第十五話 卑怯者は逃げる
川の町を出ると、道は少しずつ荒れていった。
石畳はところどころ剥がれ、馬車の車輪が古い轍に取られるたび、車体が鈍く揺れた。
畑は少なくなり、代わりに灌木と灰色の岩が増えた。
遠くには低い山が横たわり、その裾を、細い街道が縫うように伸びている。
空は晴れていたが、光はどこか薄かった。
ユリアは馬車の中で、膝の上に本を開いていた。
けれど、頁はあまり進んでいない。
窓の外には、御者台に座るプロコップの背が見える。
今日は妙に静かだった。
いつもなら、道の悪さや馬の不品行や雲の形にまで文句をつける男が、時々帽子の羽根を直すばかりで、あまり喋らない。
リーザもそれに気づいたらしい。
「フライケイラー様、今日はお静かですね」
「そうね」
「お疲れなのでしょうか」
「違うわ」
ユリアは本を閉じた。
「あれは、何かから逃げる前の静けさね」
リーザは困ったように窓の外を見た。
「逃げる前、ですか」
「ええ。逃げ道を数えている顔をしている」
御者台で、プロコップがくしゃみをした。
「お嬢様」
彼は肩越しに振り返りかけた。
「何」
「今、私の高貴な背中に、何か冷たい視線を感じました」
「気のせいよ。前を見て」
「気のせいにしては、背骨が正直です」
「なら背骨が賢いのね」
プロコップは少し安心したように胸を張った。
「私の骨格にも品格がありますからな」
「借金は骨にも染みるのかしら」
その言葉を聞いた瞬間、プロコップの肩がわずかに固まった。
ほんの一瞬だった。すぐに彼はいつもの調子へ戻った。
「借金とは、精神に宿る芸術です。目には見えないが、確かに人を痩せさせる」
「あなた、誰かに追われているの」
「お嬢様。人は皆、何かに追われております。時間、老い、税、退屈、そして質の悪い夕食」
「あなたの場合は、もっと具体的なものね」
プロコップは前を向いた。
「風が出てきましたな」
「逃げた」
「話題を戦略的に移動させただけです」
その日の昼過ぎ、一行はシュヴァルツブルンという小さな宿場に着いた。
宿場というより、街道の曲がり角に家々が寄り集まった場所だった。
石橋が一本あり、その手前に馬を休ませるための広場がある。
旅人はそこで水を飲み、荷を締め直し、また先へ行く。
広場には屋台が三つ出ていた。
焼いた腸詰、黒パン、薄い葡萄酒。
子供たちが数人、馬車の間を走り回っている。
プロコップは広場の端に馬車を停め、《名誉》の手綱をゆるめた。
「名誉よ、休め。今日のお前はよく働いた。主人より働き者だという不敬な評価については、あとで厳重に抗議する」
《名誉》は鼻を鳴らし、道端の草へ首を伸ばした。
「聞いていないわね」
馬車から降りたユリアが言うと、プロコップは御者台から慎重に降りながら答えた。
「沈黙は信頼の証です」
「便利な言葉ね」
その時、広場の子供たちがプロコップを見つけた。
羽根飾りの帽子。腰の剣。大げさな外套。御者台から降りてきたにしては、妙に芝居がかった立ち姿。
子供たちはすぐに目を輝かせた。
「騎士さまだ!」
「羽根つき帽子だ!」
「強い?」
一人の少年が、遠慮なく聞いた。
プロコップは外套を払った。こういう時だけ、彼は実に堂々としている。
「強いか、だと? 少年よ、強さには多くの種類がある。剣の強さ。心の強さ。財布の強さ。そして最も重要なのは、危険を遠くから見つける強さだ」
「逃げる強さ?」
小さな女の子が言った。
プロコップは胸を押さえた。
「またしても子供の無慈悲な真実が、私の名誉を撃ち砕いた」
子供たちは笑った。
ユリアはその様子を見ていた。
どこへ行っても同じだった。
子供はプロコップの虚勢をすぐに見抜く。見抜いた上で、なぜかそばへ寄る。
彼は大人からは信用されない。
だが子供からは、警戒されにくい。大きな声で威張るくせに、相手を本気で怖がらせるものがないからだろう。
プロコップは子供たちに囲まれ、広場の真ん中で片手を上げた。
「よろしい。そこまで言うなら、私の武勇伝を聞かせてやろう」
「ガチョウの?」
ユリアが横槍を入れる。
「違う。あれは戦争ではなく災害だ」
「犬の?」
ユリアがまた言った。
「それも違う。あの犬は狼ほどあった。いや、狼だった。犬のふりをした狼だ」
「逃げたんだ!」
子供の一人が言った。
「違う。戦略的に撤退したのだ」
子供たちはまた笑った。
プロコップは不満そうに見せながら、屋台で黒パンを一つ買った。
自分のもののように見せかけて、いつのまにか子供たちへ割って渡している。
ユリアが近づくと、彼はすぐにパンを隠そうとした。
「何をしているの」
「地域社会との外交です」
「黒パンで?」
「外交は予算に応じて形を変えます」
「その予算はどこから?」
プロコップは遠くを見た。
「未来の私からです」
「未来のあなたは気の毒ね」
「まったくです。現在の私には同情しかありません」
その時だった。
広場の向こうで、一頭の黒馬が止まった。
乗っていた男は、旅人にしては身なりが整いすぎていた。
黒い外套。革の手袋。磨かれた長靴。年は四十前後。細い口髭があり、目は灰色で、遠くからでも冷たさが分かる。
男は馬を降りると、プロコップの方へまっすぐ歩いてきた。
プロコップの顔から、血の気が引いた。
子供たちは、それを見て笑った。
「逃げ足卿、怖いの?」
「またその異名か……」
プロコップは固い声で言った。
「怖くはない。極めて不愉快な知人を発見しただけだ」
男は近づいて、帽子を取った。
「プロコップ・フォン・フライケイラー!!」
声は低く、よく通った。
プロコップは一歩後ろへ下がった。
「人違いです」
即答だった。
ユリアは彼を見た。
男は眉一つ動かさなかった。
「羽根飾りの曲がり方まで同じ人違いは珍しい」
プロコップは帽子の羽根を押さえた。
「世の中には似た人間が三人いると言います」
「では、その三人とも私に銀貨四十八枚と利息を借りているのか」
子供たちが一斉にプロコップを見た。
「借金?」
「逃げ足卿、借金あるの?」
「銀貨四十八枚って多い?」
プロコップは片手を上げた。
「諸君。金銭の話は教育上よろしくない。大人の世界には、知らない方がよい泥沼がある」
男はユリアへ視線を移した。
「失礼。グリゴリー・アイゼンハルトと申します」
彼は丁寧に頭を下げた。
物腰は乱れていない。だが、丁寧さの中に隙がなかった。こういう男は怒鳴らない。怒鳴る必要がないからだ。
「ユリア・フォン・ヒルシュアイス」
「存じております」
「そう」
「こちらのフライケイラー卿に、少々用がありまして」
プロコップが口を挟んだ。
「用とは不穏な言い方だ。旧友との感動の再会と言っていただきたい」
「旧友は、返済期日を三度破りません」
「友情には時間が必要だ」
「借金には利息が必要です」
「利息とは、金貸しが作った悪魔の尻尾だ」
「その尻尾を承知で署名したのはあなたです」
プロコップは黙った。
ユリアはグリゴリーを見た。
「あなたは借金取り?」
「債権者です」
「婉曲ね」
「商売ですので」
グリゴリーは外套の内側から、折り畳んだ書付を取り出した。
「プロコップ・フォン・フライケイラーは、昨年の冬、私から銀貨四十八枚を借りた。返済期限は今年の春。以後、二度の延長。三度目の延長は認めていない」
「事情は?」
ユリアが聞くと、プロコップが急いで言った。
「事情というほどの事情はありません。人生における一時的な資金の偏りです」
グリゴリーは冷静に言った。
「賭けで失った馬を買い戻すためです」
「馬ではない。名誉だ」
「馬の名は《名誉》でしたか?」
子供たちが笑い出した。
プロコップは顔を赤くした。
「馬の名がたまたま《名誉》だっただけだ」
ユリアは静かに言った。
「あなた、《名誉》を本当に賭けで失ってたの」
「失ってはいません。一時的に所有権が私から離れただけです」
「それを失ったと言うのよ」
「言葉は時に残酷ですな」
グリゴリーは続けた。
「本日中に銀貨四十八枚と利息八枚。計五十六枚。支払いがなければ、フライケイラー卿の馬、剣、旅装、ならびに今後受け取る報酬に対して差し押さえを求めます」
プロコップの顔が青くなった。
「待て。剣は困る。剣を失えば私はただの羽根帽子の男になる」
「現状との差は大きくありません」
「ひどい」
ユリアはグリゴリーに言った。
「彼は私の護衛です。旅の途中で馬と剣を差し押さえられると困るわ」
「その点は承知しております。ゆえに、ヒルシュアイス家から直接、彼の報酬をこちらへ支払っていただくことも可能です」
プロコップはユリアを見た。
「お嬢様」
「何」
「ここは慈悲の出番です」
「あなたへの報酬を、あなたの借金返済に回せということ?」
「言葉にすると冷たいですが、実質的には社会秩序の維持です」
「あなたの無秩序を、私が買い取るのね」
プロコップは胸に手を当てた。
「私ほど払い甲斐のある無秩序も珍しい」
「珍しくても要らないわ」
グリゴリーは淡々としていた。
「夕刻まで待ちます。私は北側の酒場におります。逃げれば、次は利息では済みません」
その言葉で、プロコップの目がほんの少し動いた。
ユリアはそれを見逃さなかった。
グリゴリーも見逃していなかった。
「逃げ足の速さは存じています。ですが今回は、街道の両側に人を置いています」
「私が逃げると決めつけるのは、人格への重大な侮辱だ」
「逃げないのですか」
「状況による」
「では侮辱ではありません」
グリゴリーは一礼し、馬を引いて去っていった。
広場に、奇妙な静けさが残った。
子供たちはもう笑っていなかった。
彼らはプロコップを見ている。からかう時とは違う目だった。
面白い大人が、本当に困っている時の目。
子供はそういう時、案外よく黙る。
プロコップは帽子を直した。
「諸君」
彼は無理に明るい声を出した。
「今のは、少々誤解のある再会である。大人になると、旧友というものは計算書を持って現れる。覚えておくとよい」
少年の一人が言った。
「逃げるの?」
プロコップは笑った。
「誰が逃げるものか。私は由緒ある――」
言葉はそこで少し詰まった。
ユリアは彼を見た。
「フライケイラー卿」
「何でしょう」
「逃げるなら、早い方がいいわよ」
プロコップは驚いたように彼女を見た。
「お嬢様」
「あなたの顔が、もう半分逃げている」
子供たちがプロコップの顔を見た。
彼は笑ってみせた。
「ご冗談を。私は逃げません。逃げるとしても、もっと美しく逃げる」
「つまり逃げるのね」
「仮定の話です」
「あなたは今夜、逃げるわ」
プロコップは何か言いかけた。
だが言わなかった。




