変局 2
至近距離で見た狼は、山のように大きかった。
私が昨日まで生活していたマンションは8階建てだったけれど、その半分くらいはあるかもしれない。そんな巨大な生物が瞬間移動にしか見えない速度で動いている。
黒い狼は百メートルくらい離れた位置に立っている。
その姿が消えたと思った瞬間、甲高い音と共に地面が揺れ、世界が暗くなる。
慌てて背後を見上げると、そこには私よりも大きな爪が見えた。その爪は何か見えない壁とぶつかっているようで、激しい光を発しながらも、そこから動かない。
(……なに、これ)
私はその場に尻餅をついた。
身体の震えが止まらない。歯がガタガタと音を鳴らしている。これまで称号により抑えられていた当たり前の恐怖が、私に形容しがたい不快感を生み出している。
(……称号、戻せば)
直前まで設定されていた「透明な心」という謎の称号。あれを設定すれば、きっと機械の電源を切ったかのように恐怖から解放されるだろう。
(……それは、やだな)
私は普通になりたい。
普通の人は、きっとこの状況で怯える。
この恐怖は、きっと普通の証明だ。
透明な心という称号を設定していた時には劣るけれど、私は元より感受性が乏しい人間だった。感動的な映画を観ても、仕事で理不尽な仕打ちを受けても、何か強い感情を抱くことはなかった。
しかし、今はどうだろう。
身体の震えや涙が止まらず、それこそ普通の人のように怯えている。
──とても、生きているという感じがする。
「ハル! あなたのスキルでどうにかできませんか!?」
シズさんの叫び声を聞いて私は思考を中断した。
「スキル、ですか?」
「時間が稼ぐだけで構いません! 私達の仕事は、ニノかカイのチームが合流するまであのデケェ犬に喰われないことです!」
不安定な言葉遣いから強い焦りが伝わってくる。
私は様々な感情で混乱しながらも、お腹に力を込めて返事をした。
「あのっ、今はどうやって」
「魔法! でも、今の精神消費量からして二分も持たない!」
具体的な数字を告げられ鳥肌が立つ。
二分以内に助けが来なければ、私達はあの大きな狼に食い殺される。
(……スキル)
効果は覚えている。
対象に任意の効果を付与すること。
(……でも、どうやって使えば)
疑問に思った時、ニノさんが言った冗談のような言葉を思い出した。
(……ちょっと恥ずかしいけど、それで助かるなら!)
やり方の見当は付いた。
次はイメージだ。どんな効果を誰に対して付与すれば助かるのかイメージする。
シズさんは「魔法」とか「精神消費量」とか言っていた。
きっと狼の攻撃を防いでいるのは魔法で、それを維持するためには、ステータス画面にも出ていた「精神」を消費するのだろう。
なら、減らないようにできないだろうか?
もしくは……それこそゲームみたいに、回復できないだろうか?
(……効果、効果、効果、効果)
頭の中でイメージをする。
(……精神を回復って何? どういうイメージ? そもそも効果なの? 付与できるの? じゃあやっぱり減らないように……減らないって何? そもそも対象は?)
分からない。具体的なイメージが湧かない。
「ハル! 落ち着いて、一分くらいなら絶対に耐えられます!」
シズさんの声。
私は一度深呼吸をして、シズさんを見た。
(……何もしなければ、死ぬだけ!)
覚悟を決めて、私は曖昧なイメージのまま口を開く。
「わ、我が眼の、もとに…………回復して!」






