十六話 やっぱり逃げる男
その日の午後、ユリアたちはシュヴァルツブルンの小さな宿に部屋を取った。
グリゴリーは本当に北側の酒場にいた。
時折、彼の部下らしき男が宿の前を通る。
あからさまではない。
だが見張っている。ユリアにはすぐ分かった。
プロコップは落ち着かなかった。
広間の席に座っても、窓を見る。
扉を見る。裏口を見る。財布を触り、剣を触り、帽子を触る。注文した豆の煮込みはほとんど減らない。
「食べないの」
ユリアが聞くと、彼は匙を持ち上げた。
「食べますとも。私は豆に対しても礼儀を忘れない男です」
「手が止まっているわ」
「豆が私に別れを惜しんでいるのです」
「あなたが別れを惜しんでいるのは馬と剣でしょう」
プロコップは笑おうとして失敗した。
「馬はともかく、剣は困ります。剣を失えば、私の威厳が三割ほど減る」
「三割で済むの」
「お嬢様、今日のあなたは追い打ちが上手すぎる」
リーザが心配そうに二人を見ていた。
「お嬢様。フライケイラー様の借金を、お立て替えになるのですか」
「それはしないわ」
プロコップが顔を上げた。
「即答ですか……」
「私が払えば、彼はまた同じことをする」
「しません」
「嘘ね」
「では少しだけします」
「正直でよろしい」
プロコップは頭を抱えた。
「私はどうすれば」
「返せばいい」
「返す金があれば、私はすでに品格ある無借金貴族です」
「では交渉するしかないわね」
「グリゴリーは交渉に見せかけた処刑を好む男です。あの灰色の目をご覧になったでしょう。あれは人ではない。帳簿が足を持って歩いている」
「あなたが署名したのでしょう」
「過去の私は軽率でした」
「現在もよ」
「未来の私に期待しましょう」
「その未来は、今夜逃げるつもりでは?」
プロコップは黙った。
ユリアはその沈黙で十分だった。
夕方、グリゴリーが宿へ来た。
広間は一瞬で静かになった。彼は帽子を取って、ユリアへ礼をした。それからプロコップの前に立つ。
「期限です」
プロコップは立ち上がった。
「アイゼンハルト殿。まず言っておきたい。私は逃げなかった」
「今のところは」
「その点を評価して、利息を減らすという選択肢は」
「ありません」
「では、支払期限を再度」
「ありません」
「友情は」
「ありません」
「人間味は」
「あなたに対してはありません」
プロコップは椅子に座り直しそうになったが、踏みとどまった。
グリゴリーは書付を広げた。
「支払えない場合、馬を預かります。剣も。さらにヒルシュアイス家から受け取る報酬は、私への返済に充てられる」
「旅の途中で護衛から馬と剣を奪うのは、依頼主に対する迷惑では?」
「借金をして逃げる護衛の方が迷惑です」
広間の何人かが小さく笑った。
プロコップは顔を赤くした。
ユリアはグリゴリーに言った。
「彼の馬と剣を取るなら、私の旅程に影響が出るわ」
「代わりの馬を手配できます」
「あなたが?」
「必要なら」
「手際がいいのね」
「債務者は逃げます。逃げた後の手順を考えるのが仕事です」
プロコップが言った。
「私はまだ逃げていない」
グリゴリーは彼を見た。
「では支払いを」
プロコップは黙った。
子供たちが宿の入口から覗いていた。昼間の子供たちだった。彼らはさすがに中へは入ってこない。ただ、外から心配そうに見ている。
その中の小さな女の子が、ぽつりと言った。
「逃げ足卿、負けるの?」
プロコップの顔が動いた。
負ける。
その言葉は、借金より深く刺さったようだった。
彼は立ち上がった。
「グリゴリー」
「何でしょう」
「少し時間をくれ」
「今まで十分にありました」
「半刻でいい。金策をする」
「この宿場で?」
「私は顔が広い」
「借金の相手が広いだけでは」
「似たようなものだ」
グリゴリーは少し考えた。
「半刻だけ待ちます。私の部下が同行します」
「それでは金策にならん」
「逃げるつもりなら、金策ではありません」
プロコップは歯を噛んだ。
ユリアは彼を見ていた。
彼は彼女を見なかった。
「では」
プロコップは急に笑った。
「部屋から、私物を取ってくる。それくらいはよかろう」
グリゴリーは頷いた。
「一人で?」
「逃げ道は見張っています」
プロコップは広間を出ていった。
ユリアはその背中を見た。
嫌な予感というものは、たいてい説明を待たない。
数分後、二階から物音がした。
次に、裏庭で馬がいななく声。
グリゴリーが顔を上げた。
ユリアも立ち上がった。
宿の裏口へ走ると、ちょうどプロコップが厩の横の柵を越えようとしていた。片手に小さな鞄、もう片手に手綱。
《名誉》ではなかった。
《名誉》は表にいた。馬車のそばで繋がれている。あの馬を連れて逃げれば、ユリアたちはここから動けなくなる。彼はそれを知っていた。
だから、手綱の先にいるのは宿の古い荷馬だった。
毛色は鈍く、背は少し下がり、目だけが妙に諦めている。
「フライケイラー卿」
ユリアの声が飛んだ。
プロコップは一瞬止まった。
振り向いた顔は、いつものように笑っていなかった。
「お嬢様」
「逃げるのね」
プロコップは息を呑んだ。
グリゴリーの部下たちが表から回ってくる声がした。子供たちも裏庭へ駆けてきている。
プロコップは柵の上で、一瞬だけ迷った。
それから、無理に笑った。
「これは逃亡ではありません。極めて高度な、債務整理のための位置変更です」
「そう」
ユリアは彼を見た。
「あなたはそういう人間だものね」
その言葉は大きくなかった。
だが、プロコップの顔から何かが落ちた。
子供たちが息を止めた。
小さな女の子が言った。
「逃げ足卿、戻る?」
プロコップはその子を見た。
何か言いかけた。
言えなかった。
グリゴリーの声が近づく。
「止めろ」
プロコップは柵を越えた。
荷馬に飛び乗る。乗り方は不格好だった。馬も驚いて横へよろける。
「名も無き馬よ、今だけ私に協力しろ。後世に名を残すぞ」
馬は当然、返事をしなかった。
プロコップは手綱を引き、裏道へ駆け出した。
グリゴリーの部下が追う。
だが、プロコップは逃げ道だけは確かだった。細い路地へ入り、樽の並ぶ横道を抜け、あっという間に家々の影へ消えた。
広場に、沈黙が残った。
グリゴリーは裏庭へ来ると、冷たい目で空になった路地を見た。
「やはり逃げたか」
ユリアは何も言わなかった。
リーザが青い顔で彼女の横に立つ。
「お嬢様」
ユリアは、プロコップが消えた方を見ていた。
彼女は知っていた。
彼は卑怯者で、臆病者で、虚栄心が強く、都合が悪くなると逃げる。
最初から分かっていた。彼自身も、何度も言っていた。
それでも、胸の中に冷たいものが広がった。
分かっていたことと、実際に置いて行かれることは違う。
グリゴリーが言った。
「ヒルシュアイス嬢。あなたにはご迷惑をおかけします」
「あなたのせいではないわ」
「彼の報酬については」
「まだ払っていません」
「賢明です」
ユリアは彼を見た。
「彼が戻る可能性は?」
グリゴリーは、ほとんど表情を変えずに言った。
「低いでしょう。あの男は、戻るより逃げる方を選んできた」
ユリアは返事をしなかった。
入口の子供たちも黙っていた。
さっきの女の子が、もう一度小さく言った。
「戻るよ」
誰も答えなかった。
夜が来た。
宿の広間は、いつも通り食事の匂いで満ちていた。
だがユリアたちの卓には、奇妙な空白があった。
プロコップが座っていたはずの椅子。そこだけが、妙に目立つ。
リーザはほとんど食べられなかった。
ユリアは食べた。
味は分からなかったが、食べた。
食べないことに意味はない。
食べれば、体は動く。体が動けば、次の判断ができる。
グリゴリーは宿の別の席にいた。
彼はプロコップの逃亡に怒っているようには見えなかった。
むしろ、予定通りの手順が一つ進んだという顔だった。
夜更け、宿の外で風が強くなった。
窓が細く鳴る。
ユリアは自室で、机の上の小さな燭台を見ていた。
リーザはもう隣の寝台に入っている。
眠ってはいない。気配で分かる。
「お嬢様」
「何」
「フライケイラー様は、本当に戻らないのでしょうか」
「分からないわ」
事実だった。
「お嬢様は、戻ると思われますか」
ユリアは少しだけ黙った。
「戻らない理由は、いくらでもあるわ」
「はい」
「借金。恥。グリゴリー。私に見られたこと。子供たちに見られたこと。彼にとって、ここは戻りにくい場所になった」
「では」
「でも、彼は戻りにくい場所に戻る癖がある」
リーザは寝台の中で、小さく息をついた。
「それは、良い癖ですね」
「本人は嫌がるでしょうね」
ユリアは窓を見た。
外は暗かった。月は雲に隠れている。路地には灯りが少なく、宿の裏庭だけが、薄い闇の中に沈んでいた。




