青墨
魔法使いの常識社会の非常識、その2
クラーケンは、頭足型の魔物としては最大規模の体躯と魔力を備え、「遠洋の支配者」の異名をもつ伝説級の大海獣である。
古くは海難の象徴、深海の悪魔のように語られた。晩夏の出現時季には、聖女や司教クラスの高位聖職者が港で加護の祈りを捧げる「海嘯祈」が行われているほどだ。
近年は生態の解明も進み、海域によって様々な種別があること、かつて言われていたほど悪意のある存在ではないことなどが明らかになっている。
大きく分けて、タコ型とイカ型が存在する。
タコ型の多くは遠洋の深い淵に隠れ住み、人の手が届く海域にはめったに浮上しない。一生に一度だけ繁殖期を迎え、比較的少数の卵を母クラーケンが長期間抱卵する。長いものでは数年から十数年にわたるという記録もあるほどだ。
孵化を見守る母クラーケンは非常に気が立っており、獰猛である。特に産卵から1週間ほどの個体は手がつけられない。
卵を産みつけた淵のはるか上を、船が1隻通るだけで怒り狂うのだ。古い船乗りの記録に伝えられる、突然船に襲いかかってくる類型などは、この時期の反応が主だったと目されている。
かつての教会暦はこの産卵期をかなり精確に捉えており、海の民の感謝と畏敬の念を集めた。暦があてにならなくなった現在の反応は推して知るべしである。
イカ型のクラーケンは海流に乗り、さまざまな海域を回遊している。一生に一度だけ繁殖期を迎える点はタコ型同様だが、産卵期に群れを伴って近海へ押し寄せ、大量の卵を産むところに明確な違いがある。
豆の莢のように数個ずつの卵が入った卵嚢を多数放出するため、群れの訪れとともに、その海域は一斉に休港の準備に入る。ふた月もせず生まれる大量の子クラーケンたちにより、一時的にその一帯からめぼしい海産物が消失するからだ。卵から孵ったばかりの幼体の食欲は凄まじい。
ただ──良くしたもので、交接を終えた雄クラーケン、産卵を終えた雌クラーケンともに、ほどなく死を迎えることが知られている。近場の港に打ち上げられるにしろ、浅瀬の底でひっそりと息絶えるにしろ、その巨体は充分すぎるほど、辺りの海を潤す。
親たちの死により増えた魚を、卵から孵った子らが食べ尽くすことで、結果的には資源の総量が保たれる──奇妙な調和が成立しているというのが実情である。たっぷりと餌を食べ、立派なコウイカの成体程度のサイズに育った子クラーケンたちは、思い思いにまた広い海へと出ていく。
陸の者にできることは、巨大海獣たちの生命の営みを、せいぜい祈りとともにやり過ごすぐらいのものである。
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「あ、そういう」
「打ち上げられた親からインクを獲るのか。ふむ、たくましいというかなんというか……」
褐色の重たいテクスチャを慎重な手つきでかき混ぜるアンドリースの手元を、グステンが興味津々といった顔で覗き込んでいる。「褐色の方はそうですね」と言いかけて、コーネリアスはふと、遠巻きながら耳をそばだてる傍観者に囲まれていることに気がついた。
誰も彼もどことなく見憶えがある、酔狂な店に通う酔狂な常連客たちである。自分もそうだからよく分かるけれど、数寄者はこういった話が大好きだ。
ただでさえ小さな店に5人で押しかけているのだ。そこに3、4人の見物人が加わったらもう、大盛況といっていい有様だろう。店主のイェレからして、客と陽気におしゃべりするような性分ではないけれど──インクとペンを極めた店の買付もおこなう立場として、琴線に触れるものがあったようだ。筆房のような髭を指でしごきながら、「ほぉーん」と感嘆の声を洩らしている。
「コウイカからもインクは獲れるからな。似たようなモンだと思って気にしたこともなかったが、そうやって聞くとレア素材になるわけよな」
「クラーケンは長生きだから、毎年産卵するわけじゃないんだ。といっても3年に1回くらいは、どこかの群れが産卵期を迎えるみたいだけど。イカ型の卵床になる海域は潮の流れに左右されるから、北側にいる時に抱卵して、タコ型の遠洋産卵とかぶると最悪の海難に」
「激甚災害だ……」
「真顔になる話すんのやめてくれる?」
教会の者──特に海嘯祈に直接携わることのある聖魔法使いのアンドリースにものすごく嫌そうな顔をされてしまった。興味のある話になると、調子に乗ってしゃべりすぎるのがオタクの悪い癖だ。
「こっちの青墨インクは、子クラーケンの墨だって聞いた」
孫娘のネーレが、真鍮の小瓶を開けて見せながらぽつりと付け足した。かなり前にさわりだけ話した時のことなのに、よく憶えているものだ。さすが後継者──と感心しながらコーネリアスも頷く。
「よく憶えてるな、ネーレ。──タコ型は幼体を守って子育てするから、間違えて獲ると親が怒って大変なことになる。ただちにリリースすること、万一弱っていたら治療することが遠洋では義務づけられています。イカ型は逆に産卵後すぐ親が死ぬので、報復にも来ないから」
「え、獲っちゃうの?」
「大量に獲るのは禁止だね。ただ、幼体は普通のイカと区別がつかないから、狙ってなくても網にかかることはある。イカと違って魔力があるから食べられないんだけど、たまたま獲れる分くらいは墨を採取することが認められています」
話しながらコーネリアスは、真鍮壜の蓋を開け、さらさらの水に近い青墨インクを軽く混ぜて見せた。
粘性の低い、軽いテクスチャの媒体を吸音性の高い真鍮の器に容れることで、高音域の音に共振させるというのが空綴のメカニズムだ。低音域のテクスチャがもったりとした褐色インクであるのも、厚い陶器の器を必要とするのも対となる性質によるものである。
一拍おいて、拍手が起こった。
え?
青墨/相葉不透明
海嘯祈の暦とのずれに対する不満
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