5. 桜の下で交わした約束
学年ごとの教室が並ぶ校舎とは少し離れた位置に建っている、やや古びた造りの旧校舎。
その三階にある一室に、お嬢様が呼び寄せた謎のSP軍団によって手際よく担ぎ込まれた天音は、椅子に座らされながらまさに茫然自失としていた。
「ふぅ~、ここなら邪魔は入りませんね」
「いやー、エイミーのとこのSPさんは相変わらず凄いね!」
「ええ、皆様とても優秀な方たちなのです」
サングラスを机に置きながら制服を整えるお嬢様と、SPたちが去っていった方を眺めながらあっけからんと笑っている夏希。
我を取り戻した天音は、一体何のつもりなのかと二人の方を睨みつけた。
「な、なんなの! こんなところに連れてきて! ってかここどこ!?」
「ここは旧校舎にあるお笑い同好会の部室です。これからのわたくしたちの拠点となるお部屋になります」
「おわっ……な、なに、同好会!? 拠点!?」
「本当はウチら以外にも先輩が一人いるんだけど、今日はバイトって言ってたから来られないみたい。せっかくあま姉が来てくれたのにね~」
「いや来てくれたって……そっちが勝手に連れてきたんでしょうが!」
「おっ、ツッコんでくれた!」
「まぁ! さすがですわ天音様!」
両手を合わせて嬉しそうにしているお嬢様。天音は早くも確信した。この二人のペースに乗せられていると話が前に進みそうにない。
まずは大人しそうな顔して強引極まりないこのお嬢様のことを知らなければ。向こうはこっちを知っている様子なのに、こっちはまるでその正体が掴めていないのだ。
「えーと……夏希のことは一旦置いとくとして、あなたは何者なの?」
「わっ、わたくしですか!?」
「アンタだよ! アンタ以外いない!」
「そういえば、まだ自己紹介をしておりませんでした~……これは失礼をば」
お嬢様はこほんと咳ばらいをひとつすると、制服のスカートのすそをつまんで膝を曲げ、「改めまして」とにっこり微笑む。
「雛野女子高校、一年二組、可愛川絵美と申します。なっちゃん……ええと、夏希様からはエイミーと呼ばれておりますので、天音様もどうぞお好きな呼び方を」
「エイミーは超お嬢様なんだよ!」
「それはもうわかったって……SPがついてるって、どんだけなの」
売れっ子芸人の娘ということもあり、天音も一般的に見れば都内の一等地に住むお嬢様と扱われる方なのかもしれないが、本物のお嬢様に会うのはこれが初めてだ。専属SPが付いているだなんて、さすがに現実離れしていると思わざるを得ないが。
「ええと、えのかわ……さんは」
「エイミーでいいのに」
「夏希は静かにしてて! えと……え、エイミーは……夏希とは昔からの知り合いなの?」
ちょこちょこ口を挟んでくる夏希の口にぴっと人差し指を当てて黙らせる。
エイミーこと絵美は、天音にあだ名で呼ばれたことが嬉しかったのか、ただでさえゆるふわな顔をほわぁ……とほころばせて感慨に浸っていたが、天音の視線に気づいてこほんと我に返る。
「わたくしと夏希様……いえ、なっちゃんは、まだ知り合って一週間程度ですよ。入学式の当日まで、まさかあのトマトメイト楢崎さんのお子様が同じ学校に入学しているだなんて夢にも思いませんでしたから。しかも聞けば天音様まで同じだったなんて……! ああ、わたくしは本当にどれほど幸運なのでしょう……!」
「い、一週間!? 一週間でもうこんなに仲いいの!?」
「あ、仲良く見える?」
「当たり前でしょ! 同じ中学から来たとかじゃないの!?」
「ぜーんぜん! でもエイミーはウチらのこと昔から知ってたみたいよ?」
「……え?」
「いえいえっ、知っていたと言っても名前だけですよ!? 十年以上前のトマトメイトのラジオを聞き返せばわかるのですが、子育て中のエピソードとしてお二人の名前はたまーに出てきていましたのでっ。お二人のことを調べ上げて志望校を突き止めたとか、決してそういうのではありませんからね!?」
「あははっ。こんな感じで、めちゃめちゃファンなんだってさ。お父さんたちの」
あらぬ疑いをかけられそうになって突然焦り始める絵美。いくら強引な手段をとるお嬢様だからといって、受験先の狙い撃ちなんて不可能だというのは考えればわかることだ。
そもそも天音だって、まさか夏希が自分と同じこの学校を受けていただなんて、今日の今日まで知らなかったのだから。
手を頬にさすさすと当てて落ち着きを取り戻そうとする絵美。焦りの中に少しだけお嬢様の化けの皮が剝がれたような一面が垣間見えた気がした。
十年前のラジオがどうとかまで言い出すレベルの人は初めてだが、トマトメイトのファンだという人やお笑いマニアが噂を聞きつけて自分に話しかけにきてくれることは、天音自身も幾度か経験していた。
どれだけ熱量を持って話しかけて来てくれたとしても、天音は親が出ている番組などは視界に入れないようにしているし、すでに心を閉ざし切っている時期だったから、相手に申し訳のない思いをさせることがほとんどだったのだが。
(ん……?)
ちょっと待て。受験先の狙い撃ち?
話題に出たことで天音はやっと思い出した。自分が今一番知りたかったのはまさにそれだった。
「そ、そうだよ志望校スナイプ! アンタどうやったの!?」
「えっ、今度はウチ!?」
「エイミーのことは大体わかったから。いや本当は聞きたいことまだあるけど……でもそんなことよりアンタだよ! なんで私と同じ高校受けてるわけ!? 偶然じゃないんでしょ!?」
「うっ、うーん……」
どうして夏希が、この天音と同じ雛野女子高校にいるのか。目下一番の疑問はそれだった。
天音はこれまで自分の受験先はトップシークレットとして、家族以外の誰にも伝えてこなかった。ここで自分と同じ出身中学の人が入ってきてしまっては計画が水の泡なのである。
いくつか候補があるうち、他に誰も受験先として志望していないことを教師にも確認してから、天音はこの学校への受験を最終的に選択したのだ。
それを、どうして十年近くも会っていなかった夏希が知っているのか。
「なっちゃん、ここはハッキリと言ってしまいましょう?」
「そうだよね……うーしっ!」
夏希は天音の剣幕に少々気圧されていたが、絵美に真剣な眼差しでそう言われると、小さく覚悟を決めるようにパンっと膝を打って立ち上がった。
「じゃあ言っちゃおっかなっ! ウチがなんであま姉と同じこの学校を受けたのか!」
自分の胸を親指でトンと差しながら、部室の外にいる生徒にまで聞こえてしまうのではないかというほどの大きな声で、夏希は語り始めた。
やや芝居くさいような不自然さを感じるが、その頬は恥ずかしそうに紅潮している。差し込む夕陽のせいではないはずだ。
同じ学校を受けた手段ではなく、まず先にその理由の方を語ろうとしているようで、確かに聞きたいのはそっちだったと天音もごくりと唾を飲み込みつつ、一体何を言われるのだろうと身構える。
「それは……ウチとあま姉が思い描いていたあの時の夢を、本当に現実にしたいと思ったから!」
「……は?」
「あま姉、まさか忘れてないよね? あのお花見の日、桜の下で一緒に指切りしたときのこと!」
まったく何を言っているのかがわからず、思考停止状態に陥っている天音。その顔に向かって、小指をつんと突き出す夏希。
その瞬間、ざざっとチャンネルをザッピングするかのように、天音の視界に過去のビジョンがよぎった。
桜を見る度に思い出す、あのお花見の日のこと。
心地よい風が花びらを運ぶ、満開の桜の下。
そこにはあの子がいて、私がいて。
――そうだ。何か、約束したんだ。
「ほら、言ってくれたじゃん! 一緒にお笑い芸人になってコンビを組んで、お父さんたちを超えようって!」
「っ!?」
「あの夢を叶える時がついに来たんだよ! ウチの相方はやっぱりあま姉しかいないもん!」
恥ずかしそうに小指を差し出してくる夏希の笑顔が、幼稚園で一緒だった頃の、まだ内気で控えめだった夏希の笑顔と重なる。
一緒に、お笑いコンビを、組む。
それは……何度も思い返していたあのお花見の日、当時幼稚園児だった天音が、夏希と交わした約束だった。
親が芸人だというだけで周囲からちやほや持て囃され、それが後にどんな辛い日々へと繋がっていくか、まだ何も知らなかった頃の……純粋で幼い天音が。
「だからね、ちょーっと秋本さん……あっ、あま姉のお父さんに協力してもらったの! 『あま姉はどこの高校受けるんですか?』って聞いて!」
「……っ」
「いや~思ったより偏差値高くて、受験勉強はちょーっと大変だったけど、まぁこうしてめでたく受かって、そんで今に至るってわけ!」
「うぅ~……泣けますぅ、感動ですわぁ」
「でもずっと不安だったんだよ~? 入学式当日に驚かせてやろうと思ったら、あま姉一度も来ないまま一週間もお休みしちゃってるんだもん! 本当にウチが入った学校、あま姉と同じとこなんだよね!? 同姓同名の誰かじゃないよね!? って」
まるで告白を済ませた後かのように赤くなっていた夏希は、その恥ずかしさを誤魔化すようにけらけらと笑い飛ばし、絵美は目に感動の涙を浮かべながら、それに釣られて笑っていた。
天音は完全に感情を失った顔でうつむき、目を大きく見開いて固まる。
机に付いた自分の腕がぷるぷると震え始めていることに、自分でも気づかないまま。
「芸人になって……コンビを……組む……?」
「そっ。だからまずは手始めに、今後ウチらが活動していくのにいい場所ないかなーと思って、このお笑い部……あいや、お笑い同好会に入ったの。そしたら同じクラスにいたエイミーもいて、お笑いがめっちゃ好きってことで意気投合してさ!」
「なっちゃんが楢崎さんの娘さんだと告げられたときは、まさに天にも昇るようでした……! これはもう、この先に待ち受ける長い人生、日々小分けに使っていかなければいけなかった運を、いっぺんに全部使い果たしてやっと叶ったほどの出会いだと思うのです」
「ちょっとちょっと、だからそんな風に言ったらこの先の人生何にもいいことないみたいじゃん? ウチらとエイミーが出会えたのは幸運じゃなくて必然なんだって。だからこれから先もいっぱいラッキーはあるの♪」
「うぅっ、なっちゃあん……!」
感極まって泣き出す絵美を抱き留める夏希。
「というわけで、あま姉もこの同好会に入ってね!」「あとで先輩も呼んで歓迎会するから!」と手を振りながら言われ、天音はとうとう自分の中で何かがプチっと限界を迎える音を聞いた。
お笑いコンビを組む?
あのときの夢を叶える?
そのために、この高校を受けた?
勝手に父親に接触して、志望校を聞き出して?
「……んな……」
「え?」
「ふざけんなッ!!」
まるで巨大な風船が破裂したかのように、バンっと勢いよく机が叩かれる音が鳴り響き、狭い室内にびりりと反響する。
その音に、振動に、絵美だけでなく夏希までもが激しく驚く。
気付けば天音は両手で机を叩いて立ち上がり、怒りの感情を露わにしていた。
「なにそれ……芸人って、お笑いコンビって……! そんなのやるわけないじゃんっ!」
「え……だって、あのお花見の日に約束して……」
「覚えてるわけないでしょ! 一体いつの話してんの!? ただの幼稚園児のたわごとじゃん! 何そんなの本気にしちゃってるわけ!?」
「あ、あま姉……っ?」
完全にスイッチが入ってしまった天音。溜め込んでいた感情が堰を切ったように溢れ出してきて、もう止めることができない。
一方、その激昂をまったく予想だにしていなかった夏希は、物凄い剣幕で掴みかからんとする幼馴染の姿に驚き、身体を強張らせていた。
「アンタがどうか知らないけど、私はもうお笑いなんて大っ嫌いなの! これまでお笑いのせいで毎日毎日みんなにイジられてバカにされて、死ぬほど辛い思いしてきたんだから……! だからお父さんのことも大っ嫌い!」
「……」
「高校に入ったら、今度こそ普通の学生生活を送りたくって、それで私のことを知る人がいないこんな遠くの学校を受けたっていうのに……! アンタたちの勝手な行動のせいで、全部水の泡だよぉっ!」
固く握った拳をバンバンと机に打ち付け、髪を振り乱しながら、思いの丈をぶちまける。
痛いとか、誰かが騒音を聞きつけて部屋に入ってきてしまうのではないかとか、目の前にいる二人が本気で怖がって動揺しているとか、そんなことに気を回す余裕さえもなく、溜まっていた何かを……これまで抱え続けていた何かを全部吐き出すかのように、天音はまくしたてた。
天音はこれまでの人生でここまで怒りを露わにしたことはなかった。
どんな怒りも自分の中で静かに消化してきたし、行き過ぎた怒りはすぐに諦めの感情へと姿を変え、自分の不幸体質のせいにして無理に納得し、この世に対する絶望となってぐずぐずと霧消していくのが常だった。
だから感情を抑えきれなくなる一方で、そんな自分の行いに激しく動揺する自分もどこかにいた。
こんなに大声を出している自分に、癇癪を起こした子供のように机を叩いている自分に、自分自身が一番驚いていた。
他人に対してここまでの大声を上げるなんて、生まれて初めてのことだ。
怒り慣れていない身体で呼吸さえも上手くできず、息を荒らげる天音。夏希と絵美が呆然として完全に言葉を失ってしまっていることは、目を見なくてもわかった。
それでも天音は、溢れてくる言葉を全部、内なる自分の叫びを全部言ってやらなければ気が済まなかった。
「……アンタたちの夢なんて、私は知らないから……っ」
「っ……」
「お笑いなんて死んでもやらない! 勝手なことしないで! これ以上私の人生を壊さないでよぉっ!」
「あっ……あま姉!」
天音は最後にそう言い残し、荷物を持って部屋を……お笑い同好会の部室らしいこの部屋を飛び出した。
とにかくこの場から離れたかった。二人から距離を置きたかった。
思いの丈をすべてぶちまける一方で、二人に対する申し訳なさのような気持ちもすぐに湧いてきてしまっており、早くも自己嫌悪に苛まれていた。
埃っぽい古びた匂いの漂う旧校舎は、暮れなずむ夕日に照らされて、まるで時間が止まったようだった。
旧校舎の構造など、初めて来た天音には当然わからない。
ほとんど白目を向いたような状態で可愛川家のSPにここまで担ぎ込まれたため、校内の土地勘というものがなく、目に映るすべてが知らない景色だった。
「どこだよここ!」
もはや誰に対する怒りなのかもわからない声を張り上げながら、知らない校舎をずんずんと下へ降りていく。
階段にぱたたっと雫が落ちたのを見て、天音は初めて自分が大粒の涙を流していたことに気付いた。
秋本天音、激動の初登校は……こうして終わりを迎えた。




