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第9章

 そう、私は人魚姫のマリア。山原の小川で彼のキスを受け入れる。

「真由…!?」

 驚いたように壮太が真由を凝視した。真由は山原の泉と滝をバックに白いワンピース一枚で凛と立っている。月光に青白く照らし出された身体が風になびく黒髪と映えてコントラストをつくりあげていた。神秘的な真由の姿に壮太は言葉を失う。

これが最後かもしれない、壮太への贈り物。壮太の胸の中を泉のように何かが湧き上がる。気づくと壮太は真由の視界を遮り、キスをしていた。壮太の舌が真由の口の中を弄っている。上の歯、下の歯、喉に至るすべてを弄っている。一つに融け合うふたつの身体。時間さえも止まってしまったかのような感覚に二人は落ちていった。その勢いのまま二人は樹海の中の泉に飛び込んだ。息ができないことすら忘れて、キスをしたまま水と戯れる。限りなく透明な青に澄んだ水底にはヤマメが泳いでいる。青を帯びた透明な水のさらさらと落ちて流れていく音だけが二人を包んでいる。真由は水中でキスをしたまま一回転した。息が苦しくなったので、一度キスを離して、山原の空気をぜええと一気に吸い込んだ。泉の底に二人足をつけた。

「壮太?まさか…。」

壮太は真由を抱きしめたまま離さない。首筋に顔をうずめ、真由を抱きしめている。ぎゅっと抱きしめられていて、壮太の熱が身体中に染み渡り、骨の髄まで溶けてしまいそうだ。背中に手を回すと震えているのがわかった。

 声を殺して、泣いていたのだ。

「壮太…。」

呟くことしかできないのがもどかしい。そのまま背筋に手を回したままさらに力を込めて抱きしめる。さっきみたいにもう一度泉の中にもぐったら時が止まるかな?そんなことが脳裏をよぎる。こんな私達を見て、きっと山原の木々も泉も海も泣いているだろう。世界中の涙がこの地に溜まっていくような、そんな気さえ今はしていた。壮太が再びキスをせがんだ。真由がそれに応じると、そのまま押し倒さんばかりの勢いで深いキスをした。わずかに口に伝う涙がしょっぱいような、甘いような、まるで命を噛みしめているかのような、激しいキスだった。濡れた身体に伝う熱と涙、それだけがすべてを物語っていた。真由はこのとき初めて、言葉の限界を知った。今胸の中を満たしているものを言葉で形容するのはとてもできない。ただ、かろうじて言葉にまとめるなら、そこは天国でもあったが、同時に地獄でもあった。天国だと思った途端、地獄に変化(へんげ)し、地獄だと思えば、天国に変化(へんげ)する。一見矛盾しているようだが、いくら文学少女と言えども高校生の真由にそれ以上を求めるのは酷だった。

「真由…。」

「何?」

「…ありがとう。」

礼を言われる理由など、真由にはてんでわからない。ただ、されるがままに頭は真っ白に純化していく。物語を書くことで壮太を救うつもりでいたが、むしろ救われていたのは真由のほうだったかもしれない。

「お礼なんて…。」

「だって、すごく嬉しかった。真由の物語、好きだから…。」

その瞬間、真由の中で何かがはじけて吹き出した。気づくとそれは涙に変わって、頬を一筋、伝っていた。『しあわせな王子』の王子の像みたいに涙を流したまま、真由は固まっていた。時折足に触れるヤマメの冷たいゴムのような感触もこのときばかりは完全に忘れてしまった。そのまま壮太を見れば、壮太が真由の涙をすすっていた。ひとしずく、ひとしずく、味わうように。

 

 どのぐらいの時が経っただろうか。真由と壮太は泉に腰を下ろした。浸るには少し冷たかったが、今はちょうどいいくらいだった。透けた水に壮太のズボンと、真由の白く、細い足が水に揺れて見えた。壮太の手が真由の柔らかく、瑞々しい乳房に触れる。

「女の人、ここに癌ができることがしばしばあるんだって。」

「らしいね。将来は気をつけないとね。」

 乳房を触られることなど、壮太だからか、不思議と嫌だと感じない。抱きしめていたときから気づいていたが、壮太の体は熱が弱く、どこかしわがれていて、まるで老人のようだった。水に濡れているのが老人のような風体を一層引き立てている。こうしている間でも、壮太がもうすぐ逝ってしまうことはひしひしと感じ取れる。

「ねぇ、マリアと耕太は?あの後、どうなったの?」

「あぁ…あの後ね。まだ、書きあがってないんだ。」

 煌々と月が輝く。山原の夜は不気味なくらいに静まり返っていた。真由は重い口を開くと、そのまま壮太にすがりついた。

「真由…?」

 これからつむぐ物語は壮太にはあまりにも残酷すぎる。もうすぐ逝くと言うのに、どうして耕太やマリアにまで同じ悲しみを味あわせてしまったのだろう。書き手として、これほど罪深いことがあろうか。真由は自分のしてきたことにこの時になって迷いを感じた。壮太を救うつもりの物語がこんな顛末になってしまおうとは。真由は自分のふがいなさを呪った。壮太の胸の中は天国でもあったが、やっぱり地獄でもあった。

「ごめんね…。」

 涙の意味こそ壮太には伝わっていなかったと希望的観測を抱き、真由は物語の中のマリアを羨ましく思った。彼女はとても強いのだから…。

 重い口を開いた真由は続きを語り始めた。

 

「耕太!」

10月も終わりに差しかかろうとしていたある日、それは突然起こった。夕食後、耕太がリビングで突然意識を失った。狼狽する両親にマリアの頭は真っ白になっていく。青白い顔の眠ったような耕太の顔がネガのように脳裏に焼きついていく。耕太の顔に触れると、不気味なまでに冷たい。マリアの体温までそっくりそのまま奪われたかのような感覚にとらわれてしまう。救急車で病院に運ばれ、あっという間に救急治療室のドアが無常に閉じられた。ともに食事し、何気ない会話を交わした日々が、陽炎のように揺らめいて溶けて、消えていく。涙さえ流れず、虚ろな瞳は救急治療室の扉を映している。

 

 耕太の意識はついに戻らなかった。

 

 葬式の日、雨が降っていた。マリアの代わりに泣いてくれているかのように。突然すぎる別れに打ちのめされたマリアは喪服のまま、灰色にかすんだ海を眺めていた。雨に濡れて透けていくシャツ。水を吸って重くなったスカート。その場に崩れ落ちてマリアは泣き続けた。涙が海に落ちた瞬間、突然海が金色に輝いた。

 

「なんか、胸が締め付けられるな。」

「そう、だね。」

 手をつないだままの二人は山原から一番近い砂浜に戻って、真っ暗な海をそっと眺める。水平線の彼方で輝く月の明かりが海に反射して輝いている。

「ちゅらね…。」

「うん、ちゅらね…。」

 その直後だった。

 壮太はまた意識を失った。

「た、大変だ!救急車!」

 近くを通りかかったタクシーの運転手が狼狽し、大慌てで携帯電話を取り出していた。保健の授業か何かで聞いたはずの応急処置の方法もきれいに吹き飛んでしまった真由はやっぱり今回も呆然とその場に立ち尽くすしかできなかった。

 静かな沖縄の青い夜には似つかわしくない赤いサイレンがけたたましく闇を切り裂いていく。赤、朱、あか。血の色、激しく、今にも消えそうな、命の色。酸素呼吸器を取り付けられた顔は不気味に青く、今にも溶けて、消えてしまいそうだった。酸素呼吸器で曇った唇が何事かつぶやいた。物語の耕太もこうしてマリアを残し、海へと去っていったのだ。

 声にならなかった叫びは、涙に変わってきりきりとサイレンの音と共鳴していた。

 

「壮太、壮太ぁ!」

 病院の救急搬送口で泣き叫ぶ母親と父親の姿が真由の目に焼きついた。閉じられた搬送ゲートの口は永遠の別れが近いことを物語っているような、絶望的な壁だった。

 病室のロビーで真由は佇んだ。私はもうこれ以上、彼のそばにいられない。いたら、いつまでも生と死の輪舞曲《ロンド》に引きずり込まれてしまう。病院特有の空気は不気味に冥界《グソー》の使者がいるかのような、冷たく、まとわりつくような熱い空気に包まれる。真由の身体に、精神に、魂が、冥界|《グソ−》の使者が、絡み合い、誘う。真由はそれらの誘いを必死になって拒んだ。ここで別れを告げるべきか、否か。真由の頭は激しく惑う。壮太はもう冥界へ、青い海へ旅立つ日が近い。そうだと言うのに、身体も心も必死で別れを拒んでいる。情けなくて、真由は自嘲的な笑みを零した。いつしか止まったはずの涙はまた堰を切って流れ落ちていた。磨き上げられた無機質につややかな床に雫が一粒落ちて、はじけた。一粒、またもう一粒、床にはじける。頬に伝うのが嫌だから、必死で雫を落とす。雫を落とせるだけ落として、真由は病院を後にしようとした。

「待ってください。」

真由はぴくりと足を止めて、踵を返した。

「何ですか?罵りたいのならどうぞ。」

失礼だと知りながらも、真由は自虐的になって見せた。相手がどう思おうが、そんなことにかまう余裕すら、今の真由にはなかった。

「いえ、そうではなくて…。壮太の父親です。仕事ばかりで、あまり顔を合わせることはなかったと思うけど…。あの、今日はお礼を言わせてもらおうと…。」

「私に?」

「はい…。壮太はすごく幸せだったと思います。いつも笑顔であなたの話をしていました。野球を見にいったあの日、意識が戻ってから、野球を見に行ったときの話をしました。保育園で一緒に遊んだこと、一緒に絵本を読んだこと、小学校の遠足で一緒にお弁当を食べたこと、中学、なにげない話をしたこと、学校推薦に輝いたあなたの読書感想文、一緒に高校野球沖縄代表を見て応援したこと、高校時代、学校内で有名になったあなたの小説を読みながら、あなたが遠く感じられていた。そんな中あなたは学校でも人気があったみたいですし。そんな中、あなたが野球に誘ってくれて、その試合に勝てて、ものすごく興奮して楽しかった、と、壮太は言っていました。私達には何一つしてやれなくて…。壮太はあなたの話をするとき、いつも笑顔だったんです。あなたの話をするときの壮太が一番輝いていました。だから、あなたを責めたりはしません。また、壮太に会いに来てください。」

 真由は少し首をひねった。自分は医療従事者ではないし、そのための勉強をしているわけでもないし、これからもするつもりはないだろう。野球をこよなく愛しながら、小説を書いていく。なのに、自分はそんなに輝いていただろうか。真由にはわからなかった。真由にしてみれば壮太こそ太陽だった。いつも子どものように無邪気な笑顔で、何度その顔に再起を誓えたか、指では数えられないくらいだった。いや、太陽のような人なんて、いないのかもしれない。誰だって誰かがいるから輝ける、月のようなものだ。

「一緒にあなたの作品を読んだんですよ。素晴らしく才能があるんですね。」

「ありがとうございます。」

無機質に応えた。

「壮太が言ってたんですよ。将来真由は一流の文豪!って。壮太を思ってくれるなら、これからも書き続けてください。」

お父さんの笑顔もまた無邪気だった。壮太そっくりのその顔。真由は拍子抜けして、笑みが浮かんでしまった。

「小説家は一人じゃ輝けないんですよ。」

真由はいつものように、悪戯っぽく、しかし力なく言って見せた。

「あの後には、続きがあってね…。」

 当然なんの断りもなく海を飛び出し、マリアは人間となって陸地に上がったのだ。マリアにお咎めなしと言うわけにはいくまい。耕太の両親とマリアの目の前に海の主と思われる女神が現れた、海の主にふさわしく、金色のパレオを腰に巻いただけの格好だった。古代の日本人はこんな頭をしていたのだろうか、そんなことを想像させるような不思議な形に髪を結っていた。金色に輝く身体は観音のように神々しく、耕太の両親は跪きたい衝動を必死でこらえていた。

「私は海の主、マナとお呼びください。さて、そなた。」

「マリアです。」

マリアは拗ねた子供みたいに目を吊り上げてみせた。

「ではマリア。そなたは私達に断りもなく、陸に上がり、人魚であることを捨てました。その報いとして、人魚としての能力は失われ、泳ぐことも普通の人間並みが今のそなたには精一杯でしょう。ですが、今だけそなたにチャンスをあげましょう。この小瓶に入った薬を飲めば、そなたは人魚に戻れます。ですが、これまで人間界で培ってきた記憶はすべて消えてしまいます。どうしますか?」

 それは究極の選択だった。迷ったマリアは思わず耕太の両親に顔を向ける。両親は悲しいような、困ったような、複雑そうに顔をしかめていた。マリアはもう一度小瓶を凝視した。30度ほど傾けられた小瓶の中の液体がマリアを誘惑する、魅惑的で、甘美な色。マリアの瞳は小瓶の液体に吸い寄せられ、思わず手が伸びる。

 しかし、あと一寸で小瓶に指先が触れようかと言うところでマリアは手を止め、そのまま下ろした。

「どうしました?」

「ごめんなさい。マナ、私、海には戻りません。」

「え?」

「確かにすべて忘れられたら楽になれるかもしれません。でも、そんなことしたら、耕太は、私が好きになった耕太は消えてしまう…。本当に死んでしまうんです。そんなことさせたくない。だから、海には戻りません。この肉体滅ぶ日まで。」

 マナは何も言わず、小瓶を引っ込めた。青い、マリアの目をもう一度見据えた。マリアの目は力強く、揺るがない意志を感じさせた。マナは一呼吸置いて、瞳を閉じた。

「わかりました。そなたがそこまで言うのなら、私は何も言いません。人間として精一杯生き抜きなさい。そして、いつの日か、再び海に還ってくるのを待っていますよ。」

「ありがとうございます!」

そのときマナの顔が、少し緩んだようにマリアには感じられた。嬉しいとも、寂しいとも取れるような面持ちでマナは海底に消えていった。

「マリア、よかったの?」

マリアはしっかりと頷いた。

「ありがとう、マリア。そうだわ、何かしたいこととかあるかしら?」

「あのね、お母さん、私、野球を見てみたいの。」

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