第十四話 削られた男
ニコライは宿の者に何か言いかけていたが、言葉を止めた。少し迷い、それからユリアの席へ近づいてきた。
「ユリア」
「ニコライ」
名前を呼ぶだけなら、簡単だった。
それ以上は、二人とも少し遅れた。
ニコライの顔は、以前より少し痩せて見えた。
疲れている。
だが、応接間で婚約解消を告げた日よりは落ち着いていた。
旅装をしている。
ということは、ただ手紙を送っただけでなく、彼自身も移動中なのだろう。
「偶然ね」
ユリアが言った。
「半分は」
「半分?」
「近くの町に用があった。君がこの道を通ることも、聞いていた」
「追ってきたの」
ニコライは少し困った顔をした。
「そう言われると、否定しにくい」
プロコップが椅子から立ち上がった。
「では、私は席を外しましょう。水の味を確認しに」
「座っていて」
ユリアが言った。
プロコップはすぐに座った。
「承知しました。私の席は国家的に重要です」
ニコライはプロコップを見た。
「こちらは?」
「プロコップ・フォン・フライケイラー。由緒ある家名を背負い、現在は不本意ながら護衛を務めております」
プロコップは大げさに一礼した。
「不本意ながら?」
ニコライが聞く。
「この旅は、予定より精神的労働が多いのです。私は剣で脅される覚悟はありましたが、人間の心の傷に同行する契約ではなかった」
「それは……大変ですね」
「分かっていただけますか!」
「少し」
「あなたはよい方だ。私の報酬の倍増を要求する書類に連名していただきたい」
「フライケイラー卿」
ユリアが静かに言った。
「はい。黙ります」
プロコップは杯を持ち、実際には黙らず、小声で「水の味は普通ですな」と呟いた。
ニコライは椅子に手をかけた。
「座っても?」
「ええ」
彼はユリアの向かいに座った。プロコップは横にいる。奇妙な三角形だった。
婚約を終えた男と女。
そして、その女の旅の護衛をする卑怯者。
宿の女がニコライに食事を持ってくると、彼は礼を言った。
その礼の言い方は相変わらず丁寧だった。女は少し頬を赤らめて戻っていく。
「相変わらず人当たりがいいのね」
ユリアが言った。
ニコライは苦笑した。
「君は相変わらず見逃さない」
「今のは責めていないわ」
「分かっている」
分かっている。
それでも、彼は少し傷ついた顔をした。
ユリアはそれも見た。
そして、言わなかった。
プロコップがその様子を見ていた。
「手紙を読んだわ」
ユリアが言った。
「そうか」
「礼は言わないわ」
「期待していない」
「謝罪もしないのね」
「君に謝ってほしくて書いたわけではない」
ニコライは水杯を見た。
「ただ、あの日の言葉だけで終わらせるのは、卑怯な気がした」
プロコップが小さく反応した。
「卑怯という言葉は、使い方に注意が必要です」
ユリアとニコライが同時に彼を見た。
プロコップは咳払いをした。
「専門用語ですので」
ニコライは少し笑った。
「では、臆病だったと言い換えよう」
「それなら広い意味で私の管轄です」
「フライケイラー卿」
「はい、黙ります。今度こそ」
ニコライはユリアに向き直った。
「僕は、君から逃げた」
「そうね」
「それでも、君があの屋敷に閉じ込められるような形になるなら、見ないふりはしたくなかった」
「なら、どうするの」
ユリアの声は静かだった。
ニコライは答えに詰まった。
その一瞬で、ユリアの目が冷えた。
「あなたは、私を心配する。けれど連れ戻すことはできない。家に抗議することもできない。婚約者ではないから。そうね?」
ニコライは唇を結んだ。
「そうだ」
「なら、心配は何のため?」
「君が無事か知りたかった」
「自分の罪悪感を軽くするために?」
ニコライの顔が痛んだ。
プロコップが杯を置いた。
音は小さかったが、はっきり聞こえた。
「お嬢様」
「何」
「その真実は、少々硬すぎます」
「彼は自分で言ったわ。卑怯だったと」
「ええ。自分で言う分には、まだ飲み込める。人に同じ石を口へ押し込まれると、歯が折れます」
ユリアはプロコップを見た。
彼は逃げていなかった。
嫌そうな顔をしていた。
非常に嫌そうだった。
今すぐ席を立ち、裏口から出て、川沿いの道を走りたい顔だった。
だが、そこにいた。
ニコライは静かに言った。
「いや、いい。彼女の言う通りだ」
「それが問題なのです」
プロコップは言った。
「あなたもまた、正しさに自分から首を差し出す癖があるようだ。これはいけません。首は一つしかない。大事にするべきだ」
ニコライは驚いたように彼を見た。
ユリアも少しだけ目を細めた。
「僕は」
ニコライは言いかけて、止まった。
それから、ゆっくり息を吐いた。
「僕は、君を助けたいと思っている。けれど、助ける力がない。だからせめて心配している。そう言えば、たぶん一番正確だ」
ユリアは黙った。
その答えは、弱かった。
弱くて、正直だった。
彼女は、そこを刺そうと思えば刺せた。
助ける力がないなら来るべきではない。
心配だけなら、相手に重荷を置くだけだ。
あなたはまた、自分を悪人にしたくないだけではないのか。
いくつも言葉はあった。
どれも正しかった。
だが、ユリアは言わなかった。
プロコップが横で、わずかに彼女を見た。
「あなたの手紙を読んだ時」
ユリアは言った。
「不快だったわ」
ニコライは頷いた。
「そうだろうね」
「責めていないのに、逃げ場がなかった」
ニコライは顔を上げた。
「僕も、君の言葉をそう感じていた」
「そう」
短い沈黙が落ちた。
今度の沈黙は、応接間のものほど冷たくはなかった。
だが温かくもない。
ただ、どちらも立ち去らずに座っているための間だった。
プロコップは、その沈黙に耐えきれなくなったように言った。
「実に有意義な沈黙ですが、私の胃が夕食の続行を求めております」
ニコライは思わず笑った。
ユリアも、ほんの少しだけ息を緩めた。
ニコライはプロコップに言った。
「あなたは、ユリアと旅をして疲れませんか」
「たいへん疲れます」
即答だった。
「ただし、疲れるにも種類があります。無意味に疲れるものと、意味がありそうで腹立たしい疲れがある。お嬢様との旅は後者です」
「腹立たしいのですか」
「非常に。行く先々で面倒を拾う。人の嘘を見抜く。私の逃走計画の邪魔をする。しかも、時々正しい。これが一番よくない」
ニコライはユリアを見た。
「分かる気がする」
「分かるでしょう。あなたとはよい酒が飲めそうだ。支払いはお願いしたい」
ニコライは笑った。
その笑いは、ユリアが久しく見ていなかったものだった。
婚約していた頃にも、彼は時々こうして笑った。
穏やかで、少し気弱で、それでも人を安心させる笑い。
ユリアはそれを見て、自分が胸の奥で何かを失っているのだと、遅れて理解した。
失ったのは恋ではないのかもしれない。
あるいは、恋だったのかもしれない。
だが少なくとも、彼女はニコライと過ごすはずだった未来を、ここで完全に見送っていた。
ニコライが言った。
「ローゼンフェルト家には、気をつけて」
「静かすぎるから?」
「ああ」
「静かな場所は嫌いではないわ」
「君が黙ることを求められる場所だ」
ユリアは彼を見た。
ニコライは視線を逸らさなかった。
「それは、君には向かない」
「私に耐えられなかったあなたが、そう言うの」
「耐えられなかったから分かる」
プロコップは珍しく口を挟まなかった。
ニコライは続けた。
「君の言葉は、人を傷つける。でも、君から言葉を奪えば、君自身が死んでしまう気がする」
ユリアは、すぐには何も言えなかった。
ニコライの言葉は弱かった。
だが、今度は逃げていなかった。
「僕は君と結婚できなかった。これからも、たぶんできない。でも、君が静かな屋敷で、誰も傷つけない代わりに、自分も何も言わなくなるのは違うと思う」
「勝手ね」
「うん」
「耐えられないと言った口で、黙るなと言うの」
「確かに勝手だ」
ニコライは認めた。
ユリアは笑わなかった。
けれど、刺さなかった。
プロコップが深く頷いた。
「アルテンブルク殿。あなたは弱いが、今のは悪くない」
ニコライが目を丸くした。
「褒められているのでしょうか」
「高い評価です。私の褒め言葉は希少品です。市場に出れば値がつく」
「出ないでしょうね」
ユリアが言った。
「お嬢様、私の名誉を勝手に値下げしないでいただきたい」
夜が深くなるまで、三人は長くは話さなかった。
必要なことだけを話した。
ニコライは明日の朝、東へ戻ると言った。
ユリアたちは西へ進む。道はまた分かれる。
食事が終わり、ニコライは先に立ち上がった。
「ユリア」
「何」
「君が僕を嫌うなら、それでいい」
「嫌っていないわ」
ニコライは少しだけ目を伏せた。
「そうか」
「嫌えたら、楽だったかもしれないけれど」
ニコライは顔を上げた。
応接間で彼が言った言葉と、よく似ていた。
彼は少しだけ笑った。
「お互い、楽な方へ行くのが下手だね」
ユリアはプロコップを見た。
「こちらには得意な方がいるわ」
プロコップは胸を張った。
「楽な方角なら私にお任せを。もっとも、実際に楽かどうかは到着後に判明します」
ニコライは笑った。
そして、ユリアへ静かに頭を下げた。
「無事で」
「あなたも」
彼は食堂を出ていった。
扉が閉まる。川の音がまた聞こえた。
ユリアはしばらく、閉じた扉を見ていた。
プロコップは黙っていた。珍しく、本当に黙っていた。
「何も言わないの」
ユリアが聞くと、彼は困った顔をした。
「今、何か言うと、かなり不粋な気がしましてな」
「あなたにもそういう感覚があるのね」
「少量ですが。先祖伝来です」
「名誉以外にも伝来するものがあったのね」
ユリアは窓の外を見た。
橋の上には月が出ていた。
川面が青白く光っている。水は止まらない。橋の下をくぐり、町を離れ、どこか知らない場所へ流れていく。
「彼はいい人ね」
ユリアは言った。
「そうでしょうな」
「私は、あの人を削ったのね」
プロコップは少し黙った。
「おそらく」
ユリアは目を閉じた。
「あなたは否定しないのね」
「否定してほしそうではなかったので」
「してほしかったのかもしれないわ」
「では、今からしましょうか」
「遅いわ」
「私の慰めは、いつも少し遅れる。高貴な到着と同じです」
ユリアは、少しだけ笑った。
プロコップはそれを見て、安心したような、困ったような顔をした。
「お嬢様」
「何」
「あの男は、お嬢様から逃げた。だが、完全には見捨てなかった」
「ええ」
「私は逃げる男として、そこは評価します」
「逃げる男の基準なのね」
「逃げたあと、どうするかが重要なのです。逃げっぱなしは美しくない。戻るか、手紙を書くか、せめて逃げ道を教える。そこに品格が出る」
ユリアはプロコップを見た。
「あなたは逃げたあと、戻るの?」
プロコップは目を逸らした。
「時と場合と報酬によります」
「嘘ね」
「お嬢様。時には見逃す優しさを」
「あなたは戻るわ」
プロコップは黙った。
ユリアは続けた。
「文句を言いながら。言い訳をしながら。自分が善人でないことを三度くらい確認しながら。それでも戻る」
プロコップは、少しだけ苦い顔をした。
「それは大変迷惑な習性です」
「ええ」
「治した方がよろしいでしょうか」
「いいえ」
ユリアは窓の外へ視線を戻した。
「たぶん、そのままでいいわ」
プロコップはしばらく黙っていた。
それから、妙に大げさに咳払いをした。
「今の言葉は、私に対する高い評価と受け取ってよろしいか」
「少しだけ」
「また少しですか」
「今日は昨日より多いかもしれないわ」
プロコップは胸を張った。
「では記録に残してください。プロコップ・フォン・フライケイラー、エルレンシュタットの夜において、少しよりやや多く評価される」
「長い」
「名誉は長いほど――」
「逃げる時に邪魔よ」
「では畳みましょう」
夜は静かだった。
隣室の咳も、下の広間のざわめきも、やがて薄れていった。残ったのは川の音だけだった。
ユリアは部屋へ戻る前に、もう一度だけ机の上の手紙を思い出した。あの字。あの弱さ。あの優しさ。耐えられなかった男の、なお残っている気遣い。
痛みは、消えなかった。
けれど今夜は、分類しなくてもよい気がした。
痛いものは痛い。
それだけで、ひとまず十分だった。
翌朝、東へ向かうニコライの馬車と、西へ向かうユリアたちの馬車は、宿の前で別れた。
ニコライはユリアへ短く会釈した。
ユリアも会釈を返した。
それ以上は言わなかった。
言えば、また何かを傷つけるかもしれない。
言わなければ、残るものもある。
馬車が動き出す。
プロコップは御者台から、東へ遠ざかる馬車を見送っていた。
「やはりよい男ですな」
「ええ」
「少々、胃が弱そうですが」
「あなたよりは強いわ」
「それは聞き捨てなりません。私の胃は幾多の安宿と粗悪なスープを乗り越えた歴戦の胃です」
「精神的には?」
「その話はやめましょう。胃が痛みます」
ユリアは窓の外を見た。
川は橋の下を流れ続けている。東へ行く水も、西へ行く馬車も、もう同じ場所には戻らない。
彼女は膝の上で手袋の縫い目に触れた。
今度は、直さなかった。




