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灰雁亭




「へええ」


 あまり感情を顕にしない安定した人が、珍しく歓声といっていい声をあげた。

 「灰雁亭」の店構えを初めて目にしたグステンの顔は──面立ちはそんなに似ていないのに──「錨」のゴブレット照明を目を丸くして見上げていた、あのときのハリエットによく似ていたと思う。



   ⚸



 ビネンホフは、北東に広がる門前広場と宿場街、北西に伸びた書籍街の二つの街に鈎状に囲まれている。南東と南西にはそれぞれ市場広場と工房街・資材通りが自然発生的に形成されていった形だ。

 日用品や食料を扱う市場広場より、書籍街の方が広い面積を占めているところも特色のひとつである。書籍街と銘打ってはいるものの、筆記具から製図用品・顔料・公文書雛形の類まで、およそこの街ならではの品揃えの店が甍を並べる不思議な空間だ。

 その書籍街の端の端、宿場街との境目に建っているのが、「灰雁亭」である。


 大衆向けの羽根ペンには、家畜化した灰色雁の羽根が多く使われる。灰雁亭の屋号は、その灰色雁を描いた味も素っ気もない釣り看板に由来するそうだ。

 しじゅう半開きになっている木戸を潜ると、足元から天井近くまで、3面を覆う背の高い棚の圧倒的な情報量に直面する。

 向かって左手には大小の壺、瓶、広口容器、木箱に至るまで、さまざまな規格の量り売りインクが所狭しと並べられていた。正面には瓶詰めや壺売りに混じって、小引き出しが覗いているところをみると、いまだに粉末インクの小売もやっているのだろう。

 手前の作業台と右手奥はペンの領域だった。灰色雁──ガチョウの羽根はもちろん、白鳥や小型の水鳥の羽根もちらほら垣間見える。完成品だけでなく、束ねた原毛や加工途中のものも吊り下がっていることから、販売のみならず調整や仕立てもおこなっていることがうががえた。

 手前の作業台には美しい鷲の風切羽が贅沢に飾られ、試供品のインクやペン先の細工道具の隙間に、試し書きの紙が広げられている。



挿絵(By みてみん)



「これは凄いね。眼福だ」

「確かに。壮観ですね」


 ランタンの傍にぶら下がった没食子の束を見上げて、グステンが無邪気にはしゃいだ。アンドリースも感心したような顔で、珍しく素直に細長い店の中を見回している。

 勉強ごとはあまり得意でないという馬子は、酸っぱいものでも食ったような顔で、一歩下がって楽しそうな主人たちを遠巻きに眺めているようだった。


「こんなに騒いでても、店の者が誰も出てきませんな」

「いるよ。ここにずっと」


 護衛の兵士がしごく常識的な疑問を口にするのと、インク棚の下段から(しわが)れた老人の声があがるのとは、ほとんどまばたきひとつほどの差だった。うわァ──と、腹の底から声を上げて、気のいい兵士はゼンマイ仕掛けの人形みたいに飛び退(すさ)る。

 声は──棚の真ん中が壁龕のように引っ込んだ、洞としか言いようのない暗がりの中から聞こえた。一拍おいて、小柄な老爺が()()()と億劫そうに顔を出す。

 愛想は決して良くないが、さりとて偏屈というほど刺々しくもない、もの静かな老人だった。枯れ木のように痩せて、姿勢が悪い。全体的に色味が薄いのか、ランタンの山吹色の光を受けて、ほとんど保護色のように背景に溶け込んでいる。

 これでは元の色がわからない。


「イェレさん」


 イナゴのような動きで後ずさった兵の後ろから、コーネリアスが店主の名を呼んだ。

 北海沿岸、聖女領を要するクロアジア語圏で主に使われている独特の響きの名前だった。何年か前まで、ヘーゼの奨学制度で生真面目に学んでいた青年のことを、教会領の者たちは思い出している。

 少年の呼びかけに、店主は引き続き気だるい動きでゆるりと声のした方に向き直った。


「なんだい、魔法使いのぼうずじゃないか。ああ、クラーケンのインクなら2色とも入ってるよ。(ネーレ)に出して来させようか」

「本当?」


 ──そんなカジュアルに出てきていいのか!?


 まるでしまってあったお下がりでも出してくるような軽い口調で、海洋における最悪の脅威の名が飛び交う。「もう少し勿体つけてもいいんじゃないか?」と思わず洩らしたグステンの独り言に、他の3人は無言で頷いた。


「あー、その、僕は魔法使いとしてはインクにこだわりがないほうで……」


 浮き足立っている教会勢の雰囲気に気づいたらしく、なんだかばつが悪そうに皆を見上げたコーネリアスは、亀みたいに小さく首をすくめてみせた。

 平々凡々な魔力量に生まれつき、大がかりな術を使わない職人階級の魔法使いが、インクの種別で苦労することはほぼない。普段使いのインクならこの街のどこでも買えるため──こんな書籍街の端までやってくる用事は、そんじょそこらの文具屋では見つからない逸品を探す時だけなのだ。


「ネーレ。ネーレや。魔法使いのお客さんだ。ちょっと奥からあれ持ってきておくれ。クラーケン2色」


 はあい──と、控えめな声が通路の向こうから響く。

 程なくして、祖父と同じように元の色が分からないほど淡い輪郭の娘がトレイに乗せて運んできたのが──。

 真鍮と陶器の小壜に所定の量が込められた、〝空綴〟のためのインクのセットだった。








https://ncode.syosetu.com/n7462km/124/


聖女領の奨学生

https://ncode.syosetu.com/n7462km/138/

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