6. 自己嫌悪
(……痛い)
アドレナリンが多量に分泌されると、人は痛みを感じる感覚がマヒするらしい。
だから例えば車にはねられても、軽度であればその場ですぐに起き上がって、相手方と普通にやりとりできたりする。しかし落ち着いた頃になって、思い出したかのように急激に痛みが襲ってきたりするのだそうだ。
先ほどまでの天音も、恐らくは慣れない怒りを華奢な身体に満ち溢れさせたことにより、アドレナリンが分泌されていたのだろう。
旧校舎を飛び出し、校門を飛び出し、ほぼノンストップでずかずかと駅までやってきた天音は、電車を待つ時間になって急激に身体のあちこちが痛み出したことに苦しんでいた。
まずは両手が痛い。さっきまでバンバンと机を叩いていたからだ。
あとは喉も痛い。こんなに叫んだのは初めてだからだ。今日の天音は人と喋りすぎた。中学時代の無口を貫いていた頃の数か月分にもわたる台詞量を今日だけで発した気がする。
和沙の前で笑顔を貫いていた表情筋も、ここまで早歩きを続けてきた足も、ばくばくと脈打つ心臓も全部痛い。
けれど、一番痛いのは自分の心だった。
(……何やってんだろ、私……)
自分が悪いとは思っていない。悪いのは全部夏希だ。
勝手に受験先を天音の父親から聞き出して、ドッキリ気味にいきなり押しかけてきて、天音が守り通すはずだった秘密をクラスみんなの前で打ち明けて。
天音がどんな思いで今日まで過ごしてきたか何も知らないくせに、お笑いコンビを組みたいだなんて、はるか昔に交わした約束を持ち出してきて、どこまでも強引に話を進めて。
これで怒らないやつがいるわけがない。誰だって天音の立場になれば天音と同じようにキレてしまうはずだ。
けれど天音の脳裏には、目を見開いて動揺する夏希の顔と、泣きそうにしている絵美の顔が焼き付いてしまっていた。
仕方ないことだったとはいえ、ずっと楽しそうにしていた二人の空気をぶち壊してしまったことへの罪悪感はどうしても湧いてくる。
自己嫌悪に苛まれて痛む胸のせいで、未だに満足に息も整わない。
天音はぶんぶんと首を振って、やっと目の前にやってきた帰宅のための電車に乗り込んだ。
天音が乗り換える駅はだいぶ先にあるため、本当は区間急行や快速に乗った方が早く着く。しかし天音の疲労はとうに限界に達しており、帰宅ラッシュの時間ということもあって速い電車は人でごったがえしていそうなので、目の前にやってきた各駅停車に乗ることにした。
幸い席は少しだけ空いていて、天音はそこに自分の細身な身体をストン落ち着けた。
今日は本当に、いろんなことがあった。
入学からの一週間を風邪で棒に振った天音の初登校日。
昼休みに襲来してきた夏希と絵美のせいで、結局授業が受けられたのも半日だけ。
お世話になった和沙にも失礼な別れ方をしてしまったし、そしてこれから仲良くなっていくはずだったクラスメイトには、自分が秋本イサオの娘であることがバレてしまった。
もう、何もかもが終わったのだ。
いや……正確には〝終わっていた〟というべきか。
夏希が自分との接触を目的にこの学校へ入学した時点で、遅かれ早かれ天音の正体は白日の下に晒されていたはずだ。
現に夏希は入学してからの一週間足らずでもう絵美に自分の正体を打ち明けて仲良くなっている。そして夏希は芸人になることを夢見ており、天音と違って自分が芸人の娘であることを隠そうともしていない。
たとえ天音が風邪を引かずに入学式へ行けていて、夏希の姿をいの一番に見つけて即座に箝口令を敷いたとしても、あのパワフル極まりない夏希たちがいつまでも大人しくしてくれているとは思えないし、やはり時間の問題だったと思う。
普通の女子高生ライフなんて、最初から幻想だったのだ。
(なんでなの……夏希……?)
膝上に乗せたセカンドバッグを抱きしめ、背中を丸めて顔ごと突っ伏す。
楢崎夏希。
父の相方の娘。
天音は正直、あの引っ込み思案だった夏希が、大きくなってどんな子になっているのか、ずっと気になっていた。
気になっていたというか、心のどこかで、「どうせ自分と同じ陰キャになっている」ものだと思い込んでいた。
それほどにまで幼いころの夏希は奥手で人見知りで、その気質がそう簡単に変わることはないと思っていたからだ。
久しぶりに再会した夏希は、天音の想像とまるで違っていた。
見るからに陽キャ。明るくて可愛くて、気さくで話しかけやすくて、きっとどんな環境に置かれてもその中で人気者になれるタイプ。
仮にクラス内で一軍グループを決める戦いのようなものが起こったとしたら、夏希を引き入れている方が勝つのだろう。
夏希はたぶんそんな戦いのことなんて意にも介さずに自分の楽しいことだけを追い求めていて、その純粋な真っすぐさが、みんなを惹きつけるから。
あんな子なら、なれるのかもしれない。芸人に。
あんな子になれているのなら、そんな夢を見ていたっていいのかもしれない。
(っ……)
ゴトゴトと揺れる電車の中、天音はぎりっと奥歯をかみしめた。
どうして?
どうして夏希は、そんな子になれているの?
つらかったんじゃないの?
親が芸人だからって、色んな人にイジられて、バカにされて。
耐えられなかったんじゃないの?
どこにいっても自分のことをまともに見てくれる人なんていなくて。
〝芸人になりたい〟だなんて……私たちにとっては、この世で最もありえない選択なんじゃないの?
暮れゆく部室の中、恥ずかしそうに小指を突き出してきた先ほどの夏希の姿を思い返す。
そして天音は、ハッと気づいた。
自分の中の嫌な部分に。
それは、夏希に対する嫉妬。
自分よりも内気で引っ込み思案で、挨拶さえも恥ずかしがってまともにできなかった、幼いころの夏希の印象が未だに貼りついているから。
「自分がこの子を支えてあげなければいけないんだ」という庇護欲に掻き立てられ、「面倒見役」としてずっと夏希の手を引っ張っていたあの頃の役目・ポジションは、ずっと変わらないものだと思い込んでいたから。
夏希はいつまでも「あま姉、あま姉」と不安そうに名前を呼びながら、自分の後ろをオドオドしながら付いてきてくれるものだと思っていたら。
そんな夏希が、自分とは正反対の明るい子になってしまっていることが……たまらなく受け入れがたかったのだ。
ぼすんと顔をうずめたセカンドバッグに、また涙がぽたりと染み落ちる。
虚しさや悔しさ、無力感。
様々な負の感情が頭をもたげて、前を向く気力もわかなかった。
*
天音が家に帰ってくると、ぱたぱたとスリッパを鳴らしながら早苗が玄関に飛んできて、天音の胸に嫌な予感が走った。
「ちょっとちょっと、どういうこと!? 夏希ちゃんから連絡あったわよ?」
「……え」
「なんかすごい思い詰めてて、ずーっと謝ってて……どうしても天音に会わなきゃいけないから、今から来るって言ってたけど」
「えぇ……」
各駅停車に乗ったせいか、一時間以上かけてやっとこさ帰宅した天音は、早苗の言葉を受けて「そう来るか」とかっくりうなだれた。
少なくとも明日登校した際にでも再びの接触を図ってくるのではないかと思っていたが、もっと早かった。
電話がいつ頃かかってきたのかはわからないけれど、ほどなくして追いついてくるのだろう。夏希がこの家に来たことはまだ一度もないはずだから、住所から辿る時間も考えればもう少し遅い時間になるかもしれないが。
「どうして急に夏希ちゃんが……天音、何かあったの?」
「……あった」
天音は最低限の言葉だけをぽつりとこぼしながら、自分の部屋へと逃げ込む。
放っておいてほしい、というオーラを背中から発していたつもりだったのだが、早苗はそんなことまったく気に留める様子もなく天音の背後にぱたぱたとくっつき、天音の部屋に入り込んでベッドのへりにちょこんと腰掛けた。
その目は心配半分、好奇心半分といったところだ。天音と夏希、半ば疎遠になっていた二人が思わぬ接触を果たしていたことに興味が尽きないのだろう。早苗は昔からこういう性格だ。
ため息をつきながら、どこから話せばいいものかと髪をくしゃくしゃ掻く天音。
今日あった事情のすべてをイチから事細かに説明することなんてできそうにない。まだまだ自分の中で整理もついていない。
とりあえず、変えられない事実として残ってしまった、夏希が天音と同じ学校に入学してきたという部分だけ説明することにした。
小学校に上がる前、楢崎家と秋本家で行ったお花見。
その桜の木の下で交わした、「いつかお笑いコンビを組んでお父さんたちを超えよう」という幼稚な約束。
それを叶える日を夢見て、夏希は天音の受験先をイサオからこっそり聞き出し、同じ高校に入学してきた。
今日やっと学校に行けたと思ったら、いきなり突撃してきた夏希にサプライズでそれを報告され、とにかくケンカみたいになってしまったのだ。
早苗は天音が父親の仕事のせいでつらい思いをしてきたことを知っている。
学校から帰ってきて突然泣き出す天音を慰めることもあったし、不登校になりかける天音を支えたこともあった。
友達を作ろうとしない事情も、高校こそは知り合いのいないところに行きたいと願ったことも、全部理解したうえで天音のサポートに徹してきた。
早苗が今の夏希の性格についてどれほど把握しているかは知らないけれど、夏希が突然押し付けてきた夢とやらが、天音の性格的に到底相容れないものであり、ケンカが避けられないものであったことくらいは察してくれるだろう。
一通りの事情を天音が説明し終わると、早苗は頬に手を当てて「んー」と悩み始めた。
「……で、どうするの?」
「なにが?」
「夏希ちゃんうちに来るって言ってたけど。仲直りできそう?」
「はぁ……? 聞いてたでしょ今の話っ、仲直りなんかできそうにないの! だから断ってよ!」
「えぇ~」
「えーじゃない!」
天音と夏希が疎遠になってしまったこと、それを早苗が憂いていたのは天音も日ごろから感じていた。どうにかして仲直りしてほしいと思っているのだろう。
せっかくコンビ同士で同い年の子が生まれたのだから、仲良くしてくれるのが一番嬉しいと幼いころからよく言い聞かされていたものだ。
天音が夏希のことをリードしてあげなければいけないという使命感に駆られていたのも、そんな早苗の言葉が大きかった。
早苗は夏希のことまで実の娘のように思っていたし、同じように楢崎家のお母さん……楢崎秋穂が天音の面倒を娘のように見てくれることも、昔はよくあった。
天音がお笑いのことや親の仕事について嫌うようになり、楢崎家との集まりを敬遠するようになってからも、秋穂から聞いた夏希の情報をちょこちょこと聞かせてくれていた。
いつかはまた昔みたいに仲良くなってほしい……早苗はそう思っていたのかもしれないが、時代は進んで天音も夏希も大きくなり、もうお互いに相容れない考えを持つようになってしまった。
もうあの頃とは違う。きっと今の天音と夏希はわかりあえない。だから会ってもきっと無駄なのだ。
謝られたところで……過ぎたことはもう何も変わらないのだから。
「そんなに会いたくないの……あんなに夏希ちゃんのこと好きだったのにねぇ」
「……」
「お母さんは、仲良くしてほしいんだけどな~」
早苗はいつの間にか持っていた、幼いころに撮った天音と夏希のツーショットが入った写真立てを眺めて、残念そうにゆらゆらと身体を揺らしていた。
この家のリビングにいつも置いてあるやつだ。天音はここ数年はまともに視界に入れないようにしていた。
久しぶりにその写真を見て、天音の脳裏に幼いころの記憶が少しだけ甦る。
いつだって自分は夏希に会うのが好きだった。
なんでもない日でも会いたがって、一度楢崎家に遊びに行けばそのままお泊りしていきたいと言い、よく親を困らせていたものだ。
天音が楢崎家との集まりに行きたがらなくなった原因。
それは小学校のみんなに父親のことが原因でからかわれるようになり、傷つくことを恐れるようになり、お笑いに関するすべてから距離を置きたくなってしまったから。
けれど、本当のところはきっと〝そこ〟じゃない。
本当は……夏希に会うのが怖かったのだ。
元気で明るくて、夏希を引っ張っていく存在だと自覚していた自分が、お笑いのせいで心を閉ざしてしまって、夏希にも負けないくらいの引っ込み思案になってしまって……そんな現状を夏希に知られるのが嫌だったのだ。
人が変わったように明るくなっていた今の夏希を見て、天音はそれに気づかされた。
自分がもしもあんな風になれていたら……今も夏希と、変わらずに会い続けていられたのだろうか。
「天音の気持ちは、ちゃんと夏希ちゃんに伝えたの?」
「気持ちって……」
「お笑いをやるのは嫌なんでしょ? 芸人なんて、天音がなりたくない職業ランキングのぶっちぎりナンバーワンだもんねぇ」
「……」
「そうしたら、ちゃんとそう言えばいいじゃない。お笑いはやりたくありませんって。そうしたら夏希ちゃんだって、天音に無理なことは言わないと思うよ?」
放課後の旧校舎、あの部室の中で天音が激昂して言い放ったこと。
天音自身も半ば錯乱状態だったため、正直細かいところまでは忘れかけてしまっていたが、お笑いのせいでつらい思いをし続けてきたこと、そして「お笑いなんて死んでもやらない」とは確かに言った。
どれもこれも、夏希には秘密にしておきたかったこと……夏希と会うのが気まずくなってしまった原因だ。
夏希はもう天音が、昔のように手を引っ張って先導するような前向きで明るいタイプではないことも知ってしまっただろう。
自分は見るからに無口な陰キャで、人前に出て何かをするとか、そういうタイプからは程遠い。それは見た目からも滲み出ているはずだ。
隠したかったことはもう、すべてバレてしまったのだ。
「お母さんも夏希ちゃんとはしばらく会ってないんだけどねぇ、さっきの声聞いただけでもすっごい気持ち伝わってきちゃったなー」
「……」
「夏希ちゃんは今も天音のこと、大切に想ってくれてると思うよ?」
「……っ」
写真立てのフレームを指でつつっとなぞりながら、目を閉じて何かを思い出すように早苗は話した。
――夏希ちゃんのママ……秋穂さんはね、小さい頃の夏希ちゃんが引っ込み思案だったことをずっと気にしててね。
でも「天音ちゃんと一緒にいるときだけは笑顔がいっぱい見られた」って、嬉しそうにに言ってくれたのよ。
秋穂さんはしっかり者でいい人だから、夏希ちゃんもきっと良い子に育ってるんだろうなーって、お母さんずっと思ってた。
――夏希ちゃんなら天音のこと、わかってくれると思うよ。この世で一番天音に近い身の上の子なんだもの。
天音しか知らない苦労にも、きっと寄り添ってくれるんじゃないかな。
「ちゃんとお話ししてみないとわからないこと、いっぱいあると思うよ? もう何年も会ってなかったんだから」
「うん……」
「大丈夫。夏希ちゃんは今も、夏希ちゃんのままだと思う。さっきの電話の声、本当に真剣だったもの」
写真立てを両手で包むように持ち、ゆっくりと部屋を出ていく早苗。
「ほらほら、お部屋片しといたら?」
天音はそう言われ、とりあえずベッドの枕元にいた「元・ともちゃん」であるイヌのぬいぐるみを抱き上げたものの、片付けるでもなく胸に抱えたまま、ベッドに横になって物思いにふけった。
本当は夏希宛てに断りの連絡を入れてほしかったところだったが、なんだかんだで早苗に説得されて丸め込まれてしまった。
もう少ししたら、この家に夏希が来てしまう。
きっと謝罪に来るということなのだろうが、天音も天音で、夏希に対して謝りたいような気持ちが湧いてきていた。
帰宅の電車内で胸に渦巻き続けた自己嫌悪のもやもやは、まだ消えていない。しっかりと面と向かって謝罪しなければ、どうにも消えてくれそうになかった。
早苗の言葉を思い返す。
――夏希は、夏希。
この世で一番天音に近い立場にあって、天音の苦労をきっと一番わかってくれている子。
あんな、自分なんかに比べたら眩しすぎるようなキラキラした子になっちゃったみたいだけど。
あの頃と変わらない、天音の「一番のともだち」だったころの部分も、ちゃんと残ってくれているのかもしれない。




