第7章
海底に吹く、潮の風が心地よい。人魚が次に向かったのは山原近くの浜だった。砂浜にたどり着いた途端、彼女は驚いた。以前から気になっていたあの男の子がそこに立っていた。最初の対面は随分長い間、じっと眺めていた。それだけだった。それどころか、少年と顔がかち合った瞬間海に姿を消していた。今思えば、何をやっていたのか、まったくもって彼女にもわからない。
人間には気づかれたことなど一度もなかったのに、彼は難なく彼女に気がついた。
「もしかして、人魚姫?」
「え、えぇ。」
彼女は戸惑いながらもうなづいた。胸が耳にはっきり聞こえるくらい音を立てて跳ね上がる。気になっていた男の子が、目の前で声をかけてくれている。少し長めの髪は大人っぽさを、坊っちゃん刈りはあどけなさをそれぞれ感じさせる。白いシャツに黒いズボン姿。幼さを残しながらも端整な顔立ちに収められた目が細められる。どうやら人間界で言うところの14、5歳くらいらしい。
「本物見られるなんて、思わなかった。」
「私も、いろんな人間達を見てきたけれど、こんなに気になって仕方なかったのはあなたが初めてだわ。」
そう言って、彼女は笑った。少年も一緒に微笑んだ。これだけのことがこんなに幸せなんて、人魚である彼女は知らなかった。もちろん、海の中も幸せだったけど、彼と一緒にいる時のほうが、もっと幸せだった。
「前も、ここから俺を見てただろ?」
「え、えぇ。」
「こんなところで一人で泳いでいて危ないな、と、思ったら、いなくなってて、気のせいかと思ったよ。でもまさか人魚だったとは、ね。」
人魚は鼻の下の辺りまで水面下に隠した。
どのぐらい時間が経っただろうか。こうして二人見つめあっているだけで、時間があっという間に過ぎ去っていく。次の瞬間彼は驚くべき行動に出た。シャツをむしりとったかと思ったらそのまま海へ飛び込んできた。おぼれては大変だ。人魚はあわてて少年の身体を受け止めた。初めて触れた人間の身体はなんともいえない温かさで、その心地よさに骨の髄まで溶けていきそうだ。一度知ったそのぬくもりは腕に、足に、胸に、首筋に、遠慮なく馴染んでいく。やがて二つの身体は一緒くたに交じり合い、波で一回転する。これほどの悦びが人間の世界にあることを、人魚は初めて知った。沖縄の青い海に豊かな金髪をなびかせながら。白い珊瑚の砂浜をなびいた髪がなでていた。彼はそのままギュッと人魚を抱きしめた。二人、砂浜に寝そべった。二人の身体を波が、太陽が包んでいた。そのまま寝入ってしまったようだ。気づくと海は朱色に染まり、真っ赤に燃えた太陽が海に沈もうとしていた。
「いけない。もう戻らなくては。」
「え…?それは、残念だな。」
少年は残念そうに少しうつむいた。少し寂しそうなその顔に
「ごめんなさい…。」
人魚は謝った。少年は小さくかぶりを振った。そして人魚に尋ねた。
「ねぇ、名前は?」
「え?」
「名前。何って言うの?」
人魚は俯いた。両親は自分を産んですぐ死んだのだ。人間の漁船の鹵獲に遭って。そのため、名前で呼ばれたことなど、今まで一度もない。答えられない。人魚は長い髪に顔を隠してうつむいた。
「もしかして…名前、ないの?」
少年の質問に人魚は髪に表情を隠したままうつむいた。しばし沈黙が流れた。腕に絡まったままの少年の手のぬくもりが今は火傷しそうに痛い。
「じゃあね、名前つけてあげる。君の名前はね、マリア。」
「マリア…?」
人魚はまじまじと少年を見た。黒い瞳は無垢な輝きを放ち、手は腕から肩に回される。
「うん。昔見た聖母マリアの絵に君、そっくりなんだ。だからマリア。」
「マリア…。聖母…マリア?」
「聖母マリアを知らないのかい?聖母マリアはね、キリスト教で尊敬されているキリストのお母さんだよ。」
「お母さん…。」
マリアはほんの少し頬を赤らめて、少女のような笑顔を見せた。
「俺の名前は耕太。耕太だよ。」
「こう…た?」
「うん、耕太。」
耕太はマリアを軽く抱きしめると青いマリアの目を見つめた。
「またどこかで、逢えるといいね。マリア。」
「えぇ。」
マリアは微笑んで、赤く染まった海へと消えていった。耕太はマリアのもぐっていった水平線をじっと眺めていた。髪から海水が雫を作って、珊瑚の砂浜に吸い込まれていった―――。
そこまで書いて、真由は息を一つつき、シャープペンシルを机に置いた。書き上げた原稿用紙を揃えた。窓から見える那覇の街は日が沈みかけ、ビルディングがシルエットになっていて、影絵のようだった。
「真由、帰ったの?ごはんよ?」
母親が真由を呼んでいた。
「はぁい。」
一つ返事して、真由は階段を駆け下りていった。机に置かれたシャープペンシルが少し転がった。
晩御飯はゴーヤチャンプルーにもずく酢、えびや魚の天ぷらだった。いただきます、と、言ってから真由はご飯とチャンプルーを上品に掻きこんだ。緑のタータンチェックのエプロンをつけた母親は真由の顔をのぞくや否や、小首を傾げて尋ねた。那覇市役所で働く父親もいつの間にか帰っていたらしく、オリオンビールを缶のまま啜っていた。真由は箸を動かす手が随分と軽快だった。母には機嫌がいいと映ったようだ。
「どうしたの、真由。随分と機嫌がよさそうね。」
「え?そう?」
「えぇ、随分と元気そう。この間が間だっただけに。何かいいことでもあったの?」
「ん〜、特別いいことがあったかと言われればそうでもないけど。」
「そう…。」
母親は一呼吸置いて、沸かしたばかりのさんぴん茶を一口啜った。箸を動かす真由の手も軽快で、表情も柔らかい。
「なら、いいわ。」
これ以上の詮索は無用と判断したのか、それ以上聞くのをやめた。確かに真由は今、書いている小説がのってきている。しかも今書いているのは特別な一作だから、他の作品とまた気分ものりも違う。真由は食事を終えたらまた続きを書こう、と、心の片隅に留めながら、全国局のニュースにさりげなく耳を傾ければ、新医療制度に関するアンケートだの、民主党の代表戦小沢代表不戦勝など、どんな感想をつければいいのかわからないニュースばかり流れている。いくら上機嫌とはいえ、真由は微妙な顔でテレビのモニターをじっと見つめた。いつの間にか食事を終えていた母親が食器を洗う水音がテレビのニュースに混じり合う。
「ごちそうさま。」
真由は食器を流しにさげ、再び部屋の原稿に向かった。今、病床の壮太にしてあげられることはただ一つ。原稿用紙だけが知っていた。机に向かった真由は再びシャープペンシルを手に取り、原稿用紙の上を滑らせ始めた。




