
「そんなに見ても、逃げないわ」
ユリアが言うと、彼は重々しく頷いた。
「剣は逃げません。問題は、剣を持たぬ私の心が逃げそうなことです」
「剣があれば逃げないの」
「剣があっても逃げますが、逃げる姿に多少の威厳が出ます」
「威厳の用途が間違っているわ」
プロコップは《名誉》の首筋へ声を落とした。
「名誉、聞いたか。私は今、武器もなく、威厳も減り、なおも馬車を走らせている。これはもはや殉教ではないか」
《名誉》は静かに歩き続けた。
「返事がない。感動しているのだな」
「たぶん無視よ」
「お嬢様、馬と主人の絆に水を差さないでいただきたい」




