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第十八話 正しい刃

 翌朝、プロコップ・フォン・フライケイラーは、剣のない腰を何度も気にしていた。


 宿の前では、馬車の支度が進んでいる。空は曇り、石畳には夜露が薄く残っていた。


 グリゴリー・アイゼンハルトは約束通り朝に現れ、書面を整え、プロコップに署名させた。プロコップは最後まで渋ったが、ユリアが布に包んだ剣を抱えて立っているのを見ると、観念したように羽根帽子を脱いだ。


「これは歴史的屈辱です」


 彼は署名しながら言った。


「後世の者は、この日をフライケイラー家受難の日として記憶するでしょう」


 グリゴリーは書面を乾かしながら、平然と答えた。


「返済すれば、受難は終わります」


「それができれば、私はすでに聖人です」


「聖人は賭けで馬を失いません」


「あなたは毎度、痛いところを正確に踏む」


「仕事ですから」


 ユリアは、布で包んだ剣を馬車の中へ置いた。


 プロコップはそれを、まるで葬列でも見るような目で見ていた。


「お嬢様」


「何」


「その剣は、できれば柔らかい場所に置いてください。私の威厳の三割が入っています」


「鞄の横に置いたわ」


「鞄より上座に」


「剣に席次があるの」


「あります。少なくとも私の心には」


 リーザが荷を整えながら笑った。


「フライケイラー様、剣がなくても、お話はお上手ですわ」


 プロコップは胸を張りかけ、途中で悲しそうに息を吐いた。


「侍女殿、それは褒め言葉でありながら、同時に私の武力を否定している。実に高度な攻撃です」


「そんなつもりでは」


「よろしい。あなたにもお嬢様の影響が出はじめている。旅とは恐ろしいものです」


 ユリアは馬車に乗り込んだ。


 プロコップは御者台へ上がる前に、剣のない腰へもう一度手をやった。それから《名誉》の首筋を叩いた。


「名誉、今日はお前が私の威厳を引くのだ。慎重に歩け」


 《名誉》は何も答えず、鼻を鳴らした。


「返事がない。重責を理解している証だ」


「たぶん眠いだけよ」


 ユリアが馬車の中から言うと、プロコップは聞こえなかったふりをして手綱を取った。


 その日、道はゆるやかな丘陵を越えた。


 畑は少なくなり、葡萄畑と草地が増えた。遠くに細い教会の塔が見え、道端には風よけの柳が並んでいる。


 風は湿っていた。雨が近いのだろう。


 御者台のプロコップは、いつもより落ち着かなかった。


 剣を預けているせいで、腰が軽すぎるらしい。手綱を握りながら、何度も自分の脇腹に手をやっている。


「腰が寒い」


「外套を着ているでしょう」


「物理的な寒さではありません。精神的な隙間風です」


「あなたの精神は風通しがよさそうね」


「失礼な。私は秘密の多い男です」


「借金の額まで知られたのに?」


「秘密は減りましたが、まだ在庫があります」


 昼過ぎに、彼らは小さな町へ入った。


 町の名はヴィルデンハーゲンといった。街道沿いに広がる市場町で、中央には石の井戸があり、そのそばに古い樫の木が立っていた。枝は大きく広がり、まだ若い葉が雨前の光を含んで、鈍く光っている。


 井戸のそばに、一人の若い女が立っていた。


 年は二十前後。淡い青の服を着て、髪を丁寧に結っている。手には白い布で包んだ小さな籠を持っていた。彼女は街道の東の方を見ていた。


 人が通るたび、少し顔を上げる。


 だが、相手が違うと分かると、また静かに立ち尽くす。


 美しいというより、薄い女だった。そこにいるのに、半分だけ別の場所へ心を置いてきたように見えた。


 プロコップが御者台から小声で言った。


「お嬢様」


「何」


「あれは見ない方がいい種類の人です」


「どうして」


「待っている人間です。待っている人間には、たいてい物語がある。物語があるところには、面倒がある」


「あなたは物語を嫌うの」


「私は自分に都合のよい武勇伝だけを好みます。他人の悲劇は重い。持つと腰に来る」


「腰が寒いのではなかったの」


「寒いうえに重い。実に不合理です」


 女は、馬車を見ると少しだけ目を輝かせた。だが、すぐに違うと分かったのか、視線を落とした。


 ユリアはその手を見た。


 籠を持つ指が、ところどころ赤くなっている。

 毎日同じものを握っている手だった。

 籠の中からは、布に包まれたパンらしいものが見えた。昼食か、誰かに渡すものか。


 町の宿に馬車を止めると、プロコップは御者台から降り、《名誉》の手綱を柵へ結んだ。


「名誉、ここで待て。主人が面倒の気配に巻き込まれているあいだ、お前だけは馬として正しくあれ」


 《名誉》は樫の木の下の草へ首を伸ばした。


「すでに正しさより食欲ね」


 ユリアが言うと、プロコップは胸を押さえた。


「お嬢様。馬の尊厳にも少しは配慮を」


 宿の主人が出てきた。


 イワン・シュトラウスという、丸い腹をした男だった。客を見る目は素早いが、声は柔らかい。


「お泊まりですか」


「一泊するわ」


 ユリアが答えると、彼は丁寧に頭を下げた。


「では上の部屋を。雨が来ますから、今日は早めに休まれるとよろしい」


 その時、井戸のそばの女がまた街道へ顔を向けた。


 東から一台の荷馬車が来たのだ。

 女は小さく一歩踏み出した。荷馬車の御者は髭の濃い老人で、彼女が待つ相手ではなかったらしい。

 女はすぐに立ち止まった。


 宿の主人はそれを見て、かすかに顔を曇らせた。


 ユリアは聞いた。


「あの人は?」


 主人は答えに迷った。


「町の娘です。名をアリョーナと言います」


「誰かを待っているのね」


「ええ、まあ」


 プロコップが横から言った。


「お嬢様、部屋を見ましょう。雨が来る。雨は人を湿らせます。湿った人間は機嫌が悪くなる」


「あなたは晴れていても逃げるでしょう」


「晴れた日には晴れた日の危険があります」


 宿の主人は困ったように笑った。


 その日の夕方、雨が降り出した。


 細かな雨だった。屋根を強く叩くほどではない。ただ、町全体を薄い幕で覆うように降った。井戸のそばの樫の木は濡れ、葉から小さな滴が落ちていた。


 アリョーナはまだ立っていた。


 ユリアは宿の広間の窓からそれを見ていた。


 プロコップは暖炉の近くで、腰の軽さを嘆きながら、温めた葡萄酒を飲んでいた。


「お嬢様」


「何」


「窓辺に立つのはやめた方がいい。人は窓辺に立つと、余計なものを見つけます」


「もう見つけたわ」


「でしょうな。あなたの目は、面倒を拾う熊手です」


 リーザが静かに針仕事をしている。


 宿の広間には、町の客も数人いた。


 雨宿りをしている老人。荷馬車の御者。近くの店の女。皆、アリョーナのことを見ないふりをしている。見ないふりが、かえって彼女を囲んでいたようにも見えた。


 ユリアは宿の主人を呼んだ。


「アリョーナは、何を待っているの」


 主人は唇を湿らせた。


「婚約者です」


「いつ来るの」


「じきに」


「その『じきに』は、いつから?」


 主人は答えなかった。


 プロコップが杯を置いた。


「お嬢様」


「何」


「その問いは、少し奥まで入っています」


「まだ入口よ」


「入口で引き返す勇気も、時には必要です」


 宿の主人は小さく息を吐いた。


「あの子は、半年ほど前から毎日あそこに立っています」


「半年」


「婚約者が、東の町へ仕事に行きまして。戻ったら式を挙げると」


「戻っていないのね」


「ええ」


「手紙は?」


 主人の顔に、ほんのわずかな動きがあった。


 ユリアはそれを見た。


「来たのね」


 主人は目を逸らした。


「私は何も」


「誰が隠したの」


 プロコップが立ち上がった。


「お嬢様」


「答えて」


 主人は、窓の外を見た。


「父親です」


 広間の空気が小さく固まった。


「ベルクマン親方か……」


 老人が低く言った。


 主人は頷いた。


「木工職人です。腕はいい。だが娘には甘い。手紙が来た時、アリョーナはひどく弱っていた。食べず、眠らず、毎日東の道を見ていた。だから親方は、見せなかった」


「内容は?」


「婚約者は、戻らないと。別の町で仕事を得た。結婚はできない。すまない、と」


 ユリアは窓の外を見た。


 雨の中で、アリョーナはまだ立っている。籠の布は濡れていた。


「相手の名は」


「パーヴェル・クライン」


「悪人なの」


「さあ。ただ、若い男です。約束をして、怖くなって、逃げただけなのかもしれない」


 プロコップは少しだけ目を伏せた。


 逃げる男。


 その言葉は、彼には他人事ではない。


 ユリアは言った。


「彼女は知るべきよ」


 宿の主人は顔をしかめた。


「それは、そうかもしれません。ですが、あの子は」


「嘘で立たせておく方が優しいの」


「少なくとも、今は立っています」


 その言葉は、弱かった。


 けれど、ひどく現実的だった。


 プロコップが言った。


「お嬢様。今日は雨です。人の心に大工道具を入れるには、日が悪い」


「日を選べば、彼は戻るの?」


「戻りません」


「なら同じよ」


「同じではない。濡れた薪に火をつけると煙が出る。人間も同じです」


 ユリアは彼を見た。


「あなたは、彼女に嘘を続けろと言うの」


「そうは言っていません」


「では何」


「今ではない、と言っています」


「それは、いつか言うふりをした先延ばしよ」


 プロコップは口を閉じた。


 その時、アリョーナが宿の方へ歩いてきた。


 雨に濡れていた。青い服の肩が暗くなり、髪から滴が落ちている。それでも彼女は籠を大事そうに抱えていた。


 宿の扉が開く。


 冷たい空気と一緒に、彼女が入ってきた。


「シュトラウスさん」


 声は細かった。


「東から馬車は、もう来ませんか」


 宿の主人は表情を整えた。


「今日は雨が強くなる。もう来ないかもしれないね」


「そうですか」


 アリョーナは少しだけ笑った。


「でも、雨なら遅れますよね。パーヴェルは雨道が嫌いだから」


 広間の誰も答えなかった。


 ユリアは彼女を見た。


 アリョーナはその視線に気づいた。


「旅の方ですか」


「ええ」


「東から来ましたか」


「途中までは」


 アリョーナは一歩近づいた。


「パーヴェル・クラインという人を見ませんでしたか。背が高くて、黒い髪で、左の眉の上に小さな傷があります。木工の仕事をしていて、手がとても器用なんです」


 ユリアは答えなかった。


 プロコップが先に言った。


「見ていませんな」


 アリョーナは少し残念そうに、しかし慣れたように頷いた。


「そうですか。でも、もう少しで来ると思います。これ、彼の好きなパンなんです。蜂蜜を入れたもの」


 彼女は籠を見せた。


 パンは雨で少し湿っていた。


 プロコップは痛ましそうにそれを見た。


「毎日、焼いているの?」


 ユリアが聞いた。


「はい。いつ来てもいいように」


「半年?」


 アリョーナは少し困ったように笑った。


「遅れているだけです」


「半年も?」


 プロコップが低く言った。


「お嬢様」


 ユリアは止まらなかった。


「手紙は来たのでしょう」


 広間の空気が凍った。


 アリョーナの目が揺れた。


「手紙?」


 宿の主人が慌てて言った。


「お嬢様、それは」


「隠しているのは、あなたの父親?」


 アリョーナは籠を抱え直した。


「何のことですか」


「パーヴェルは戻らない。そう書いた手紙が来たのね」


 アリョーナの顔から、色がすっと引いた。


 雨の音だけが聞こえた。


 プロコップが立ち上がった。


「ユリア」


 初めて、彼は彼女を姓でも敬称でもなく呼んだ。


 だが、遅かった。


 ユリアはアリョーナを見つめていた。


「来ない人間を待つのは、信仰ではなく執着よ。あなたは彼を待っているのではない。彼が戻らないという事実から逃げているだけ」


 アリョーナの唇が震えた。


「嘘」


「嘘ではないわ」


「嘘です」


「彼が戻るなら、半年もあなたを雨の中に立たせない」


「やめてください」


「あなたの父親も、周囲の人間も、優しさのつもりで嘘を支えている。でも、それは優しさではないわ。あなたをここに縛っているだけ」


「やめてっ!!」


 アリョーナの声が割れた。


 籠が床に落ちた。


 蜂蜜入りのパンが転がる。雨で湿った布が広間の床に広がった。


 アリョーナは両手で耳を塞いだ。


「嘘。嘘です。パーヴェルは来ます。約束したんです。戻ったら、樫の樹の下で、最初に私の名前を呼ぶって」


「呼ばないわ」


 ユリアは言った。


 その声は静かだった。


 静かすぎた。


「彼はもう、あなたの名前を呼ばない」


 アリョーナの目が、急に空っぽになった。


 次の瞬間、彼女は扉へ走った。


 宿の主人が止めようとしたが、間に合わなかった。扉が開き、雨が吹き込む。アリョーナはそのまま外へ飛び出した。


「アリョーナ!」


 広間の誰かが叫んだ。


 プロコップが先に走った。


 剣のない腰など、もう気にしていなかった。彼は扉を押し開け、雨の中へ飛び出す。ユリアも立ち上がった。リーザが顔を青くして後を追う。


 外はすでに暗くなりかけていた。


 雨は強くなっていた。


 樫の木の葉が濡れて光り、井戸の周りの石畳は滑りやすくなっている。


 アリョーナは東の道へ向かって走っていた。足元がおぼつかない。長い裾が水を吸い、重くなっている。


 プロコップは彼女を追った。


「待て!」


 珍しく、彼の声に芝居がなかった。


 アリョーナは振り返らない。


 町の東には、小さな橋があった。橋の下を、雨で増えた小川が流れている。


 普段なら浅い流れだろう。


 だが今は濁り、速くなっていた。


 アリョーナは橋の手前で足を滑らせた。


 体が傾く。


 プロコップが間に合った。


 彼は飛びつくようにアリョーナの腕を掴み、自分も石畳に膝を打った。二人とも倒れたが、川へは落ちなかった。


「離して!」


 アリョーナが叫んだ。


「嫌だ!」


 プロコップも叫んだ。


「私は今日、もう十分に格好悪い。これ以上、人を川に落としてまで格好悪くなる気はない!」


「パーヴェルが来るんです!」


「来ない!」


 プロコップの声が、雨を裂いた。


 アリョーナは動きを止めた。


 彼は彼女の腕を掴んだまま、息を切らしていた。


「来ない。たぶん来ない。ひどい男だ。臆病で、約束を捨てた。顔を出す勇気もない。そんな男のために、川に落ちるな」


 アリョーナは泣いていた。


 雨なのか涙なのか、もう分からなかった。


「じゃあ、私は何を待っていたの」


 プロコップは答えられなかった。


 ユリアは橋の手前で立ち止まっていた。


 その問いは、彼女にも向けられているようだった。


 私は何を待っていたの。


 半年の雨の日も晴れの日も。毎日焼いたパンも。樫の木の下に立つ時間も。父の嘘も、町の沈黙も。


 それらを、たった一言で切った。


 来ない。


 事実だった。


 おそらく正しかった。


 だが、正しいだけだった。


 プロコップはアリョーナを起こそうとした。だが、彼女は力が抜けたように座り込んでしまった。


「立てるか」


「分からない」


「では座っていろ。いや、ここは濡れている。座るな。どっちだ。くそ、女の悲嘆は運搬に向かん」


 彼は自分の外套を脱いで、アリョーナの肩にかけた。


 宿の主人と町の人々が遅れて駆けつけた。その中に、アリョーナの父らしい男もいた。白髪混じりの大柄な男で、娘を見るなり顔を歪めた。


「アリョーナ」


 彼は娘を抱きしめた。


 アリョーナは父の胸で泣かなかった。ただ、空っぽの目で、雨の中の東の道を見ていた。


 ユリアはその顔を見て、足が動かなかった。


 宿へ戻ると、広間は重かった。


 アリョーナは奥の部屋へ運ばれた。医者ではなく、町の女たちが濡れた服を脱がせ、温かい布で体を包んだ。父親は部屋の前で椅子に座り、両手で顔を覆っていた。


 広間の床には、まだ蜂蜜入りのパンが落ちていた。


 誰も拾わなかった。


 プロコップがそれを拾った。


 パンは濡れ、形が崩れていた。彼はそれを布に包み直し、卓の端に置いた。


 ユリアは暖炉の前に立っていた。


 濡れた外套から、水が落ちる。リーザが慌てて布を持ってきたが、ユリアは受け取らなかった。


 プロコップが近づいてきた。


 彼も濡れていた。髪は額に張りつき、羽根帽子は見る影もない。剣のない腰から、雨水が滴っていた。


「真実なら」


 彼は低く言った。


「何をしてもいいのか」


 ユリアは顔を上げた。


「嘘で慰めろと言うの」


「違う」


 プロコップの声は震えていなかった。


「言葉を選べと言っている」


 広間の音が遠のいた。


 ユリアは彼を見た。


 彼の目は怒っていた。いつもの芝居ではない。大げさな言葉もない。逃げ腰の笑いもない。


「彼女は嘘の上に立っていた」


「そうだ」


「そのまま立たせておけと?」


「今日、雨の中で、町中の前で、彼女の足元を全部抜く必要があったのか」


 ユリアは答えられなかった。


「嘘は腐る。分かる。私だって、嘘の臭いくらい分かる。だが腐った板を外す時は、下に何か置く。人が落ちないように」


「私は」


「救いたかったのだろう」


 プロコップは言った。


 その言葉は、責めるより痛かった。


「だから悪い」


 ユリアの指が動いた。


「悪い?」


「人を傷つけたい奴なら、まだ分かりやすい。止めればいい。追い出せばいい。殴ればいい。だがあなたは違う。救いたいと思っている。だから、自分の言葉を正しいと思う」


 彼は濡れた帽子を握りしめた。


「言葉の刃物は、誰のために抜いたかで痛みが変わるわけではない」


 ユリアは黙っていた。


 何か言おうとすれば、いくらでも言えた。


 彼女はいずれ知るべきだった。

 周囲の嘘は残酷だった。

 父親は娘を縛っていた。

 町は見て見ぬふりをしていた。

 パーヴェルは戻らない。

 半年待っても、一年待っても、きっと来ない。


 全部、正しい。


 だが、その正しさが今、何を救ったのか。


 奥の部屋から、アリョーナの父の低い声が聞こえた。娘の名を呼ぶ声だった。返事はなかった。


 プロコップは、急に疲れた顔になった。


「お嬢様」


 いつもの呼び方に戻った。


「私は卑怯者です。逃げる。嘘もつく。借金もする。子供にまで見破られる。あなたに説教できるほど立派ではない」


「ええ」


「だが、今日のあなたは間違えた」


 ユリアは目を伏せた。


 暖炉の火が、濡れた裾を照らしている。雨の匂いが服に染み込んでいた。


「そうね」


 プロコップは驚いたように彼女を見た。


「認めるのですか」


「事実だもの」


「事実という言葉で逃げないでください」


 その一言で、ユリアは顔を上げた。


 プロコップは続けた。


「あなたは今、自分にも同じ刃物を向けている。『事実だ』と言って、痛みを片づけようとしている。それも違う」


「では、どうすればいいの」


 声が、思ったより小さく出た。


 プロコップは答えに詰まった。


 彼は万能ではない。慰めるのも下手だ。自分が傷ついた時には、まず逃げ道を探す男だ。


 それでも、彼は逃げなかった。


「まず」


 彼は不器用に言った。


「濡れた服を着替えるべきです」


 ユリアは彼を見た。


「それだけ?」


「それだけです。今の私に出せる高貴な知恵は、それくらいです」


「人が壊れたのに」


「壊れたものを前にして、濡れたまま立っていても、何も直りません。風邪を引く人間が一人増えるだけです」


 ユリアは、少しだけ息を吐いた。


 笑いではなかった。泣くことでもなかった。ただ、張っていたものがわずかに緩んだ。


「あなたらしいわ」


「ええ。私は実用的な卑怯者です」


 リーザがもう一度、乾いた布を差し出した。


 今度は、ユリアはそれを受け取った。


 夜遅く、雨は弱まった。


 アリョーナは眠ったと、宿の主人が伝えに来た。眠ったというより、泣き疲れ、体力が尽きたのだろう。父親は部屋の前から動かないという。


 ユリアは部屋へ戻った。


 机の上には、布で包んだプロコップの剣が置いてあった。重い沈黙のように、そこにある。


 リーザは何か言いたそうにしたが、言わずに寝台を整えた。


 ユリアは窓を開けた。


 雨上がりの町は暗く、樫の木の葉から滴が落ちていた。井戸のそばには誰もいない。アリョーナの立っていた場所だけが、雨に濡れて黒く見えた。


 半年。


 女はそこに立っていた。


 ユリアはその場所を見続けた。


 嘘を壊すことと、人を救うことは同じではない。


 それは、言葉にすれば簡単だった。だが、手の中に入れるとひどく重かった。


 背後で、リーザが静かに言った。


「お嬢様」


「何」


「明日、アリョーナさんに会われますか」


 ユリアはすぐに答えなかった。


 会う資格があるのか。

 謝れば済むのか。

 謝ることすら、相手にもう一つの重荷を置くだけではないのか。


 考えは、いくつも浮かんだ。


 どれも決め手にはならなかった。


「分からないわ」


 ユリアは言った。


 それは彼女にしては、珍しい答えだった。


 リーザは小さく頷いた。


「はい」


 窓の外で、また一滴、葉から水が落ちた。


 その音は小さかったが、妙に長く残った。

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