~白昼夢~ 悪夢の種子
その日の夜は重たい雲が移動することなく、いつも以上の暗闇が外を包んでいた。民家や街頭の明かりなど当然あるわけがなく、月明かりも星の輝きもない。
真っ暗闇にぽっかりと〔エクセンプラール〕の艦橋の明かりだけが浮かんでいる。石柱の群れから離れた森林の中に身を隠し、夜行性の虫と動物たちの息遣いをまとっていた。
「お皿、取りに来ました」
結子が遠慮がちに、明るい艦橋に入る。夕食の皿を取りに来たのだ。
当直のクルーたちが気さくに返事をして、空いた皿を載せたトレイを差し出す。結子はその皿の乗ったトレイを受け取り、積み重ねていく。
「ご苦労さん。へへっ」
最後に細面の操舵士から受け取り背を向けた瞬間、彼の手がすっと結子の小ぶりなお尻に伸びる。
結子はそれをわずかな衣擦れの音から察知して、前にワンステップ。軽やかに回避しつつ、揺れるトレイの塔のバランスを保つ。
男の分厚い手が彼女のたなびくコートの端をかすめた。
「チッ。サービスの悪い」
男は舌打ちして、拗ねた顔をする。
「ムッ……」
結子にはその発言に不快感を覚える。冗談交じりにするにしても悪態をつかれるのは気分が悪い。自分本位なところが許せない。
「こんな日に当直勤務かよ。窓に虫が寄ってきてるじゃないか」
「ぼやくな。仕方ないだろ」
艦長席に座る背の低い男と機関士席に座る禿頭の男が冗談面倒そうに言った。
結子はその会話を耳にして、ふと艦橋の窓に視線を向ける。羽虫がヒラヒラと舞う姿が明かりに照らされ、数匹が窓に張り付いている。その向こうの暗闇は一メートル先をも見通せない。
「ちょっといいかい?」
彼女が艦橋を出ようとしたところで、短髪の若い通信士が思い出したように声をかける。
結子は積み重ねたトレイの揺れにドギマギとするも、持ちこたえて立ち止まる。皿のこすれ合う音が耳に入る。
「はい。何か?」
「すまないけど、あとでコーヒー持ってきてもらえるかな?」
「わかりました。他の人は?」
結子は足を止めて、通信士の温和な笑みに軽く会釈する。それから、他の人に注文を取ろうと踵を返す。
くるっと回る横に流れる黒い壁のような窓の光景。
その一瞬、のっぺりとした人の顔が結子の目に飛び込んできた。
「――っ!?」
結子は緊張して、その個所に視線を戻す。
だが、そこにはヒラヒラと鬱陶しく飛ぶ羽虫がちらつくばかりで、人の顔などありはしなかった。
目をしばたたかせ、結子は固唾をのんだ。
「どうした?」
細面の男は自分の方を向いて固まっている結子を怪訝そうに見る。
「何でも……。少し眩暈がしただけ」
結子は体から吹き出す冷たい汗を誤魔化すように首を横に振った。
目の錯覚に決まっている。疲れがたまって羽虫がそういう風に見えただけだ。
「大丈夫か? 無理しなくていいぞ」
細面の男が結子の顔色を見て、心配そうに問いかける。
「大丈夫。本当に……。だいじょ――」
結子が顔を上げて、操舵士にお礼を言おうとした。
暗闇の窓にやつれた巨大な人の瞳さえなければ。
結子はその窓にべったりと張り付く血走った瞳から目が離せず、悲鳴も上げられなかった。艦橋の明かりに照らされた黄色の肌は生々しく、瞳孔が収縮する様は獲物を捕らえた獣のよう。
「どうした……?」
その瞳に背を向けている操舵士は顔面蒼白で震える結子に違和感を覚える。周りの人たちも窓には目もくれず、結子を注視する。
心配する操舵士が立ち上がる後ろでその顔はゆったりと上へと浮遊して、三日月のように吊り上がった口元を見せる。お歯黒と赤い唇。その奥で蠢く舌の生々しい反射光が結子の見開かれた瞳に焼き付く。
巨大な顔がまるで風船のように窓枠の外へと消えていくと同時に結子の手からトレイが零れ落ちる。
ガラガラと騒音を立て、結子もまた腰が抜けてへたり込んでしまう。
「おい!」
細面の男が思わず大声を上げて、震える結子の前に跪く。
ほかのクルーたちも怯える結子の様子に緊張する。背の低い男と禿頭の男は窓の外に注意を払う。一方で通信士の短髪の若者は見張り台のほうに状況の確認を求める。
言い知れない緊張感がこの場を張りつめさせる。
「どうした? 何か、見たのか? ん?」
操舵士の男は結子の小さな手を取って、包み込むように握った。その手は冷たく震えて、握り返すそぶりもなかった。
「外、外に、人の顔……」
結子は見開かれた瞳に涙をためて、しゃくりあげながらか細い声で言う。
細面の男は耳元を近づけて、その声を聞き届けると周りに視線を向ける。
「外に誰かいたんだって言ってるが?」
「別になにも見当たらないな……」
「こんな暗闇じゃわからんて。第一、ここがどんだけ高い位置にあると思ってるんだよ」
「見張りも異常なしって言ってきてる」
男たちはいよいよ結子のリアクションが疑わしくなってきた。
結子はその発言に周囲に顔を向ける。
「ほんと――、本当に見た……」
「羽虫がたまたまそう見えたんだろ」
艦橋の窓をたたいて、禿頭の男が言った。窓に張り付いていた羽虫が飛んでいく。
「疲れが出たんだろ。ほら、片づけはしてやるから部屋言って休みな」
細面の男も一、二回優しく結子の手を叩いて立つように促す。
しかし、結子が腰が抜けて、男の手に縋り付くばかりでお尻が少し浮くだけであった。足に力が入らず、必死に男の手を握る。その手にはアクセサリはなかった。
「でも、本当に……」
結子はそう言いながら、恐る恐るもう一度窓の外を見る。
そこには何もなく、ただ暗闇だけが居座るばかり。風がぶつかるくぐもった音が恐怖で怯える彼女の心に拍車をかける。
目の錯覚だったのだろうか。
結子自身、非現実的な現象を立証する手段はなく、居心地の悪さだけが胸にすくうばかりであった。
* * *
厨房は夕食の時間が過ぎて、女性陣は食器の片づけに追われていた。
その中に、フォノの姿もあった。腕まくりをして、長い金色の髪を束ねた姿は様になっていた。
「こういう汚れは落ちにくいんだから……っ」
調理に使った巨大な鍋の底を荒縄で力強く洗う。厨房の端っこで節水をしながら、汚れを落とすと床の流しに鍋底の水を捨てる。
「悪いね。手伝ってもらっちゃって」
ミトが厨房の真ん中にある流しで器の水気をきって、食器布巾でふき取る。
「いつもしていることだから、気にしないで」
フォノは笑顔を作って揚々と答える。いつもやっている仕事である。〔アル・ガイア〕に乗っているよりは気分は優れていたし、賑やかな方が居心地がいい。
「今日はヘアバンドしてないのね?」
「こういう時はヘアピンのほうが楽なの」
ミトの何気ない一言にフォノは愛想よく答える。
だが、その一方で周囲に違和感を覚える。
かしましい声の中から喘ぎ声のような、うめき声のような、形容しがたい声がフォノの耳に幾重にも聞こえてきたのだ。
気にしないように努めるも、耳にこびりつく声が増していく。
「何よ……?」
フォノはついに我慢の限界を超えて、口元をとがらせる。意識が強引に声に引き寄せられる。鍋を濯いで、ミトのほうに回すとエプロンで手を拭きながら声のする方に足を運ぶ。
音は厨房の奥。ひとつしたの氷室につながる階段からこだましていた。厨房の明かりが届かないほの暗い場所で温かみなど微塵もない。
「どうしたの?」
床掃除をする恰幅のいい女性がフォノの背中を見つけて問うた。
「下のほうから音がするから、確認してきます」
フォノは壁にかかっているランプを取って一度振り返る。
一瞬、女性の顔が怪訝そうに口元をゆがませる。
「音? 下から?」
「はい。そうです」
フォノははっきりと答えた。
女性にはどうにも腑に落ちず、腕組みをする。
周りがさまざまな音を立てて作業をしているのだ。その音が反響して、たまたま下から鳴っているように聞こえるだけではないだろうか。
「空耳なんじゃないの?」
女性は心配そうに問いかける。
しかし、フォノはランプのカバーをはずして、アルコールをしみ込ませた縄に火打石で火をつける。チリチリとこげた臭いが立ち込める。そして、縄先から赤い火が灯った。
「そんなことないわ。だって、今だって聞こえるんですもの?」
「どんなだい?」
「こう……。ウゥ、アゥ……って」
フォノは聞こえる音を口にしてみたが、女性はますますわけがわからないといった顔をした。
「神経過敏になってるんじゃないのかい?」
「とにかく見てきます」
フォノは理解が得られないことに怒って、ぶっきらぼうに言い放った。それから、ランプにカバーをかぶせ、取っ手を持つと女性に背を向ける。
「それに誰だってこんな嫌な音を聞いていれば、神経質にもなります」
フォノは一瞬振り返って、そう告げると階段を下りていった。
階段を下りるたびに硬い足音が響き、厨房の熱気から解放された重く冷たい空気が立ち込めてきた。
と、フォノは氷室の厳重な扉の前立ち止まって、空いている手で耳元に触れる。
「音が、止んだ……」
扉の前で寒さに震えながら、別の寒気が背筋を走る。
ランプの火がとろとろと揺らめいて、扉の閂を照らす。
「一応、確かめておかなきゃよね? だってそうっ。中に人がいて出られなくなってるかもしれないわ。だったら――」
フォノはのど元まで這い上がってくる感情をだます様に矢継ぎ早に言うと閂をスライドさせ、扉を開いた。重たい扉がギィギィと軋んだ音を立てる。重たい冷気が扉の隙間から流れ込み、足元を過ぎていった。
フォノはやっと体が抜けられるだけの隙間を空けると、そこへ体を滑り込ませて中に入った。
真っ暗な氷室の中をランプの弱い光が差し込む。
冷気と湿気が室内を重苦しくさせ、ところ狭しと並ぶ木箱がさらに閉塞感を出していた。野菜や魚、燻製にした肉が保存されたこの場所だというのに生臭さは抑えられており、フォノは肌にまとわりつく冷たい湿気が不快に感じた。
「あのー。誰かいませんかー」
フォノは小声で背中を丸めて、ゆっくりと奥へと進んでいく。氷の上に敷かれた藁の踏み固められたふみ心地。周囲に目をやっても木箱の群れしか見えない。
そのとき、頭の上に冷たいしずくが落ちてきた。
「ひっ」
フォノはびっくりして片手で頭を押さえ、天井を見上げる。
ランプの光はテラテラと湿った天井を浮き上がらせて、今にも落ちてきそうなしずくの粒を輝かせた。
「はぁ……。驚かせないでよ」
フォノが気を緩めてつぶやく。
すると、クスクスと笑う声が耳に入る。
フォノの表情が凍りつく。人の気配など一切なかった。音も止んでいた。扉からかすかに聞こえる楽しげな笑い声ではない。
嘲笑。
その冷ややかな声にフォノは体をさらに小さくする。
「誰か、いるの?」
不安げに問いかける。
「アハハハハハハハ!」
今度ははっきりと大声の笑いが氷室の中を駆け回った。
フォノは足がすくんで、頭を右往左往させて周囲を見る。だが、人の姿などどこにもない。体の芯が凍り付くような恐怖が襲い掛かる。
「アハッハハハッハハッハハハッハハ!!」
狂ったような笑い声とともに、周囲の木箱がいっせいに轟音ととどろかせる。
フォノは内側からはち切れんばかりに轟音を奏でる木箱と狂気の笑い声に動転して、しりもちをついてしまう。床についた手とおしりに感じる冷たさと水を吸った気持ち悪さが現実だと思わせる。
「いや……」
フォノが掠れた声で涙ぐむ。耳はわけのわからない音で蹂躙され、視界はまったく何も捉えない。
何が起きているのかわからない。
そのときすべての音がピタリと止まった。
「とまった……」
フォノは警戒しながら、周囲にランプの明かりをかざした。
静まり返った氷室。照らされた木箱は何ともない。ゆっくりと呼吸を整えて、爆発しそうであった心音もゆったりと落ち着いてきた。
すべてが大丈夫だと判断して、ふっと安堵の表情を浮かべようとした。
「遊ぼ――」
だが、うめき声のような声が耳元でささやかれる。甘えたようなねっとりと耳の奥にまとわりつく声音で、生温い空気が首筋を撫でる。
フォノは一気に血の気がうせて振り返ろうとした。
だが、次の瞬間床につく手が強い力で拘束される。氷のようにつめたく、万力のように強い、人の手の感じ。
その瞬間、フォノの思考は吹き飛んであらん限りに悲鳴を上げる。恐怖でパニックに陥り、ランプを放り棄てて小さく丸まってしまう。
すぐに悲鳴を聞きつけた厨房の人たちが氷室へと殺到した。
「どうしたの!?」
ミトがいの一番に飛び込んで、木箱の並ぶ間にフォノの丸い背中とそのすぐそばで横倒しになっているランプが床のわらに引火するのを見つけて血相を変える。
「火事よ! 水を持ってきて!」
ミトは後ろから続く女性陣に叫んだ。
後続の人たちも火の手と黒い煙を見つけて、すぐに行動に移った。洗い終わった鍋に水を入れて、バケツリレーが始まった。
一方でミトはフォノに一目散に駆け寄った。不自由な右足を引きずって、彼女の小さな背中に抱き付いた。
「フォノ。こっちにおいで!」
ミトは震えるフォノを抱きしめ、火の元から遠ざける。
すぐさまバケツリレーで運ばれてきた水が消火して、跳ね飛んだ飛沫が二人の頬を濡らした。
フォノはすぐ横にミトの顔を見つけるとようやく悲鳴を抑えて、今度は溜め込んでいた大粒の涙を流して泣き出してしまう。
「扉を開けて、煙を外に! どうしたのさ?」
掃除をしていた女性が消火で発生した煙を手で払いながら、ミトたちのもとに寄った。
「わからないわ。けど、すごく怖い思いをしたんだと思う」
ミトは胸に顔をうずめて泣き喚くフォノをやさしく抱きながら、背中をさすった。
「そういえば、音がするってここに来たみたいだけど……」
「音?」
ミトはゆっくりとフォノを立たせるように促して立ち上がると、女性の言葉をオウム返しに言った。
「そうなの。何にもなかったのに、変よね?」
「誰か、隠れていた――。なんて、おかしいものね」
ミトは誰かのいたずらかと思ったが、氷室の中では難しいと考える。
ここに一〇分と閉じこもっていれば、体温を奪われてすぐにでも外に出たがるはずだ。子供たちにも口をすっぱくしてここで遊ばないように注意もした。
「事情を聞こうにもこの子がこれじゃあね」
「部屋まで送ってくるから、少しこの中を調べてちょうだい」
ミトは自然と掃除をしていた女性にそういっていた。
艦長職を解かれてからも、凛とした指示を出す言い方をしてしまう。女性たちはその堂に入った言い回しを煙たがることなく、実践してくれた。
* * *
柾は納得した様子で整備したバイン・アウトーを撫でた。
「うん。これで大丈夫。三人乗りでもやってける」
ダチョウのようなフォルムは変わっていないが、中のフライホイール・バッテリーを四脚式のものと取り換え、関節部の衝撃吸収ダンパーを倍に増やした。そのせいで、機動力が落ちてしまうデメリットが生じるもサスペンション強度を上げたことで、悪路でも踏破できる強靭さで補うことができる。
そのすぐ後ろで道具の片付けをするカーヴァルが目を輝かせていう。
「姉ちゃん、姉ちゃん。手伝ったんだから、今度乗せてよ」
「運転をするだけなら、ほかのやつでいいでしょ? この子は長距離用に変えたんだから」
柾は振り返って、カーヴァルに言った。
「ちぇっ。整備のやり方教えてくれたのに、結局そういういじわるすんじゃん」
口元をとがらせてすねるカーヴァル。
彼にすれば、バイン・アウトーの手入れの仕方を教えてくれたことは柾が少しは自分に目を向けてくれていると思った。そのことで舞い上がって余計なことを口走らせる。
柾からすれば、そんな男の子の恋慕など知ったことではない。
「お姉ちゃんの言うことは聞くっ」
そういうなり、柾はニカッと笑ってカーヴァルの横を通って肩をたたいた。
カーヴァルは不服そうな顔を向けながら、上層につながる階段に向かう小さな背中を目で追う。
「片付けは!」
「しておいてっ。それも仕事だよ」
「横暴だぁ!」
カーヴァルは階段を上り始める柾に叫んだ。
「埋め合わせはしてあげるから。お休みっ」
「約束だからな! 絶対だからな!!」
柾は逃げるように階段を駆け上がって、カーヴァルの声を空返事で答えた。それでカーヴァルがひそかにほくそ笑んでいることなど想像もしなかった。
柾は格納庫上層の通路から艦内の居住区へ入って、大きく息を吐いた。それから首元のマフラーを緩める。アクセサリをしていないこともあって、マフラーがいつもより息苦しく感じられた。
「なんだか、今日はやけに疲れちゃった……」
伸びをして、胸を張る。いつものように節々が軽くなる感じはない。重ったるく、けだるい感じだけがいつまでも居座り続ける。
誰もいない通路は蛍光灯の無機質な光にあてられて、閉塞感があった。夜中の通路などはこんなものなのだが、今日に限って一転にしぼんでいくような不安定さと息苦しさがあった。
柾は重い足取りで自室への通路を進む。
「……ん。何の臭い?」
茫洋とする頭にツンと突き刺さる悪臭が柾の歩みを止める。
無機質な通路を見渡して嫌な臭いとわかりながらも、鼻頭の赤い鼻を働かせてその原因へと進んでいく。酸っぱい臭い。生臭く、鼻の奥にこびりつく臭い。舌の上で後味の悪い感じがこみあげてくる。
しばらくして、柾は原因と思しき一室の前に立つ。
「ここ……。前に怪我した人がいた部屋……」
柾は固唾を飲んで、緊張する。
怪我人のほとんどが死んでしまったことを思い出すと、この空いている部屋から漏れ出している汚臭が意味するところを連想してしまう。
確かに似た臭いではある。だが、そんなことあるはずがない。
「誰もいないはずでしょ?」
柾は疲労で鼻までおかしくなったと自嘲しながら、ドアノブに手をかけて開いた。何の変哲もなく、すんなり開く扉の感触。
だが、次に部屋に足を踏み込んだ瞬間、ピシャッと水のはじける音と生魚のような生臭さを鼻いっぱいに吸い上げていた。
そして、ドアから漏れる無機質な光に照らされたシルエットを目に入れてしまった。
一本足から液体をしたたらせ、ぼろ布を着て、色の違う皮膚を継ぎはぎに縫い付けた能面顔がたっている。
おどろおどろしく、忽然として佇む。
「何……?」
柾は思わず下っ腹を鷲掴みにした。生理的な不快感がこみあげてくる。
それに耐えながら、足元と部屋の中央にある能面顔を交互に見て努めて冷静に状況を分析。
能面顔の色白で血管の浮き出た足から流れ伝っている薄紅色の液体。肉を解凍したとき下たる薄い血の色にも似ていた。それが自分の足元まで伸びていることまでは頭で理解できた。
そして、三度目に顔を上げたとき、能面顔は柾のすぐ目の前に立っていた。
「――――っ」
柾は目をひん剥いて、恐怖で顔面蒼白になる。その視界いっぱいに映る能面顔がかすかに口の端を持ち上げたように見えた。
鼻をつく腐った肉の臭い。もっと言えば汚物の痺れるようなにおいが絡みつき、頭をぶんなぐられたような衝撃が襲い掛かっていた。
能面顔はずいっと体を曲げてさらに柾の顔に近づける。ぼろ布の下からびちゃびちゃと汚い音が床を跳ね回り、何か重たいものが零れ落ちる音が耳を打つ。
柾は今までに味わったことのない生々しい恐怖に怯え、目を離せなかった。
ありえない。理性が叫び、恐怖に心臓が踊り狂ったように脈打つ。全身から吹き出す汗が氷のように冷たかった。
能面顔はそんな少女の怯える姿を楽しむようにくるりと面を回転させる。キリキリと肉が引きちぎれる科のような音を奏でて、笑っているような悲しんでいるようなその面を一八〇度反転させていく。
そして、さらに反転は続き、くりぬかれた瞳、厚い唇の間から薄紅色の液体が零れる。赤い口は泡を吹いて、苦しみ、嘆き、狂気する。三六〇度回って見せた。
「あ……」
柾は何が何だかわからくなって、口元が変に吊り上がるのがわかった。可笑しいのではない。理解の範疇を超えて、頭がおかしくなってしまっているのだ。
瞬間、能面顔が顔を震わせてケタケタと音を鳴らす。
「あ、あぁ……」
柾は涙を流して、逃げたいのに足がすくんでいることを恨んだ。
能面顔はそのまま泡を吹いた唇から細い舌を伸ばして、柾の首筋から頬をなめ上げていく。ザラザラとした舌先と粘っこい液体の感触が肌を焼くかのごとくこびりつく。
その舌先が柾の青くなった唇を撫でた。口の中に生々しい味が侵入して――。
柾は目を回して卒倒してしまった。膝から崩れ落ち、薄紅色の液体の上に倒れこんだ。
「ん? 誰かいるの?」
そこに凛としたミトの声がこだました。
「フォノを部屋までお願い」
ミトはフォノを抱きかかえる女性に言って、何かが倒れる音のした方向へ進んだ。
すると、開けっ放しのドアと人の足が見えた。
「柾……?」
ミトは靴の形と大きさを見て、予想を立てて急いだ。
案の定、柾の小さな体が部屋の中で倒れていた。しかし、そこには薄紅色の液体も能面顔の姿もなかった。
* * *
ミトは柾たちを部屋まで送った。
夜の九時を回ろうとしたころである。
柾は気を失っていたために、早くに眠りについた。しかし、顔色は優れず時折うめき声をあげて苦しんだ。
その左右にいまだ寝付けないフォノと結子がずっと震えてベッドの蒲団にくるまっている。
「旅をして一か月近く経つし……。あなたたち、いっぱい動いたから疲れが出たのよ」
「でも、本当に見た」
「嫌な音も聞いたわ。幻聴じゃない……」
ミトは怯える二人に微笑みかける。
「今日はもう寝て、忘れなさい。今夜だけの、悪い夢だったのよ」
ミトはそういって、ろうそくのともった燭台に手を伸ばす。まだ仕事は残っている。ここに長居しているのはどうにもほかの人に申し訳ない気がした。
すかさずフォノが口を開く。
「持ってかないで。今日だけ、そのままにしておいて……」
ミトは手を伸ばすのをやめて、潤んだ瞳を向けるフォノと結子を見る。
よほど怖い思いをしたのだろう。おそらく柾も。
と、端にいる結子の小さい手が裾を掴んだ。
結子は何も言わなかったが、力一杯に裾を掴んで離そうとしない。
「寝るまでだからね」
ミトは優しく言うと結子の手を取って、布団の中に戻した。
このままおいていくのも忍びなかったし、こういう風に甘えられるのも悪い気はしなかった。仕事のほうは後日代わりをすればいいだろう。
しかし、ミトの頭の中ではなぜ、この三人が幻覚や幻聴の類を今夜同時に起こしたのか気になった。
あまりにできすぎた話ではないか。
フォノと結子は安堵の表情を浮かべると、深く布団を持ち上げて目をつぶる。真ん中にいる柾を挟んで、人がそばにいる温かみに安らぎを覚える。
「……操縦者の娘たちだけ、か」
ミトは口の中でつぶやく。
彼女たちの共通項といえばそのことであるが、三人は三者三様の場所で恐怖体験をした。しかし、フォノと結子の話からは一貫性はないように感じられた。怖いものの対象がかけ離れているからだ。
「やっぱり、疲れがたまってたのね」
ミトはそう判断して、三人が寝静まるのを待った。
しばらくして三人が寝静まったのを見計らうと、ゆっくりと部屋から退散していく。
柾たちの幸せそうな寝顔を見れば、明日には元気な顔を見せてくれると疑いもしなかった。今夜限りの特別なことだとこのときは信じてやまなかった。




