赤鬼
私は咄嗟に息を止めて悲鳴を堪えた。
恐怖が内側に押し込められ、胃の中で暴れ回る。
(……なにあれ、なにあれ、なにあれ)
パニックだった。
絵本の中でしか見たことのないような鬼が、満面の笑みを浮かべて走ってくる。
ひょっとしたら親切な赤鬼さんかもしれない。
私は祈りを込めて笑みを返す。すると赤鬼さんは走りながら壁を殴るようにして、何かを摑み投擲した。
それは私の頬を掠めて、背後の壁に衝突した。
背中からパラパラと何かが砕けるような音がする。次に頬が熱を発して、社会人になってからは滅多に感じたことのない痛みが、死の恐怖を助長した。
(……逃げなきゃっ、でもどうやって!?)
道は一本しかない。鬼はそこから走ってきている。
それでも、私だけなら隙を見て逃げ出せるかもしれない。
だけどその場合、ニノさんは──
(……早くっ、何か、早く!)
考えている間にも鬼が迫る。
その丸太のように太い腕が私に触れるまで十秒も無いだろう。
「ニノさんっ、起きてください!」
身体を半分だけ向けて肩を揺らす。
最も生き残れる可能性が高いのは彼女が目を覚ますことだ。
あの鬼の脅威度は分からないけれど、少し前までニノさんが戦っていた巨大な狼は瞬間移動にしか見えない速度で動いていた。きっと彼女なら問題にならない。
「お願いしますっ、起きてっ、あのっ、あれ、えっと!」
コンマ一秒毎に恐ろしい鬼が迫る。
しかし、どれだけ必死に揺らしてもニノさんが目を覚ます気配は無い。
(……どうしよう。どうしよう。どうしよう)
私は彼女を起こすことを諦めて、鬼の方を見た。
その刹那、ビュンと風を切るような音がした。直後に背後で何かが弾ける音が聞こえて、頬に鋭い熱が生まれる。唖然としながら鬼を見ていると、唯一の出入口に立ったそれは、何か岩のような物を握り締めていた。
目が合った。
鬼は引き裂けそうな程に口角を吊り上げると、手に持った何かを私に向かって投擲した。
「──ッ!?」
目で追うのがやっとの速度だった。
私は咄嗟に手を前に突き出した。しかし衝撃は腹部に来た。
身体がくの字に曲がり、痛みよりも先に何かがブチブチと千切れる音がした。次に熱した鉄を押し当てられたような感覚が生まれ、喉が詰まり呼吸ができなくなった。
脚から力が抜けて地面に崩れ落ちる。
それから大きな咳が出て、口から何かが吐き出された。
私は何かに目を向けることはなく、口中に広がる鉄の味を感じながら、満足そうな表情でゆっくりと歩いてくる鬼の姿を見ていた。
(……怖い)
身体が震えて、目と鼻、そして全身の汗腺から不愉快な液体が溢れ出る。そんな私を見て鬼は楽しそうにわらう。
「……こ、ないで」
声を出した後、また喉が詰まる感覚があって、反射的に咳が出た。
少し遠くまでとんだ液体がベチャリと地面で跳ねて鬼の足先を濡らした。
「……止まっ、て」
私は鬼を見て祈るような気持ちで言った。
しかし鬼は止まらない。代わりに何かがゴッソリと失われたような感覚があり、高熱の症状と似た倦怠感に襲われた。
鬼が私の前に立ち、地面に膝をついた。
それから顔を近付けると、突然叫んだ。
鼻が曲がるような悪臭と、目が焼けるような熱風。それらが通り過ぎた後、私は頭が真っ白になって、尻餅をついた。
鬼が笑う。
歯がガクガクと震える。
鬼が私に向かって両手を伸ばす。
咄嗟に逃げようとしたけれど、身体が言うことを聞いてくれない。
「……や、だ。……ぃゃ、ぁ……」
お腹に力が入らなくて、まともに声を出すこともできない。
鬼は私の両腕を掴むと、そのまま乱暴に持ち上げた。
身体が宙に浮く。
一体何をされるのだろう。そう思った後、鬼が低い声で笑い始めた。
それから握られた腕に伝わる圧迫感が増して──私は、鬼が両腕を引き千切ろうとしていることを理解した。
「……な、して」
本当にそんな力があるのかどうかは分からない。ただ鬼は、私に苦痛を与えることを楽しむかのように、ゆっくりと力を強めていく。
「……はな、して」
痛みで悲鳴をあげそうになる。
それをグッと堪えて、唯一の希望──スキルの発動に賭けて言葉を発した。しかし何も起こらない。
骨の軋む感覚がある。皮膚が裂け、何かが千切れそうになっている感覚がある。
あの巨大な狼に襲われた時よりも遥かに強い死の感覚が、私の思考を麻痺させていく。
(……ダメッ、思考を、止めないで!)
心の中で自分に言い聞かせて、震える口で思い切り息を吸い込む。それから私は微かに残った力を振り絞り、叫んだ。






