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第十三話 ニコライの手紙

 森を抜けると、道は川に沿って続いた。


 川は広くはなかったが、流れは速かった。

 灰色の石の間を白く泡立ちながら走り、時折、陽を受けて銀の糸のように光った。

 向こう岸には柳が並び、その枝先が水面に触れるたび、川は小さな輪を作る。


 ユリアは馬車の中で、しばらく黙っていた。


 ヴァルトハイム村で見たものが、まだ胸の底に残っていた。

 ミハイルの妹の泣き顔。アレクセイの弟ユーリの拳。責めるでも許すでもない、ただ兄の最期を聞こうとした少年の目。


 人を救うというのは、時々、何も救わないことに似ている。


 真実を渡しても、死んだ者は帰らない。

 謝っても、置いてきた声は消えない。

 ただ、嘘の上に座って動けなくなった人間が、ほんの少しだけ立ち上がることがある。


 それを救いと呼んでいいのか、ユリアにはまだ分からなかった。


 御者台では、プロコップ・フォン・フライケイラーが手綱を握ったまま、川の流れを横目で見ていた。


「川ですな」


「見れば分かるわ」


「川というものは信用なりません。上から見ると穏やかでも、中では足をさらう。人間の親切と似ています」


「あなたは何でも信用しないのね」


「信用とは高価な嗜好品です。日常的に摂取すると破産します」


 リーザが小さく笑った。


 プロコップはそれに気づいて、少し得意そうに肩をそびやかした。


「侍女殿には、私の言葉の深みが分かるようですな」


「面白いだけです」


 リーザは素直に言った。


 プロコップは傷ついた顔をした。


「面白いだけ。人は時に、短い言葉で騎士の魂を刺す」


「あなたの魂は、意外と刺さりやすいのね」


 ユリアが言うと、彼は大げさに首を振った。


「繊細なのです。丈夫なのは外套と、借金取りに対する逃走本能だけです」


 昼過ぎ、三人は川沿いの小さな町に入った。


 町の名はエルレンシュタットといった。

 橋を中心にできた町で、石造りの古い橋の両側に、宿屋、鍛冶屋、パン屋、馬具屋が並んでいる。

 荷馬車が多く、魚を売る声と、蹄鉄を打つ音と、川の音が混じっていた。


 その町の宿に着いた時、一人の郵便騎手が馬を休ませていた。


 赤い上着を着た若い男で、帽子には濡れた羽根がついている。

 彼は宿の女将と話していたが、馬車に描かれたヒルシュアイス家の小さな紋を見つけると、すぐに近づいてきた。


「ユリア・フォン・ヒルシュアイス様でいらっしゃいますか」


「ええ」


「お手紙をお預かりしています」


 ユリアは差し出された封筒を見た。


 封蝋には、アルテンブルク家の紋が押されていた。


 白い封筒。整った宛名。見覚えのある筆跡。


 ニコライ・フォン・アルテンブルク。


 ユリアの指は、ほんの少しだけ止まった。


 止まったのは一瞬だった。すぐに手紙を受け取る。だが、プロコップは御者台からその一瞬を見ていた。


「誰からですかな」


「あなたに関係のない人からよ」


「それは残念。私に関係のないものほど、たいてい平穏で好ましい」


 ユリアは封筒を外套の内側へしまった。


 すぐには開けなかった。


 宿は、川に面した古い建物だった。

 名は「灰鴎亭」といった。

 窓からは橋が見え、川風が少し湿った匂いを運んでくる。

 部屋は清潔だったが、壁が薄く、隣室の男の咳が聞こえた。


 ユリアは部屋に入ると、外套を脱いだ。


 リーザが荷をほどきながら、そっと言った。


「お手紙、読まれますか」


「ええ」


 ユリアは椅子に座った。


 封蝋を割る音が、妙にはっきり響いた。


 紙を開く。


 ニコライの字は相変わらず整っていた。

 字には、その人間の癖が出る。

 ニコライの字は優しく見える。

 だが、行の終わりで少しずつ小さくなる。最後まで同じ強さで書くことが苦手なのだ。


 ユリアは読み始めた。


 ユリアへ。


 道中、体調に変わりがないことを願っています。

 あなたは、こういう書き出しを形式的だと言うかもしれない。けれど、形式的でも、心配していることに変わりはありません。


 先日のことについて、改めて詫びるべきか迷いました。

 ただ、謝罪があなたをさらに傷つけることもあると、今は少し分かります。

 僕は、君を悪い人だと思ったことはありません。

 君の言葉に傷ついたことは多くあります。けれど、君が人を傷つけたい人間ではないことも知っています。


 だからこそ、僕は耐えられなかったのだと思います。

 悪意なら憎めた。

 正しさなら反論できた。

 けれど、君の言葉には、そのどちらでもないものがあった。


 君はいつも、人の中にある腐りかけた部分を見つける。

 僕はそれを見られることに耐えられませんでした。


 ローゼンフェルト家へ向かうと聞きました。

 あの家は静かです。静かすぎるかもしれません。

 君が望んでそこへ行くのではないことも、想像しています。


 僕にはもう、君の進む道に口を出す資格はありません。

 それでも、どうか無事でいてください。


 ニコライ・フォン・アルテンブルク



 読み終えて、ユリアは手紙を畳まなかった。


 紙の上に、彼の声がまだ残っているようだった。

 穏やかで、疲れていて、逃げた男の声。

 それでも、こちらを案じている声。


 嫌いになれたら楽だった。


 彼はそう言った。


 手紙もまた、そういう手紙だった。責めていない。だから、逃げ場がない。


「お嬢様」


 リーザが小さく呼んだ。


「何」


「お茶をお持ちしますか」


「いらないわ」


「はい」


 リーザはそれ以上、何も聞かなかった。


 ユリアは手紙を机の上に置いた。

 窓の外を見る。橋の上を荷馬車が渡っていく。馬の蹄が石を打つ音が、川の音に混じる。


 ――ローゼンフェルト家は静かです。静かすぎるかもしれません。


 ニコライはそれを分かっている。

 分かっているのに、婚約は終わった。

 分かっているのに、彼は彼女のそばにはいない。


 分かることと、支えられることは違う。


 夕方、食堂へ降りると、プロコップはすでに席についていた。


 彼は窓際の卓を選んでいた。川が見える席だった。

 だが、よく見れば入口も、台所口も、裏庭への扉も見える。


「また逃げ道の多い席ね」


 ユリアが座ると、プロコップは満足げに頷いた。


「私は空間を読む男です。詩人が星を読み、商人が帳簿を読み、私は出口を読む」


「誇ることなの」


「出口は命を救います。入口は面倒を連れてくる」


 彼はそう言って、ユリアの顔を見た。


「手紙は、面倒でしたか」


 ユリアは水杯を取った。


「あなたは人の手紙にまで興味があるの」


「興味ではありません。危機管理です。封蝋一つで人間は不機嫌になり、不機嫌な人間は旅程を乱す。不機嫌なのが貴族令嬢だったら、その危険度はさらに増すものです」


「不機嫌に見える?」


「いいえ」


 プロコップはあっさり言った。


「だから面倒なのです」


 ユリアは彼を見た。


 プロコップはパンを割った。


「怒っている人間は分かりやすい。泣いている人間も、まあ困るが分かりやすい。お嬢様は、傷ついても顔が整っている。これは周囲に不親切です」


「顔を乱せば満足?」


「少なくとも、私が逃げるべきかどうか判断しやすい」


「あなたの基準はそこなのね」


「人生の重要な判断基準です」


 ユリアは何も言わなかった。


 プロコップは、少しだけ声を落とした。


「アルテンブルク殿ですか」


 ユリアの指が止まった。


「なぜ分かるの」


「私は臆病者です。臆病者は人の顔色を読む。怒らせる前に逃げるためです」


「見事な応用ね」


「この才能で何度も命を救いました。主に私の」


 プロコップは水を飲んだ。


「彼は、まだお嬢様を気にしているのですな」


「そう書いてあったわ」


「いい男ですな」


 ユリアは顔を上げた。


「そう思うの」


「ええ」


 プロコップは平然としていた。


「婚約を解消した男を褒めるの」


「褒めます。私なら、別れた相手に丁寧な手紙など書きません。後から刺される可能性が増えますからな」


「あなたらしいわ」


「それに、彼は逃げたのでしょう」


 プロコップは、パンをスープに浸しながら言った。


「逃げた男を、私は一方的には責めません。職業倫理に反します」


 ユリアは窓の外を見た。


「彼は、私に耐えられなかった」


「でしょうな」


「即答なのね」


「お嬢様。あなたに耐えるには、特殊な装備が必要です。厚い面の皮、軽い足、折れにくい胃、そして多少の自暴自棄。私にはそのうち三つがあります」


「胃は折れないでしょう」


「私の胃は時々、精神的に折れます」


 ユリアは少しだけ息を吐いた。


「私は彼を壊したのかしら」


 プロコップの手が止まった。


 その問いは、食堂のざわめきの中で静かに置かれた。


 プロコップはすぐには答えなかった。


「壊したのなら」


 ユリアは続けた。


「なぜ彼は、まだ私を心配するの」


「壊れ方にも種類があります」


「あなたは何にでも種類を作るのね」


「分類は大事です。借金にも良い借金と悪い借金がある」


「良い借金なんてあるの」


「今後見つける予定です」


 プロコップはパンを皿に置いた。


「アルテンブルク殿は、壊れたというより、削れたのでしょう」


「同じでは?」


「少し違います。壊れたものは形を失う。削れたものは、元の形が残る。だが小さくなる」


 ユリアは黙った。


「お嬢様は人の嘘を見つける。弱さも見つける。見つけたものを、見つけたと言う。これは正しい」


「でも?」


「正しさは、毎日浴びると寒い」


 プロコップの声は、いつもの調子より少し低かった。


「火に当たり続けても焼ける。氷に触り続けても痛い。お嬢様の言葉は、その両方です」


 ユリアは彼を見た。


「あなたは寒いの?」


「私は寒さにも暑さにも弱い。非常に人間的な男です」


「逃げないの」


「逃げますとも」


 プロコップは即答した。


「ただ、私は戻る癖がある。大変迷惑な癖です」


 ユリアは何か言おうとして、やめた。


 その時だった。


 食堂の入口が開いた。


 川風が入ってきた。宿の灯りが揺れる。

 入ってきた男は外套についた水滴を払っていた。雨は降っていないはずだったが、川霧で濡れたのだろう。

 背は高く、服は上等で、動きに無駄がなかった。


 ユリアは、その横顔を見て動きを止めた。


 ニコライ・フォン・アルテンブルクだった。


 彼もすぐにユリアに気づいた。


 食堂の音が、一瞬だけ遠くなった。


 プロコップは二人の顔を交互に見た。それから、小さく呟いた。


「なるほど。入口は面倒を連れてくる。やはり私の理論は正しいかった」


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