第15話 三倍返し
三月八日。ホワイトデーまで一週間。
僕はキッチンで製菓本を開いていた。
マカロン。
卵白を泡立てるメレンゲが命の焼き菓子。失敗すれば、ただのぼそぼその塊になる。
初心者にはハードルが高い。
——だけど、僕には味方がいた。
姉だ。
LINEで「マカロンの作り方教えて」と送ると、すぐ返信が来た。
『あんた正気? マカロンて』
『まあいいけど電話して』
そこからはほぼスパルタだった。
材料も道具も細かく指定されて、気づけばスーパーを三軒はしごしていた。
そして——三月十四日。
朝からキッチンに立ちっぱなしだった。
『メレンゲもっと角立てて』
『絞りすぎ』
『焦がしたら終わりだからね』
LINEが止まらない。
オーブンの中で、生地がゆっくり膨らんでいく。
ここまでは順調。
焼き上がり、冷まして、クリームを挟む。
少しだけ割れた。
写真を送る。
『及第点。味で勝負しな』
それだけ返ってきた。
七つのマカロンを箱に詰める。
ピンク、黄色、紫。
白い箱にリボン。
夕方。
玄関の鍵が回る音。
「なんかいい匂いする」
玲が入ってきた。
「はい、これ」
箱を差し出す。
一瞬きょとんとして、それから受け取る。
箱を開けて——
「え、すご」
目を丸くする。
「売り物みたい」
「よかった」
ピンクを一つ、口に入れる。
咀嚼。
沈黙。
それから、もう一口。
「……おいしい。なにこれ」
「マカロン」
「知ってるわ」
すぐに二つ目。
「なんでこんな上手いの」
「頑張ったから」
三つ目に手を伸ばしかけて、止まる。
箱を見つめている。
少し考えて、蓋を閉じた。
「あとで全部食べる」
「うん」
振り返る。
目が少し赤い。
「ありがと」
「喜んでもらえてよかった」
次の瞬間、強く抱きしめられた。
いつもより、ずっと強く。
「キミ、最近すごいね」
頭の上から声が落ちてくる。
「ボクも、なんか頑張んないとな」
「玲も頑張ってるよ」
一瞬、動きが止まる。
「……なにそれ、気持ち悪い」
「ありがとう」
抱きしめる力が、少し強くなる。
夜のリビング。
しばらくそのままだった。
やがて離れて、玲が僕の顔を両手で挟む。
「今日のキミ、ちょっとずるいわ」
顔が近づく。
唇が触れた。
ほんの一瞬。
でも、ちゃんと残る感触だった。
離れると、玲の耳が赤い。
自分からしておいて、照れている。
「風呂入るわ。先に」
「うん」
逃げるようにバスルームへ消えていった。
——一時間後。
風呂上がりの玲が、マカロンを全部食べきった。
「完食」
満足そうに言う。
「寝る?」
「寝かしてくれる?」
「誰が寝かすって言った?」
にやっと笑う。
一歩、距離を詰めてくる。
「さっきの仕返し」
手を掴まれる。
そのまま寝室へ引っ張られた。
ベッドに押し倒される。
上から覗き込まれる。
「今日はボクから」
距離が近い。
息がかかる。
首元に顔を埋められる。
くすぐったい感触。
肩がわずかに跳ねる。
「今日のキミ、ほんとずるかった」
低い声。
指先がゆっくりと服の中に入ってくる。
冷たい感触に、思わず息が漏れた。
「ここ、弱いの知ってる」
「卑怯だな」
「褒め言葉」
楽しそうに笑う。
わざと焦らすように、ゆっくり動く。
「止めるなら今だけど」
「僕が止めてって言ったら止まるの?」
一瞬、手が止まる。
目が合う。
数秒の沈黙。
「……止まんない」
あっさり言い切った。
そのまま、また距離が縮まる。
——部屋の灯りが、少しだけ揺れた。




