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冒険の始まり

 見知らぬ場所。

 死ぬかもしれない恐怖。


 それでも私が理性を保てたのは、ニノさんが居たからだ。いつも自信に満ちた表情を浮かべ、あの巨大な狼を圧倒できる彼女の存在だけが、心の拠り所だった。


「……な、なな、何なのよ、このダンジョン。どこ見ても、日が射してるじゃない」


 その希望は偽物だった。

 今の彼女は、ただ怯えているだけの子供にしか見えない。

 

「わっ!? なにこれ死体!? ま、まま、まさか赤鬼!? どうして!?」


 私は、頭が真っ白だった。


「ハル? まさかこれ、ハルがやったの?」


 彼女が私を見て言った。

 その目には驚愕と恐怖の色があった。


 それはまるで、怪物を見るかのような──


「すごいじゃない!」

「……え?」


 突然、彼女の表情が和らいだ。


「こいつは赤鬼、等級は3相当よ! つまり等級2でも勝てないことがあるの! それを等級1のハルが斃すなんて……流石は私の盟友ね!」


 子供のように無邪気な笑顔。

 それを見て私はより一層困惑した。


 別人だった。

 口調も、表情も、まるで違う。


「ん? ハル、驚いてる? ……ああそうか、そうよね。まだ説明してないわよね」


 彼女はその場に正座すると、右手で地面をトンと叩いた。


「隣に座って。この際だから、全部説明するわよ」


 私は頷いて、彼女の隣に座る。

 彼女は長く息を吐いた後、ゆっくりとした口調で話し始めた。


「まずはごめんなさい。驚かせてしまったわよね」


 返す言葉が思い浮かばない。

 黙っていると、彼女は次の言葉を口にした。


「これはスキルの影響よ。私の等級は、朝と夜で違うの。もちろん全てに影響が出るのだけれど、分かりやすいのは特殊ね。……要するに、幼稚になるのよ」

「幼稚に……?」

「そうよ。普通は急激に変わるようなことは無いのだけれど、私の場合は、朝と夜で等級ふたつ分も変化するの……ああ、ごめんなさい、無理そう。ちょっと、手を握って貰ってもいいかしら?」


 私の左隣に座るニノさんが、軽く右手を挙げて言った。

 

「……ありがとう。少し落ち着いたわ」


 握り締めた彼女の手は、とても冷たくて、震えていた。


「さて、私のことはこれくらいにして、状況を整理しましょう」


 彼女は何度か深呼吸をする。

 そして、私の手をギュッと握り返してから話し始めた。


「最後に現れて目がチカチカする狼だけれど、あれは新種よ」

「……新種?」

「組織のデータベースに存在しないということ。だから脅威度は推定するしかない」


 喋る度、呼吸が荒くなり、手を握る力が強くなる。

 私にはまだピンと来ないけれど、とても強い恐怖が伝わってくる。


「……ありえない。なんなのよ、あいつ」


 彼女は反対の手で顔を覆った。


「等級3になったカイが反応もできなかったことから等級5以上は確実。でも根本的な問題は違う。他のモンスターを召喚したこと。あんなことができるのはダンジョンだけ。先日の事件、あの能力で試験的に起こしたと考えれば、誰も感知できなかった理由に説明が付く。だって私は、あいつの存在をギリギリまで感知できなかった……待ちなさい。試験ですって? モンスターにそこまでの知能が? ……ありえない。確実にヒトが関わっている。だったら……ああ、ああ、ああ、ああああ!?」


 私が握っている彼女の手に強い力が入る。

 ここで手を放したら、彼女が遠くへ行ってしまうような気がした。


 だから私は両手を使って、その手を強く握り締めた。

 彼女が落ち着くまでの間、ずっと、握り続けていた。


「……ハル、少し、痛いわ」


 やがて冷静さを取り戻したニノさんが苦笑まじりに言った。

 

「……ごめんなさい」

「いいえ、ありがとうね。おかげで、まだ生きてる」


 彼女は私に笑みを見せると、目を細めながら天井を見上げ、長い息を吐いた。


「ここは、恐らくダンジョンよ」


 そして、少し掠れた声で言う。


「通常、等級3以上の者が何人も集まって踏み込む場所よ。それでも生存率は五割を下回る……分かるかしら? 夜にだけ行動しても等級3から4相当の力しかない私が一人で足掻いたところで、どうにもならない場所なのよ」


 その弱気な言葉で背筋が冷たくなるのを感じた。

 しかし彼女が「絶望」しているのは、それだけが理由ではなかった。


「仮に生き残れたとしても、恐らく基地はダメね。あの目がチカチカする狼と、それを従える存在Xを止められる戦力は無い。きっと現世に大量の化け物が溢れ出て……毎日、百万人単位で死者が出るんじゃないかしら」

「ひゃく……」


 私は絶句した。

 今の言葉を聞いて、初めて彼女の絶望を理解した。


「ねぇ、ハル、聞いてくれる?」


 彼女は初めて私に目を向けた。

 私も彼女の目を見て、静かに頷いた。


「私、まだ死にたくない」


 その紅い瞳が微かに揺れる。

 

「私には色素が無い。まだ、一度も普通の生活をしていないのよ」


 その声が震え、瞳から溢れた雫が頬に透明な線を引く。


「だから守りたい。必ず生き残って、現世も救ってみせる」


 彼女はどこか寂し気な笑みを浮かべ、私に言った。


「ハルの力、貸してくれるかしら?」


 ドクンと心臓が跳ねた。

 私はまだ、自分に何ができるのか分かっていない。


 ここで首を縦に振る以外の選択肢は無い。

 だけど、ただ流されるだけの形で、その選択をするわけにはいかない。


 ニノさんの気持ちを聞いた。

 それを聞いて思った。私も、彼女と同じだ。


 ──まだ、一度も普通の生活をしていない。


「ニノさんこそ、そんなに弱気で大丈夫?」

「……そこは、呼び捨ての方が良いんじゃないかしら?」

「分かった。次はそうする」


 互いの目を見て、その覚悟を確かめるように笑い合う。

 その頃にはもう、握り締めた彼女の手から震えが消えていた。


「それでは、作戦を告げるわよ」


 彼女は立ち上がる。

 私も手を引かれ、硬い地面を踏みしめた。


「ここを生きて出る。前線基地へ向かい、上位者を連れて現世へ戻る。これを可能な限り短期間で完遂する。──以上よ」


 そして私達は、普通の生活をするための冒険を始めた。

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