第10話 家族と、過去と、それでも
朝。アラームが六時半に鳴り響いた。
うぅん、と唸って布団を頭まで被る。
いつもの光景だ。一限がある日は、起きるのが地獄だと玲はよく言っている。月曜の一限は必修の英語。サボれば単位に響く。
もそっと顔だけ出して、玲が呟く。
「あと五分……」
「単位取れないぞ」
うめき声が返ってきた。
「うぅ……キミだけ行って……」
「玲はどうするんだ?」
「死ぬ……」
「死ぬな」
結局、玲は渋々体を起こした。銀髪はぐしゃぐしゃで、昨日の王子様の面影はどこにもない。
洗面台の前で鏡を見て固まる。
「……やば」
そこからセットに二十分。朝食のトーストは半分残し、慌ただしく家を出た。
玄関でスニーカーを履きながら、玲が振り返る。
「帰ったらご褒美ちょうだい」
「分かった」
駅まで並んで歩き、通勤ラッシュの人波に紛れる。電車の中で玲は僕の肩にもたれかかり、周囲の視線を一身に集めていた。
大学の最寄り駅で降り、正門へ向かう。
——そこで、空気が変わった。
フェンスにもたれていた男が、手を振った。
「よっ、一ノ瀬さん」
昨日の男。田中だった。
玲の表情が一瞬で凍る。
「ブロックひどくない?電話も出ないしさ」
玲は笑顔のまま、声だけを落とした。
「用がないなら行くけど」
「用ならあるよ。——彼氏くんの前じゃ話せないって言ったじゃん」
田中の視線が僕に向く。
「しつこい。玲に関わるな」
僕が言うと、田中は面白そうに目を細めた。
「へえ。じゃあ聞くけどさ、こいつが浮気やめられない性格だって知ってて付き合ってんの?」
玲が一歩前に出る。
「それ以上言ったら許さない」
空気が張り詰める。
しばらくの沈黙の後、田中は肩をすくめた。
「まあいいよ、今日は。ただ——証拠ならいくらでもあるからさ」
スマホを軽く振って見せる。
「気が変わったら連絡してよ、玲くん」
そう言い残して去っていった。
残された空気は重かった。
玲は僕の手首を掴む。
「行くよ」
早足で講義棟に入り、人気のない階段で立ち止まる。
肩が震えていた。
「証拠って——たぶん写真とか動画。あいつ撮ってたから」
玲は淡々と言った。
「ボクの過去がキミを傷つけるなら——」
「僕は大丈夫」
そう言うと、玲は小さく頷いた。
チャイムが鳴る。
「サボる」
「気分転換でもしよっか」
「……うん」
僕たちは裏門から外へ出た。
近くの公園で、カフェオレを飲みながら並んで座る。
「ごめん」
「謝らなくていいよ」
「いつもこう。トラブル持ってくるの、ボクばっかり」
「守りがいがあるよ」
僕が言うと、玲は小さく吹き出した。
「かっこつけすぎ」
少しだけ空気が軽くなる。
やがて玲は空を見上げて言った。
「あいつのこと、ちゃんと対処する。弁護士とか……考える」
「そうだね」
「一人じゃ無理だったけど」
言葉は最後まで続かなかった。でも、分かってしまった。
講義に戻り、いつも通りの時間が流れる。
——その帰り道。
正門で、人だかりができていた。
中心にいたのはスーツ姿の男だった。
玲を見ると、まっすぐ歩いてくる。
「久しぶりだな、玲」
玲の顔が強張る。
「なんでここにいんの」
「親父に頼まれたんだよ」
男は淡々と言った。
「俺はお前の兄だろ」
兄。
その言葉で周囲がざわついた。
男は封筒を差し出す。
「母さんからだ」
「いらない」
「せめて受け取れ」
押し付けるように、玲の鞄に入れた。
「読むか捨てるかはお前が決めろ」
それだけ言って去っていった。
残された玲は、動かなかった。
「最悪」
ぽつりと呟く。
近くのベンチに座り、玲は話し始めた。
「家、厳しくて。全部決められてた」
進路も、服も、友達も。
「女遊びもバレて大揉めして——十八で家出た」
「怖いんだ、あの家」
その言葉は、今までで一番弱かった。
「今は僕がいる」
そう言うと、玲は顔を伏せたまま呟いた。
「ずるいな、キミ」
夕方、家に帰る。
封筒をテーブルに置いて、玲はしばらく動かなかった。
やがて、震える手で封を開ける。
中には写真と手紙。
幼い頃の写真。
家族と笑っている写真。
そして——母の字で書かれた「玲、大好き」。
ぽたり、と雫が落ちた。
玲は声もなく泣いていた。
耐えきれず、僕は抱きしめる。
その瞬間、玲は崩れた。
「ごめんなさい……帰りたい……怖かった……」
言葉がぐちゃぐちゃに溢れる。
やがて落ち着いた頃、玲は小さく笑った。
「顔やばい?」
「ヤバい」
「笑うな……」
でも、その顔はどこか軽くなっていた。
「手紙、まだ読めない」
「ゆっくりでいいよ」
玲はスマホを手に取る。
「……かけていい?」
「いいよ」
兄に電話をかけ、母の番号を受け取る。
そして——もう一度、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
数秒の沈黙。
「——母さん」
その瞬間、玲は泣き出した。
「ずっと待ってた……」
震える声が返ってくる。
しばらく話して、玲は言った。
「今度、会いに行ってもいい?」
「当たり前じゃない!」
電話が切れた後、玲は笑った。
「キミのおかげ」
「そんなことないよ」
頬にキスが落ちる。
「ある」
少しだけ間を置いて、僕は聞いた。
「日曜、一人で行ける?」
玲は固まった。
そして、顔を背けたまま言う。
「……一緒に来て」
「いいの?」
「キミがいないと無理」
「分かった」
玲は小さく息を吐いた。
「あと——母さんに紹介する」
「うん」
それだけで、十分だった。




