3. 襲来
カリキュラムの説明や新入生向けの授業というものはとうに終わっているようで、少しずつ軌道に乗り始めたような「平常運転」の授業をいきなり受けられることが天音には少しだけ嬉しかった。一週間休んだからといって特別扱いされるのはごめんだ。
何よりも救いだったのが、隣の席のいい子系女子、神山和沙の存在である。
こちらが何も言わなくても「今日までのノート貸してあげるね」と板書したノートを見せてくれて、そしてその丁寧さと見やすさに天音は目を丸くした。丁寧な字によく整えられた構図。これをこのまま参考書として書籍化できるレベルなのではないかという代物だった。
きっとこの人は、進学校として名高いこの学校でもトップクラスの成績で、ずっとそれを維持したまま有名大学に入っていくのだろう……そんな人が自分に親切にしてくれているありがたさで胸がいっぱいになり、天音は授業中にもかかわらず何度も泣き出してしまうところだった。
昼休みになると、和沙はそうするのが当然とばかりに天音の席に自分の席をくっつけ、「一緒にお弁当しよ?」と誘ってくれた。
妄想の中で「ともちゃん」と何度も繰り広げた念願のシチュエーション。
これまでクラスメイトと顔をつきあわせなければいけない給食の時間が憂鬱で仕方なく、授業中の方がまだ楽だと思っていた天音にとって、こんなにも楽しみな昼休みは初めてだった。
「わー! 秋本さんのお弁当おいしそ~」
「そ、そんな、神山さんのだって……!」
「ありがとっ。私もこの春から自分でお弁当作り始めたんだけどね、まだまだ全然へたっぴで~」
「えっ、自分で作ってるの!? すごい!」
「そんな、まだまだだよー」
ナチュラルな言葉を楽しげに投げかけてくれる和沙と、ややテンパりながらもその会話に応じる天音。寡黙な昼休みしか過ごしてこなかった天音にとっては初めての経験だが、こんな会話に不慣れであることはバレではいけなかった。
ずっとひとりぼっちで暗い時代を過ごしていたことは、この学校の人には知られてはいけない。特にこんなにも積極的に仲良くしようとしてくれている和沙には絶対に。
知られてしまったら最後、和沙は「えっ、秋本さんってそういうタイプだったんだ……」「ごめんね馴れ馴れしくしちゃって、嫌だったよね……」と離れていってしまうかもしれない。
天音は出会ってからの半日でもうすでに和沙のことが大好きになっており、「この人に着いていけば自分の今後三年間の女子高生ライフは絶対に大丈夫だろう」という絶大な信頼を寄せていた。
もう芸人の娘という色眼鏡を通して自分を見られたくない。
友達になろうと声をかけてくれる人を拒絶する必要などない、どこにでもいる普通の女子高生になりたい。
そのためには無理にでも和沙のテンションに合わせなくはいけない気がして、天音はこれまで脳内だけで繰り広げていた〝一軍〟会話シミュレーションを思い出しながら、必死に自分を取り繕った。
なんとか早苗が用意してくれたお手製の弁当を机に出して箸を持つところまでは行ったが、食べることよりも和沙との会話に意識を集中させることに必死で、口に食べ物を運ぶタイミングをいまいち掴めず、「友達との食事ってこんなに難しいの!?」という驚きに打ちひしがれる。これを無意識にこなせている大多数の人間の器用さが天音には信じられない。
小さめのミートボールをさらに細かく箸で切り分けて、ぴっぴっと素早く口に運ぶ天音を見ながら、和沙は微笑ましそうに目を細めていた。
食事をしながら、通り過ぎざまに何人かのクラスメイトが和沙に話しかけていた。どうやらこの一週間で早くも和沙は数人の友達作りに成功しているらしい。
というより、現在天音に対して遺憾なく発揮されているこの「気遣い」の矛先が、他のクラスメイトにまで及んでいたのだろう。頼りがいのあるクラスメイトというポジションを早くも確立しているようだ。
こんな人が偶然にも隣の席になってくれたのだから、出席番号一番もまあいいか……と思い直しながら小動物のようにはくはくと弁当を食べていたところ、ふいに和沙と目が合った。
「あっ、ごめんね。ゆっくり食べてて?」
「あ、あはは……すごいね~、もう友達いっぱいなんだ」
「んー、まだそんなに詳しく知り合えてる子はいないんだけどね。いい子ばっかりだと思うよ。このクラス」
「そうなんだ。よかった~……友達できるかすっごい不安だったけど、とりあえず神山さんの隣の席にもなれたし、なんとかなるかな? あはは……」
慣れない愛想笑いが続いて早くも表情筋がひくつきだしている天音。
ふと見ると、目の前の和沙は両手の指先を付け合わせながら、目を伏せがちにしていた。
「わ、わたしもっ」
「ん?」
「私も……友達ができるか不安だったけど、秋本さんみたいな子が隣でよかったって思ってる……よ?」
(……え?)
天音は箸先につまんでいた小さなブロッコリーを思わず取り落とした。
目の前の和沙がこちらに向ける笑顔は、まるで告白する乙女かのように頬を染め、恥ずかしそうにしている……ように見えたのだ。
天音には友達との付き合いというものがわからない。
この年代の女子が行うような、気兼ねない友人同士のやり取りというものがいまいちよくわからない。
そういうものは全部すっ飛ばして今日まで生きてきた。
だから和沙が自分にかける言葉、自分に向ける表情が、「友達に向けるソレ」とはどことなく違うような気がすると本能的に感じても、これがイマドキの女子高生のスタンダードなのだろうかと納得するしかない。
きっと最近の子はみんなこうなのだ。
どれだけ気恥ずかしくても、こうやって自分の気持ちを言葉に出して打ち明けてくれるような、あけすけな気質の子が多いのだ。
すぐに自分の気持ちごと胸の奥にしまい込んで、口から出るはずだった言葉を心の中でぶつぶつと消化する天音みたいな子の方が少数派なのだ。
「あ、あ~はははっ、ありがとうね、神山さん!」
知り合って初日。出会ってまだ半日。それでもこんな言葉をかけてくれるなんて、この神山和沙という少女はどこまでありがたい存在なのだろうと内心驚愕しながら、天音は和沙に礼を言う。
友達ができるかどうか、高校デビューが上手くいくかどうかずっと不安に思っていた天音だが、もはや和沙は自分にとって友達を通り越して親友とも呼べるような存在になってくれるのではないかと早くも思っていた。
これまでクラスの一軍グループや〝陽キャ〟というものを傍目に見続けていた経験からしても、この子の距離感の詰め方は少しバグり気味ではないかと思わざるを得ないところもあるが、そんな詰め方をされてもちっとも嫌な気分にはなっていないし、むしろ嬉しいと思えている。
こんな素晴らしい子に出会えること自体、今後の人生でもそうそうないことかもしれないと思い、天音はそれだけでこの学校に入ってよかったと感じた。
そして、やはり自分が芸人の娘であることは何が何でも隠し通さなければならないという思いを新たにする。
せっかくこんないい子に出会えたのに、その事実がバレてしまったらすべてがパーだ。
もう、小学生の頃や中学時代のようなつらい思いはしたくない。
取り落としたブロッコリーを再び口に放り込みながら、天音は自分の身の上を秘匿するという決意をより一層強く固めた。
「そういえば、秋本さんはどこか部活とか入るの?」
「あっ、部活かあ……私今までも特にクラブ活動とか何もやったことなくて。得意なことなんて何にもないんだよね」
「私も特に決めてなくてね~。もしよかったら、一緒にいろいろと見学に行ってみない?」
「えっ、本当……!?」
部活動のことなど今の今までまったく頭になかったが、和沙の提案を魅力的に思い、天音が同意したその瞬間。
背後に位置する、一年一組の教室前方にある戸がガラリと勢いよく開かれた。
その大きな音に、思わず天音もびくりと反応してしまう。
(えっ?)
振り返ると、そこには……お嬢様がいた。
乱暴な不良生徒でもやってきたのかと思った天音は意表を突かれて固まる。
着ている制服は自分と同じはずなのに、そのたたずまいとオーラだけで一瞬で「お嬢様だ」と認識させる存在。恐らくはこのクラスの生徒ではない。
それがニコニコと笑みを湛えながら立っていて、その目がまっすぐに自分の方を見ていることに気付き、天音は頭が空っぽになった。
そしてすぐに思い至る。この人は自分を見ているのではない。きっと和沙に用があるのだろう。
和沙の〝いい子伝説〟はこの一組を通り越して他のクラスにまで伝播していて、昼休みという時間を利用して和沙に会いに、この人は来たのだ。
うんうんきっとそういうことだ……と自分を納得させていると、お嬢様はゆっくりと歩みを進め、天音の方に近づいてきた。
そして、和沙の隣ではなく、天音の隣にふんわりと立つ。
(は?)
「あの……秋本天音さんでいらっしゃいますね?」
「……へぇ、はぁ」
まったく見ず知らずのお嬢様に突然接近され、名前を呼ばれ、情けない返事しか出てこない天音。
ふと横を見ると、和沙も何事かと驚いているようだった。和沙の知り合いというわけでもないらしい。
えっじゃあ何の用なの、と身に覚えのない自分自身の行いについて頭をフル回転させていると、お嬢様はまじまじと天音の顔を見つめてからにっこりとほほ笑み、今しがた開け放った戸の向こう側にいる〝何者か〟に声をかけた。
「なっちゃん、やはりビンゴのようです~」
言葉の意味はわからない。わかるのはお嬢様がものすごく楽しそうにしているということだけ。
お嬢様が声をかけたのは、天音の視界のやや後方。天音がそちらに目を向けようとしたその瞬間、人のものと思われる影がばばっと教室の戸から勢いよく中に入り込み、素早く天音の後ろに回り込んだ。
そして、温かいものでぴとっと視界が覆われる。
『だーれだ!』
(……は?)
その掛け声とともに、天音の視界は真っ暗になった。
どうやら、後ろに回り込んだ人物が天音の視界を手で塞いだらしい。
天音は持っていた箸を思わず取り落としてしまい、カラリと床に落ちた。
自分の身に何が起こったのか、把握はできても理解ができない。
だーれだ、と手で目を覆われる。それ自体は友人が友人に仕掛けるちょっとしたサプライズとして、世界中で行われているような行為だろう。
だが天音には、自分にそんなことをする人物の心当たりがまったくなかった。
これまでの小学校でも中学校でも、そんなことをしてくる関係性の子はいなかったし、だいいち今いるここは自分の知り合いなど一人もいないはずの高校で、登校したのも今日が初めてで、まだ目の前にいる和沙以外にまともに言葉を交わした生徒は一人もいないのだ。
じゃあ、誰なんだ。自分にこんな真似をする人間は。
「ええっ、ちょっ、誰!? 誰なの!?」
「ほらほら~、当ててみて?」
身をよじっても、しっかりと抱きしめられるように包まれているため手が離れない。何か柔らかくて温かいものが首元に当たっているのは気のせいだろうか。
天音には本当に心当たりがなかった。そもそもさっきまで隣に立っていたお嬢様のことも未だに誰なのかわかっていないのだ。あんなお嬢様オーラを醸し出している人は自分の知り合いにはいない。
そういえば、さっきこのお嬢様は何と言った?
(〝なっちゃん〟って……?)
天音は今日何度目かわからない脳内コンピューターのフル稼働を試みる。
自分が今まで生きてきて関わってきた人物フォルダに総検索をかけ、「なっちゃん」に該当するすべての候補を出そうとする。
その間も自分の目を押さえている手は嬉しそうにもぞもぞと動き、手のひらの体温がじわじわと天音の目蓋を温めていった。
「うふふっ、なかなかピンと来ないみたいですね~」
「ヒントはね~、あ・い・か・た♪」
「あいかた……相方ぁ!?」
息が吹きかかるほど近くで言われてこそばゆくなる天音。
自分の中で〝相方〟というのはお笑い以外には使わない言葉だった。ということは、もしかして自分の素性を知る誰かなのだろうか。
いやしかし、自分のことを芸人の娘だと知っている人はこの学校には一部の教師以外いないはず。
「ほらほら〜、相方だよぉ〜?」
(あ)
目を押さえる謎の人物が楽しそうに言葉を続けた瞬間、「もしかして」という一件の予測候補がピコンとはじき出された。
それは、名前を宙に思い浮かべた瞬間に「違う」とはたき落としたくなるような衝動に駆られる存在。
だが、言われてみれば確かに「なっちゃん」であった。
そして、言われてみれば確かに自分と同年代であった。
この春から、天音と同じように高校一年生になっているであろう子だった。
いやしかし、それでもここにいるはずがない。
今どこで何をしているかは知らないけれど、少なくともこんなところにいるはずがない。
こんなところで、今再び自分の人生に関わってくることは、絶対にないと思っていた人物。
「あらら~、完璧にフリーズされていますわね」
「ダメかぁ~。当ててもらいたかったんだけどな」
「もったいぶらずに、そろそろネタ晴らしといきましょう?」
「しゃーない」
顔を覆っていた温かい手がぱっと離れ、天音の視界に光が戻ってくる。
決して強くはない程度の力で抑え込まれていた視界は揺らいでいて、その中にぼんやりと和沙の姿が見える。呆気に取られているような表情をしていることが、まばたきを繰り返して徐々にクリアになっていく視界の中に確認できる。
後ろにいるのは一体誰――そう疑問に思いながら天音が振り返ろうとした瞬間、天音の背後にいた人物は「ばあ!」と言って、天音の両肩に手を置きながら、上から覗き込むようにしてその顔を晒した。
後方を見上げる天音の視界に飛び込んできたのは――元気そうな女の子。
大人しめ美人な和沙とも、ザ・お嬢様な隣の謎女子ともまた違う、快活そうな印象の可愛い女子だった。
こんな子は初めて見る。天音の知り合いにはいないはず。
けれど一人だけ、もしかしたらと思い当たるフシがある。
それは先ほどまでフル回転させていた脳内コンピューターが弾き出した一件の予測候補。
確かに名前は「なっちゃん」だし、自分と同じ高校一年生ではあるけれど、まさかこんなところにいるわけはないと思っていた一人の女の子。
最後に会ったのは恐らく小学校低学年くらいで、女子高生となった今どんな姿になっているか、まったく想像もつかない女の子。
想像はできないけれど……目の前に現れたこの顔が〝現在の姿〟なのだと言われれば合点がいってしまうくらいには、昔の印象を残している面影。
「よっ、〝あま姉〟!」
(う、噓でしょ……っ)
楢崎夏希。
天音の、父の、相方の、娘だった。




