~北海~ それは小さなことだけど
北海を逃げ出して、運河をさかのぼり、〔アル・ガイア〕が〔エクセンプラール〕に戻ったのは、夕刻のころである。修道騎士団とロッテルダムの自警団が思いのほか静かで、海沿いの警戒を強めていたのが幸いした。
〔アル・ガイア〕は〔エクセンプラール〕に横たわって、水浸しの装甲を冷たい夜風にさらしている。
一方で艦内に戻った柾たちは生活する人たちに交じって、夕食を取っていた。
夕時の食堂は賑やかで代わる代わる人が出はいりして、談笑が絶えない。長いテーブルには質素なパンとサラミや簡単な野菜の漬物、マーガリンやジャムといったものが並んでいる。飲料水の入ったガラス製のポットには、氷が狭そうにひしめいて浮かんでいる。
「今日はもう散々なんだから――、くしっ」
柾はくしゃみをすると、鼻水をすすった。海水につかっていたためか、髪の臭いも気になる。
「長いこと水に浸かってたものね」
左に座るフォノは鼻頭を赤くして震える柾の背中をさする。
「その服、似合ってるかも?」
右に座る結子はポットを取って、木製のカップに人数分注ぐ。
機体内への浸水は経験したことのないアクシデントであったがために、柾が無事であることは心からよかったと思える。
「それはどうも。こういう服、苦手なのよね」
柾は結子の言葉に辟易した表情を見せて、自分のきている物を改めて見る。ぶかぶかでもこもこしたセーターで、肌触りはいいのだがサイズが大きいために肩が露出してしまう。お気に入りのマフラーがないのもあって、首元が寒く感じられた。
「仕方ないじゃない。命が助かっただけ、よかったと思いなさいよ」
フォノは不満げな顔をする柾を窘める。
「それにしても、海の中に本当に怪物がいるなんて……」
「しーっ。みんなに聞かれたらどうするのよ」
結子のつぶやきに、フォンが口元に指をあてる。大ぴらに話すことではないと思った。彼女自身、未だに信じられないのだから。
その間に挟まれている柾はぶかぶかの首周りを整えながら、二人を見比べる。
「フォノの言い分もわかるけど、対策は考えるべきだと思う」
「戦う気なの」
フォノは声を押し殺して問う。
「もちろん。このまま放っておいても、被害は収まらないし。何より、買い物ができない」
単純明快に柾が言ってのける。
その道理はフォノも結子も理解できる。ロッテルダムに移住するわけではないのだから、補給はしっかりとしておきたい。旅に戻れば、次にどこで補給できるわからないのだから。
「修道騎士団の艦隊だけで対応するのは難しいと思う。その、今日のことを考えると」
結子は冷静だった。
〔マーマン〕の水中での機動力を思えば、波に足を取られてしまう船舶では太刀打ちできない。爆雷だろうが、砲弾だろうが、狙いがつけられないでは話にならない。
「わかってるわよ」
フォノは結子からカップを受け取って、その水の冷たさを木目越しに感じた。
悔しいが、戦力の違いをわかっていた。海中と海上ではまったく戦い方が違う。対等に渡り合うには、広範囲で正確な索敵能力と海中での抵抗力を打ち破る火力が必要になってくる。
「作戦会議、あとでしないとね。ありがと」
柾は二人の肩をたたいて鼓舞する。それから、冷たい水の入ったカップを受け取る。
結子は小さく頷いて、ガラガラと氷が音を立てるポットをテーブルに戻した。
「あら。また何か企んでるの?」
そこに、パンの入ったバスケットを持ってきたミトが向かいに立った。と、急に目元を険しくして、鼻を鳴らして柾たちのほうへ体を倒した。
柾たちがすっと上半身を傾けつつ、固唾を飲む。
「あなた、臭いわよ」
ミトはそう言って柾をじっと見つめる。
「放っておいて。これでも身体は拭いたもん」
柾は頬を膨らませて抗議する。磯臭いことは重々承知しているし、面と向かって言われた気恥ずかしさに顔が熱くなる。
「だったら、洗い足りなかったのよ。オーデコロン貸してあげるから、あとで取りにいらっしゃい」
ミトはバスケットを置くと、長椅子につき右足を面倒そうに運んでテーブルに向かい合う。
フォノはさっそく黒パンを一つ取って、テーブルにあるナイフでスライスしていく。
「ミトさんは今日、どうしていたの?」
フォノがスライスしたパン二切れをミトに渡しながら、素朴な質問を投げかける。
「今日は掃除と鶏の世話、あと食事の下ごしらえをしてたらあっという間だった。ひさびざに充実した一日を遅れた」
ミトははにかんで、パンを手前に持ってきた皿に乗せると瓶詰ジャムのふたを開けて、スプーンでパンの上に塗った。
「あなたたちは相変わらず、〔アル・ガイア〕に付きっきりね。楽しい?」
「うん、まぁまぁ」
柾はあいまいに答えて、冷たい水を口に含んだ。詳しいことを話しても理解されそうになかったし、心配をかけるわけにもいかない。
「今日はちょっと慣らし運転」
「そう。それでびしょ濡れで帰ってきたの?」
「海にまで行って、そしたら――」
結子は言いかけて、柾のほうをちらっと横目で確認する。彼女は小さく顎を引いて見せて浮かない顔をした。言うな、と示しているのだろうことはすぐにわかった。
「――ちょっと海岸で遊んでたら、柾が海に落ちた」
「アハハッ。柾だもんね。しょうもない」
ミトはけらけら笑いながら、パンをかじる。
「そうなの。しょうもないことで、危ないことをするんだから」
フォノは全員分のパンを配り終えると、残った分をバケットに戻してナイフをテーブルに置く。
「それに付き合うあなたたちも、そうとう変わってる」
ミトが意地の悪い笑みを浮かべる。
柾たちは他愛のない会話で冗談を言う彼女の反応に心底ほっとする。艦長をしていたことろよりものびのびしているように見えたからだ。
「ミトさんも、フォノまで何さ」
柾はカップを置いて、くすくすと笑うフォノを睨んだ。
「ごめんなさい。けど、そうでしょう?」
フォノはチーズをパンに乗せると上品に食べて、口元を掌で隠す。
「お嬢様はお転婆ですもの」
「言えてる。もう少し落ち着きが欲しい」
結子がぼそりとつぶやいて、パンを一口大にちぎって食べる。
友人にまで言われたい放題に言われて、柾も悔しくて仕方ない。だが、彼女たちの意見はもっともで言い返す言葉も見つからない。
ミトは三人のやり取りを眺めながら、チーズをかじる。
「今くらいの大人しくてかわいい服着てれば、器量よしの女の子なのに見えなくもないのに。もったいない」
「好きできてるんだから、いいでしょ。動きやすいし、マフラーだって暖かいんだから」
ミトの意見に柾は不満げに言った。一応、それなりのこだわりがあってズボンやワイシャツを着ているのだ。
「いつも野暮ったい服装だから、男の子と間違えられるのよ」
「明日から、この格好にする?」
左右からも勧められ、柾は今一度自分の着ているセーターの裾を引っ張った。膝元まであるセーターは、妙に股下が風が通って違和感がぬぐえない。
「絶対嫌。動きやすい方がいいに決まってる」
「可愛さよりも実用性」
「花より団子っていうこと」
フォノの呆れた声に、結子が面白がった声を重ねる。
「何それ?」
「ヤーパンの諺。フォノのいったことと、同じ」
結子の説明に柾は複雑な表情を浮かべて、マヨネーズをパンに塗る。それからチーズにサラミ、野菜の漬物を載せて強引に挟んで食べる。
その様子をミトはほほ笑みながら言う。
「賑やか元気なこと。でも、明日からまた食事は切り詰めていくから、食べられるうちに食べちゃいなさい」
柾たちは不安げな表情で彼女を見る。
「やっぱり、買い物は難しい?」
結子が問う。
「物の値段がすごいからね。氷を売りさばいても全然収入にもならないわ」
ミトはそう言いながら、はたと目の色を変える。
「ねぇ、今日海に行ってきたのよね? 見物人とか、騎士団とか、なんだか物騒なことになってたみたいだけど……」
「う、ん。貿易船の事故が多くてその調査があるんだって朝聞いたよ」
柾はいぶかしむミトの顔を見ながら、愛想笑いを浮かべて答える。
北海に〔マーマン〕と呼ばれる怪物がいることを思い出して戦慄する。ミトならば、その存在を話せば信じてくれるだろう。そのせいで、不安な気持ちにさせるわけにもいかない。
ミトはフォノと結子の様子を見て、肩の力を抜いた。
「そう……。早くどうにかならないと旅をするどころか、生活もできないわ。土地を分けてもらうにも干拓だものね」
ロッテルダムの近隣の土地は、農奴として働くにも簡単に受け入れてくれるはずはない。干拓で土地を開いて、さらに土地を使い物にするにも何年とかかる。土地を貸してくれ、といったところで貸し与える土地は水没して、開いた土地を提供しようにも割に合わない。
「早く問題が解決すればいいのだけど……」
ミトの言葉に、柾たちは胸がつかえるような気分を味わう。
問題の原因が自分たちに直接関係しているわけではない。しかし、解決できるかもしれない力は持っているのだ。それはミトや〔エクセンプラール〕のみならず、多くの人の手助けになるかもしれない。
きっとそれが正しいことなのだ、と彼女たちの良心が胸の内にささやきかける。
「ニシンも食べられそうにないわ」
ミトはがっくりと肩を落とす。
「そんなことないよ。明日にでも釣りに行って、たくさん取ってくるよ」
柾は胸を張って、そう宣言した。それからぶかぶかのセーターがずれて、肩が大幅に露出するのをすぐに直す。
「ありがとう。期待してる」
ミトは柾のいうことを冗談交じりに受け取った。
「ニシン料理って何があるかしら?」
「揚げ物、おいしいかも」
フォノと結子も乗り気でおいしい想像を膨らませる。
「揚げ物ならあたしに任せてよ。お母さん直伝の料理、披露しちゃうよ」
柾が自信満々に言うと、フォノたちから感嘆の声が上がる。
柾たちにとっては、それで怪物と立ち向かう理由は十分であった。市場云々などよりも、目の前にいる人の笑顔が見たいから、頑張ろうと思う気持ちが大切なのだ。




