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第8章

 それからもマリアは耕太のことが忘れられなかった。名前もなかった自分に贈られた初めての贈り物。それが名前だった。耕太は約束通り、住んでいるという本部(もとぶ)の砂浜にいつも立っていた。家の敷地から砂浜を臨む小高い丘の上に建つ白い家に住んでいる。

「耕太!」

言われた頃の時間になって砂浜に顔を出し、わざと声を弾ませた。

「もう、遅ぉい!約束の時間まで随分待ったのよ?」

「ごめんごめん。というより、マリアが来るの、早すぎなんだよ。」

「だって、海の中は暇だから。」と、笑って見せた。

「海の中ではどんなことしてるの?」

「とにかく泳いでるよ。一日中泳いでいられるわ。」

こともなさげにさらりと言ってのけるマリアに耕太は腰を抜かした。

「50km!?さすがは人魚!やっぱり人とは違うな。」

「人間は泳げないの?」

「泳ぐことは泳ぐけど…軽く一日中なんてわけにはいかないな。」

「そう、不便なのね。」

マリアは軽く頬を膨らませた。思いのほかストレートな人魚様のようだ。随分と痛いところを突いてきてくれる。

「随分と小生意気な人魚姫ですね。」

そう言って笑った。こうやって毎日海辺で二人過ごすうちに日に日に高まっていく。泡のように、とめどなく、限りなく。彼のもとにいたい。人間になりたい。その想いは高まったままとどまらないエンドレス。別れ際、耕太の顔が妙に儚く、どこか遠くを見ているように海のかなたの水平線を見ている。また別の人魚でも探しているかのように。誰か重い美とがいるのだろうか。それも人魚に。

 夜、強風になびいてざわざわと鳴り響く木々の葉のように、果てしない胸騒ぎが広がる。外見からはまるで無縁のはずの黒い影が、マリアの心に燻っていく。ねえ、その瞳の先に何を映しているの?誰が映っているの?こんなにも胸の中で激しく高ぶるのに、聞きたい衝動は中途半端で、あと一歩のところで喉を震えず、もどかしい。水平線のここからは見えない仲間に向けて視線を投げ飛ばした。

「…マリア?」

「あのね、人魚はね、川を上ってはいけないの。」

「どうして?」

「人間になって、もう海には戻れないから。」

耕太には普段耳に慣れた遠くから迫ってくる潮騒がひときわ大きく聞こえた。ざわり、ざわり。辺りがモノトーンに染まっていくような気がした。

「…太、耕太?」

はっと我に返ると、マリアの青い瞳が耕太の顔をまじまじと覗き込んでいる。あまりの近さに思わずのけぞり、間抜けな体勢で尻餅をついた。途端、マリアが吹き出して笑った。

「やだ、何やってんのよ!」

「マリアが近いんだから…びっくりするだろ!」

「ごめん。」

あまり反省の色は感じられなかったが、耕太は特に気に障らなかった。なのでこのまま水に流すことにした。ふと、腕時計に目をやると、

「やばい!塾に遅れる!じゃあな、マリア、俺、もう行くから。」

「うん。」

マリアは少し名残惜しそうに耕太の後姿を見送った。完全にその姿が見えなくなると、自分もそのまま海に戻った。しばらく深いところまで潜ってマリアは急に顔を曇らせた。毎日こうやって一緒に話していると、あっという間に日が暮れて、いつも別れが辛い。気づくとマリアは真水が泡を吹きながら流れ込む河口に来ていた。この先に行けば、耕太のそばにいつでもいられる。とはいえ幼少の頃から二度と海には戻れない。と言われているだけに、容易に足を進められない。こうしている間も河口の水と海の水は濛々と混じり合う。それでもマリアはその場から離れられず、河口付近の珊瑚の下で眠ることにした。

 暁の空が金色に染める頃、マリアは目が覚めた。あまりよく眠れていない。耕太とともに、人間として生きたい。その思いは一昨日、昨日、今日と、日を追うごとに膨れ上がって、もうどうにも留められないほどに膨れ上がっていた。やがて意を決した。耐え切れずに自由奔放だった海での日々を捨て、淡水の小川に向かって泳ぎだした。魚の尾は金色に輝きながら華奢な白い足に変わっていく。やがて、足がついた頃、川から上がって立ち上がると、白いワンピースを一枚つけただけの無防備な姿でマリアは立っていた。焼け付くような砂、小石が白い足に刺さる。それでもマリアは耕太の家を目指して、焼け付くような中州からアスファルトの上へと、はだしで歩いた。一歩一歩踏み出すたびにアスファルトにはねつけた熱がマリアの足に刺さる。それでもマリアは耕太のもとを目指して、歯を食いしばった。

「じゃあな、耕太、養生しろよ!」

「わかってるよ。」

友人と別れて家の門をくぐろうとすると一人の白いワンピースをまとった若い女性が座り込んでいた。訝しげに彼女に近づくと、その顔には見覚えがあった。緩やかなウェーブの金髪、白い肌、青い瞳、つややかな珊瑚色の唇。マリアだ、間違いない。耕太は確信した。

「まさか…マリア?」

尋ねた瞬間、マリアが耕太に抱きついてきた。ぐっしょりと濡れていたワンピースはすっかり乾いていた。抱きしめられた感触で全部を悟った。マリアが自分の元にやってきたのだ。海での暮らしを捨てて。

「マリア…足!」

はだしの足には小さな傷がいくつもできていた。随分長い距離をはだしで歩いてきたのだろう。

「入ろう。手当て、しなきゃ。」

耕太はマリアを家に連れた。

「ただいま。母さん、紹介したい人がいるんだ。」

「え?紹介したい人って…あぁ、人魚姫のマリアちゃん?」

顔を見るや否や、耕太の母親の驚きはすぐに消えた。マリアのことは家庭内でも承認済みだったようだ。さすがに最初は人魚なんて物語の中の話だけだ、と、相手にしてもらえなかったらしいが。

「あらあら、足ひどい怪我!ちょっと待っててね。」

耕太の母は家の奥に引っ込んでいったかと思うと、程なくして救急箱と水で湿らせたタオルを持ってきた。

「はい、足出して。」

マリアは促されるままに足を出した。両足を拭く冷たいタオルの感触が足に心地いい。

「はい、次、消毒するからね。ちょっと痛いかもしれないけど、すぐだからね。」

耕太の母はもう何も言わずエタノールを含ませた綿を傷口に当てていく。少し刺さるような痛みをこらえながらマリアは傷の消毒が終わるのを待った。消毒を終えると次に、包帯で足を巻いて終了だ。

「はい、もういいわよ。あがって。」

促されて入ったリビングは窓が広く、濡れたように焦げた茶色の古木でできた柱が開放的なつくりを演出していた。沖縄の家ではよくあるのよ、と、耕太の母は笑った。

「それにしてもホントにきれいよね、マリアちゃん。そうだ、お茶にしなきゃ。」

耕太の母はいそいそと台所にかけていく。コンロの火をつける音が聞こえた。

「そこ、座りなよ。」

耕太に促され、マリアはゆっくりと腰を下ろした。窓からは青い海が見える。ついさっきまで生活の場だった海が別世界のように青く広がっている。あの場所で暮らしていたのが、もう遠い昔のようにすら感じられる。感傷に浸っている間に時間が過ぎたようだ。台所からはお湯を注ぐ音と、紅茶の甘い匂いが広がってきた。

「はい、紅茶、できたわよ。熱いから気をつけてね。」

カップを受け取り、熱いカップに手を少し踊らせながら、こぼさぬように細心の注意を払った。

「ありがとうございます。」

礼を言ったものの、こんな熱いものどうやって飲めばいいのかマリアにはわからない。困ったように視線を耕太にやると、耕太は紅茶に息を吹きかけ、冷まして見せていた。マリアはそれをまねて、思いっきり息を吐いた。少し啜ったが慣れない苦さで戸惑った。視線をリビングテーブルにやると、紅茶用のミルクと角砂糖が目に入った。

「少し入れるとおいしいわよ。」

と、耕太の母に促され、ミルクと角砂糖を紅茶に入れて飲んだ。さっきよりまろやかで飲みやすい。熱いのも忘れて、そのままもう一口飲んだ。

「マリアはミルクティーが好きみたいだね。」

そう言って笑う耕太にマリアは小首を傾げて見せた。大窓から入った風でレースカーテンが緩やかな弧を描きながら揺れた。

 

 そこまで書いて真由はまた、シャープペンシルを下ろした。ふぅ、と息を大きく吐いた。窓の外を眺めれば月とデネブ、ベガ、アルタイルによる夏の大三角が微妙に色合いを変えながら銀色に輝いている。携帯電話を手にした真由は壮太に一通のメールを送った。

 

 明日、おもろまちのいつものショッピングモール2階のトロピカルガーデンで待ってる。13:00ごろまでに来て。

 

 ピッ、送信完了。真由は部屋の電気を落とし、ベッドに横たわった。

 

「これを…書いてたの?」

ほのぼのとした人魚姫マリアの日常に壮太は真由を凝視した。転入した中学校での何気ない日常、人間界の勉強をまったく知らないこともあり、勉強に悪戦苦闘するマリア、耕太の家で交わされる流行の歌手、野球の話。一時退院を許可された壮太に真由はおもろまちのショッピングモールに内接されたトロピカルテイストのガーデンテラスでマンゴージュースを飲みながら原稿を披露した。その内容は高校生ではなかなか書けない代物だった。

「うん。フィッツジェラルドにしようか、エミリー・ブロンテにしようか、何にしようか、少し迷ったけど、書き始めたらもう一直線でこれになったよ。アンデルセンの人魚姫!」

「フィッツジェラルド、ブロンテって…。こんな友達同士の会話で国語の教科書に登場しそうな堅物の名前がぽんぽんと口をつくの、真由くらいだよ。」

しばらくは呆れ半分に笑っていた壮太だったが、程なくして真顔になり、マンゴージュースをテーブルに置くと、真由の顔をじっと見つめた。

「な、何?」

「ねぇ、お願いがあるんだけど。」

「何?」

「山原、今夜、付き合ってくれないかな?体のほうは心配しなくていいから。」

「う、うん…。」

戸惑いもあったけど、できるだけ壮太の願いには応えよう、書き始めた頃から真由はそう決めていた。その日の夜だった。タクシーを一台拾って、山原の樹海近くまで二人でやってきた。蒼い樹海に真由は茶色の上着を脱ぎ捨てる。壮太の目の前には真っ白なワンピース一枚を着ただけの無防備な姿。自ら書き上げてきた人魚姫マリアが初めて陸に上がった時の格好だった。

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