変局 4
その人影に気が付いたのは私達だけではない。
直前まで激しい攻撃を続けていた狼も動きを止め、顔を向けていた。
(……助かった、のかな?)
目前に迫った死が遠ざかったことは分かる。
だけど身が震える程の緊張は解けず、心臓は煩いくらいに胸を叩き続けている。
私は狼の様子を見る。二頭のうち、こちらに近い方。
それは微かに身を屈めると、次の瞬間に姿を消した。
(……!?)
私は驚いて目を見開いた。
その直後、金属を地面に叩き付けたような音がした。
目を向ける。
一頭の狼と、三人の男女が睨み合っていた。
二人は知らない。しかし一人は見覚えがある。あのRPGの勇者みたいな鎧を装備している男性は、確か食堂で作務衣を着ていた人だ。
「カイのチームです」
私の疑問に答えるようにして、シズさんが安堵した様子で言った。
「それから、ニノも来たようですね」
シズさんは別の場所を見て言った。
(……ニノさん、良かった、生きてた)
その名前を聞いて、少しだけ胸が熱くなる。
私はシズさんの視線を追いかけて、そこでまた一本の白い線を見た。それは二頭目の狼へと続き、一瞬の静寂の後、夜空に紅い花を咲かせた。
グォォォという悲鳴のような咆哮が大気を揺らす。
その音は、恐らく魔法で守られた私の場所まで届いた。
聞こえた音は決して大きくない。
しかし私は思わず両手で耳を塞いだ。
だって、さっき聴力を奪われたばかりだ。
(……この魔法、遮音性が高いのかな?)
そっと手を離しながら思う。
その僅かな思考の間にも、次々と新たな白い線が現れ、世界を紅く染める。
「……ニノは、やはり規格外ですね」
シズさんが呆れた様子で言った。
私にはさっぱり分からないけれど、ニノさんは組織の中でも凄い人みたいだ。
「はぁぁ、助かった……良かった……」
シズさんはその場に崩れ落ちると、直後にハッとした様子で私を見て苦笑した。
それからコホンと咳払いをして、あらためて笑みを見せる。それは最初に見た作り笑顔とは異なる自然な表情だった。
「あなたにも……ハルにも感謝しています。ありがとうございます」
「……いえ、こちらこそ……えっと、その、成功して良かったです」
私はなんだか照れてしまって、俯いた。
あんな顔で誰かに感謝されたのは初めてで、何を言えばいいのか分からなかった。
「ハルの等級は、本当に1ですか?」
「……えっと、何かおかしいですか?」
ほんの少し離れた場所では激しい戦闘が繰り広げられている。しかし彼女は、まるで世間話でもするような様子で言う。
「異常です。普通の方なら……私が等級1の頃なら、きっと何もできませんでした。やはりスキルを持つ方はどこか違いますね」
「いえそんな……その、スキルって珍しいんですか?」
「もちろん。この場では、あなたとニノだけですよ」
彼女はニノさんの方を見ながら言った。
「ハル、あなたとニノはどういう関係ですか?」
「……関係、ですか?」
「随分と気に入られている様子でしたから」
「……えっと、一応、友達? みたいです」
「なぜ疑問系なのか気になるところですが、それは良い、素晴らしいです」
シズさんは急にニヤリと口角を上げると、私に顔を近付けた。
「……」
「……」
私は思わず身を引いた。
彼女は目をキラキラさせて言う。
「ハルとニノのチームに、私を推薦してくれませんか?」
「……チーム、ですか?」
問い掛けると、彼女はカイさん達の方に目を向けた。
「ニノのような例外を除けば、等級2のまま等級4相当のモンスターと戦うのは自殺行為です。しかしチームを作ることで、あのように時間を稼ぐ程度なら可能です」
「……時間稼ぎ、ですか?」
私はカイさん達の方を見て呟いた。
ニノさんと違って、あの三人の戦闘はギリギリ目で追うことができる。
狼が巨大な爪を振り下ろし、カイさんが大きな剣で受け止める。カイさんが傷を負うと少し離れた位置に立つ男性が火の玉を飛ばして、その隙に髪の長い女性がカイさんに近付いて何かする。その繰り返し。
「彼らは時間稼ぎに徹しています。カイが攻撃を受け、傷を負えば後衛が魔法でフォローする。もちろんジリ貧ですが、ニノが合流するまで耐えれば勝ちです」
「……勝てないんですか?」
シズさんは明確な返事をしなかった。
私にはピンと来ない部分が多いけれど、あの狼の危険度が非常に高いことだけは理解できた。
(……私だったら、何もできないよね)
相手は見上げる程に巨大で、そもそも動きを目で追うことすらできない。
「ところで如何ですか? ニノさんへの打診、引き受けて頂けますか?」
「……あっ、えっと、そうですね。話してみます」
返事をすると、彼女は私の手を握った。
「ありがとうございます。これからよろしくお願いしますね」
「……はい、よろしくお願いします」
微かに下心が見えるものの、とても友好的な態度。
私が下手な笑顔を作って返事をすると、直後に大きな音がした。
咄嗟に息を止めて唇を嚙む。
その聞き覚えがある。ほんの数分前、狼に攻撃を受けていた時の音だ。
恐る恐る音がした方に目を向ける。
そこには、ニノさんが立っていた。
無表情だった。
何の感情も読み取れない顔をして、じっと私達を見ていた。
やがて、その口がゆっくりと動き、姿を消した。
音は聞こえなかった。ただ、その直後からシズさんが焦り始めた。
「あの、ハル……いえ、ハル様。先程の話、本当にお願いします。あなたの対応次第で、私はニノに殺されるかもしれません」
「……流石に、そんなことは」
「お願いします」
「……はい」
(……冗談、だよね?)
私は反応に困りながらも、とりあえず頷いた。モンスターを目にしてから一番緊張感の無いやりとりなのに、最も緊張した瞬間だったかもしれない。
ニノさんはカイさん達に合流して、二頭目の狼と戦闘を始めた。
もう大丈夫。そう思った私は、長い息を吐きながら地面に腰を下ろした。
まだ分からないことだらけ。
いきなり大変なことに巻き込まれたような気がするけれど、ひとまず生き残った。これからゆっくり説明を受けて、少しずつ、この非日常に慣れていこう。
────そんな風に、私は油断していた。






