~古都~ 図書館の不思議
ライン河の西側に足を踏み入れて、柾たちは渡る前の温和な空気とは違う澄ました雰囲気に気持ちが引き締まる。
象徴的な大聖堂を回って、工業区へと繋がる大通り。その角にあるレンガ造りの大きな建物には、厳かに図書館の看板がぶら下がっている。ノード教会に付属する修道図書館であり、出入り口には憲兵を務める駐屯騎士がいる。
柾たちはその施設を見上げて、感嘆の声を漏らす。
石段を上り下りして過ぎていく人々は総じて若く、その手には革製の学生鞄を持っているものが多い。身にまとう衣服は華やかで、青春を謳歌する気風が満ちている。彼らの視線に肌がちくちくするも、気にしている暇はない。
「よしっ」
柾は意を決して、バックパックの肩紐を寄せて石段を上る。そのあとをフォノと結子がついていく。
出入り口の大きな木戸にまで来ると、すっと憲兵が彼女たちの前に躍り出る。
「こら。ここは一般人は立ち入り禁止だ」
「どうして? だって、図書館でしょう?」
柾は体を張って通せんぼする憲兵の横を行こうと体を傾けると、彼もまたその方に合わせて足を広げて見せる。帯刀する剣が揺れた。
「市民図書館ではない。学者さんが利用する大学図書館なんだ。君たちは旅行客かい?」
憲兵は淡々と言って、フォノと結子に目を配らせて牽制する。
出入りする学生たちがくすくすと笑っているのが少女たちの耳に入る。無知な子供が駄々をこねていると思っているのだろうか。
柾は一歩下がって、憲兵の顔を見上げつつもう一人の憲兵が不審そうに近づいてくるのを視界に入れる。
「じゃぁ、市民図書館の場所を教えてもらえませんか? どうしても、調べたいことがあるんです」
「残念だが、この町に市民図書館はない。それに、市民でない者はふつう利用できないよ」
「そんなぁ……」
柾は肩を落として、口元を尖らせる。
「けど、貸本屋とか、本屋さんとか、ありますでしょう?」
フォノが続いて質問をする。
道を塞ぐ憲兵はフォノに視線を向けると、困ったように息をついた。
「そういう商売品は高くつくぞ?」
「そうなんですか? 困りました……」
フォノは俯いて、口元に細い指を当てた。憂うような視線の動きをして、憲兵たちの表情を上目づかいに窺う。
その様子には一回りは年上の男でも、ドキッとする愛くるしさがあった。
「とはいわれても……」
「交易が盛んなら、いろんなところから本が集まる、ですよね?」
結子が確認の意味を込めて憲兵に問うた。
女の子三人に言い寄られる憲兵はタジタジで半歩後退ってしまう。子供を邪険に扱うのはどうかという良心の呵責もあったが、背は小さいものの可愛げのある子たちである。仲良くなりたいと思う助平心だってある。
「そうだ。学者さんのための、な」
見かねたもう一人の憲兵が柾たちによって高圧的な態度で圧倒する。
柾たちも思わず体を引いて、その男の武骨な体躯に目を見張る。彼の野太い腕なら、柾たちの細い腕など簡単にへし折ってしまいそうだ。
「悪いが、俺たちも忙しい。聞くこと聞いたんだろ? 帰んな」
「けど、調べ物が……」
「なんだと?」
武骨な憲兵は剣に手を回した。
柾は恐怖で髪の毛が逆立った。威嚇のそれだとわかるも、留め具に指をかけているのを目にすると抜刀の用意がある。切りつけたいというよりも、刃を白日の下にさらしたい欲があるように思える。
「わかりました……」
「柾、いいの?」
「迷惑なんでしょ。仕方ないよ」
柾はフォノにそう返して、憲兵たちに一礼すると踵を返して石段を下っていく。
フォノと結子は柾と憲兵を見比べて、騎士たちに同じように一礼するとマフラーの少女を追っていく。
大通りに沿ってしばらく歩いて、さっと路地へと進んだ。そこは背の高い家と家の間の日陰の細道で、人通りも少ない。
「どこ行くの?」
結子がショルダーバックの肩紐を握りながら、先を進む柾に言った。
「図書館の裏口。どっかしら、入るところがあるはずでしょ」
「さっき仕方ないって言ったじゃない。嘘なの?」
フォノが早足になって柾の横につく。
柾は図書館の方角を確認しながら、入り組んだ路地を歩いていく。その足取りはたどたどしいものであったが、下がろうとする意志はない。
「嘘じゃないよ。仕方ないから、こっそりしましょって」
「なんて、小賢しい」
フォノは路地の角から顔を出して、周囲を観察する柾に呆れてしまう。
「そうしなきゃ、駄目な時もある」
結子がフォノのふくれっ面を一瞥して、前を行く柾の後を追った。
「だからって、今やること?」
フォノも続き、ひときわ大きな建物がそそり立つのを家々の隙間から見つける。小高い山のような煉瓦造りの建造物が日陰を作っている。
図書館の裏手らしく、人気は全くない。高い位置にある天窓、湿っぽい空気が漂い、一段高い土台が目につく。その外縁を回って、柾が突き当りで顔を出して制止する。
「裏口、発見」
「鍵がかかってるんじゃないの?」
「お昼だし、人もいないから、そうかも」
三人は体を積み重ねるようにして、角から顔を出して裏口の戸を見つめる。午後の日差しがある路地で明るい。人通りはなく、隣近所の家から漏れる談笑の声が聞こえた。ちょうど、お昼時で人が集まっているのだろう。
一番下にいる柾は伸し掛かるようにする二人に辟易する。
「あたしが開けてみるから、二人は見張りをして」
「できるの?」
「やってみないとわからない」
そういって、柾が小走りに出て行き、フォノと結子が路地に倒れ込む。
柾は小さな石階段と手すりを視界に入れつつ、素早く駆けあがりドアに張り付いた。ドアノブに視線を落とし、鍵穴を確認する。
「大学図書館でも、鍵穴がこれなら……」
柾は屈んで、ウォード錠と呼ばれる鍵穴を見つめる。広く大衆化された錠前であるが、セキュリティーは完全とは言えない。手先の器用な悪戯小僧なら、針金で格闘すれば空けられてしまいそうなほどだ。
そういう悪知恵もつけてしまった技術士のお嬢様はポケットから秘蔵のアイテムを取り出す。リングにジャラジャラとついた金属棒。先の曲がった串ほどの大きさをしたものだ。
あとから遅れてフォノと結子が周囲を警戒しつつ、開錠作業に入った柾に小声で言う。
「これって悪いことよ、柾」
「そうだけどっ。どうしても、知りたいの。〔アル・ガイア〕のこと……」
柾は先送りにしていた〔アル・ガイア〕の究明を急ぐ気になったのは、機体が見せた映像がまずその原因だろう。でなければ、もっと善良な活動でのんびりした研究をしていくつもりだった。
フォノと結子は緊張しながら、その言葉には同意である。
「開けられる?」
結子が急かすように言う。
柾は鍵穴を見つめて、金属棒を使って試行錯誤をする。複雑な構造ではない。時間はかからないという自信が湧いてきた。
「これくらい、小さいころあった複雑なものに比べれば————っと、開いた!」
柾は金属棒が回り、会場の手ごたえを覚えて言った。
「二人とも」
警戒に当たっているフォノと結子を呼ぶと裏口を開けて中に入った。
暗がりの通路。微かに向こう側から光が漏れており、通路の全体像を捉えることができる。冷たい壁と低い天井、床板の木目、かすかに聞こえる足音。
「もう少し、ちゃんとできないの?」
少しからそんな声が漏れて、三人は屈んでいた腰をさらに落として足を止める。
「利用者は多いんです。探すのだって、手間はかかります」
「ハァ……、面倒なんだから。休憩が終わったらにしましょう」
柾は少し進んで、職員の休憩室らしいところ見つける。後に続く、二人を制しながら覗き込んでみれば、何人かの男女が簡単な昼食を取ろうとしている。
暖炉やお弁当に夢中で、柾に気付いていない。視線も談笑する仲間内の中を飛んでおり、出て行こうという目配せはなかった。
柾は振り返って、一つ頷くとフォノと結子もその反応に応える。
バッと体を小さくしながら通路を駆け抜ける。風を切って、鼠のように。
「誰かいるの?」
かすかな足音の連打に気付いた職員の一人が、間口の方へ行った。その時には柾たちは先へ進んでいたが、彼女たちの心臓は止まりかける様な緊張に襲われていた。
あと少しで通路を抜けようというときにその足が止まる。
「気のせいでしょう? こんなところに入るの、鼠くらいじゃないの?」
「そうだったら、駆除だって必要になるわ」
「そうね……」
職員たちの会話を背に受けて、柾たちは止めていた息を吐き出す。
「緊張する……」
柾はそんなことを零して、ゆっくりと前へ踏み出す。
「心臓に悪いわ」
「早く済ませよう……」
フォノと結子は全身に沸き立つ冷汗に顔を顰めながら、柾の後を追った。
そして、通路を抜ける手前で凄まじい空間を目の当たりにする。
高い天井と天窓からこぼれる日差し。目に入ってくる本棚の壁、隊列、かけられた梯子。そして、足元の絨毯。中二階に上がる階段を首を出して確認すると、思わず息を飲んだ。
「オジサン家の図書室よりすごい……」
柾はかつて住んでいた伯父の家を思い出して、比べたがそんな個人的な書庫など目ではない蔵書量である。
三人は靴越しに絨毯の柔らかい踏み心地に驚いたが、目に映る本の数々に目が回りそうになる。
「あっちの方はカウンターになってるの?」
「けど、ここからどうやって探すの?」
フォノはきょろきょろとして目当ての本を探そうにも、それだけでかなりの労力を使ってしまいそうだ。時間もあまりない。
「目録くらい、あると思う」
「カウンターにでしょ?」
結子の言葉に、柾が反応してカウンターへと急いだ。
カウンターには受け渡し口の小さな窓があり、そのほかを高さ三メートルほどの木の板で仕切っている。閉架図書館らしい閉鎖的なやり方で、今はその窓口も閉ざされている。薄い仕切りの向こうでは、大学生たちだろうか。談話の声が聞こえる。
三人はその声におっかなびっくりしながら、カウンターから目録の本を取り出す。バインダー方式に止められたもので、ジャンル、著者あるいは作品のアルファベット順に編纂されたものだ。目録だけで百科事典並みの巻数と厚さがあった。
「この中から探すの?」
カウンターに乗せられた一冊をめくって、フォノが小声で音を上げる。所狭しと書き込まれた書名と配架の番号だけではちんぷんかんぷんである。
内容の詳しい説明などはなく、件名から内容を想像するほかない。
柾も仕切りの向こうからこぼれる声に気を配りながらも、目に飛び込んでくる文字の乱舞に頭が熱くなる。
「調べなきゃいけないの。とりあえず、民話とか、アーデル・ヴァッヘの歴史あたりを探そう」
とはいえ、目録の大きさに圧倒される柾とフォノは扱いに困っていた。
だが、結子は素早くそれらの項目を見つけては、近くにあった羽ペンを取ってインク壺に軽くつけて藁半紙に書き込みをしていく。そのペン捌きは鮮やかで、素早い。早くも一〇の資料に見当をつける。
「二人とも、あたしが書きだすから、探してきて」
「助かる。フォノ、お願い」
結子が柾の言葉を聞いて、メモ書きをフォノに渡す。そして、次の検索に映った。
フォノはショルダーバックの肩にかけている肩紐をたすき掛けにしながら、メモにざっと目を走らせる。
「見つけた本はどうすればいい?」
「えっと…………、覚えて。元に戻して」
「本当に、思いつきなんだからっ」
「ごめん。それで、探し終えたら、ここに集合でいい?」
ばつが悪そうに手を合わせる柾にフォノは頬を膨らませて見せる。
「わかったわ。けど、今度から結子にプランを立ててもらいたいわ」
忠告と皮肉を言ってすぐに本のありかを探しに出た。身に沁みついた猟師としての静かな足運びと機敏な動きで、本棚の間を駆け抜ける。
その後ろ姿を見送りながら、柾は小さくため息をつく。
「盗むわけにもいかないんだから……」
「柾、これ」
「うん。ありがとう」
柾は結子からメモを受け取る。
「これで全部?」
「きちんと整理されてるかわからないけど、たぶん」
「けどこれ、番号が近い順になってるから、探すのに便利だよ。行動は迅速にしなくちゃ」
柾はメモをひらひらとさせて、結子の細やかな気配りを言った。
結子も少し誇らしげに頬を誇張させると、自分の分のメモを持つ。
そして、互いに一つ頷いて書籍の探索に入る。
「一応探しては見るけど…………、これかしら?」
いち早く探しに出ているフォノは中二階に続く階段を横目に、メモに書かれている冊子を見つける。ハードカバーのような立派な装丁がされている書籍は高価で、いくら印刷技術が進んでいても蔵書される本が丈夫なわけではない。だから、大学図書館、修道図書館が写本とはいえその保存に熱心になる。
閉架式で貸し出しがないのは、この時代では当たり前だ。貸本屋といった営利目的でない限り、本を無料で貸し出そうとするシステムはまだまだ先になる。
フォノはパラパラと柔らかい紙面をめくり、目次に目を走らせる。
「ケルン周辺の民話集……。色々あるのね」
内容は児童向けに近い短編集である。英雄譚から動物寓話、説話を中心に編纂されている。その筆者もまちまちで、名前のないものや教会の教典から出されたものと数々ある。
フォノはふと目次の一篇に目が止まった。
「これかしら? 『空の金魚鉢と空飛ぶ魚』……?」
配当ページをめくって、さらさらとその文章をかいつまんで覚える。
内容は中身のない空想話である。
空よりもっと上、夜空の世界に浮かぶ無数の金魚鉢。そこを行き来する不思議な魚の生態を綴った物語。魚たちはお腹にたくさんの卵をかかえて、金魚鉢で子供を育てるという。
が、その卵がたくさん増えてしまい、とうとう金魚鉢がひっくり返ってしまう。そのあふれ出た水は大地に降り注いで洪水を招き、零れ落ちる砂が木々を覆い尽くす。こぼれた卵は地面に激突して破裂する。小魚は太陽に焼かれて死に絶える。
空の魚たちは金魚鉢を出て、遠くの空を目指して旅立っていく。広い広い海へ見つけるために。金魚鉢は廃れて、やがて砕けて星々の輝きとなる。
「この、卵が破裂するのがあの映像のことを指すなら、ムーアの地形とかもわかる。けど、柾から聞いた話と違うし……、どうなのかしら?」
フォノは顎に細い指を添えて悩みながらも、本を棚に戻す。
柾から聞いた話は天の島国からの神罰の矢でムーアの土地は焼かれたと言っていた。又聞きだから確証はないが、それと近いニュアンスはある。
「子供向けだもの。もっと、手堅いものはないかしら……」
フォノはメモに視線を落として、新たに探し物に出る。
「…………」
一方で結子は中二階に上がり、巻物が保管されている棚の一群を目指す。階段を上がりながら、振り返るとカウンターの向こうの閲覧広間の出入り口が見える。そこを出入りする人影を見るたびに喉が渇き、腰を落とす。背の小ささが幸いして、広間からは動き影を見つけるのは難しい。
結子は素早く棚の陰に隠れると、手にしたメモを頼りに棚の番号を指差して探す。そして、合致するものを見つけると巻物を手に取る。
「古代語……? これじゃない……と思う。これだ」
いくつか手に取って、ようやく表題とメモの表題が一致するものを見つける。とはいえ、巻物のほとんどが輸入品、あるいは古代の貴重文献のレプリカであり、古代文字や外国の言葉、文字が劣化しているものもある。
その中で手に取った『古代機械群像』という巻物はパピルスでできたカサカサの手触りのものだったが、表題は新しく付け替えられたものである。
巻物を開くと今にもちぎれてしまいそうなほど質が劣化しており、結子も肝を冷やしながら慎重に中身を確認する。
「古代語で書かれてるけど、この絵はアーデル・ヴァッヘとか、かな……」
結子は棚の影の中で、描かれている絵画を見つめる。
書かれているのは、抽象的な〔AW〕の創造物語。
空を埋め尽くす歯車。どこかの工場を連想させる。そこから降りてくる手や足といったパーツが神様だろう人の指揮のもとで地上の人型にはめ込まれている。そして、歯車の隙間に浮かぶ月か、太陽か、それとも違った惑星のシルエットから零れ落ちる雫に満たされる。
人間の手を借りずにヒトの形を与えられる〔AW〕の群れ。背後には〔バイン・シフ〕らしい影もあった。それが人々らしい小さな影の前に現れて、跪くのである。
ふと結子は思った。
「アーデル・ヴァッヘってどこで作られてるんだろう?」
以前に柾の伯父の工場にいたころも、運ばれてくるのは破損した〔AW〕や出来合いの部品である。初めから、それこそ内装から外装まで作っている光景を見たことがない。外装の鋳型とか、操縦席の操縦桿のような小物ですらおいていなかった。
次々とくる機体を人を使って、装甲の研磨や断線したチューブの交換、出来合いの各部をはめ込んだりしていた。機械の病院、といった印象がしっくりくる。
「いろんな土地を見てきたつもりだけど、部品を製造しているところすら、見たことがない」
結子は短い人生を振り返って、特にフライハイトで活動していたころのことを思い出す。工場はどこも修理工ばかり。ギルドも技術士も、設備の差はあれでやっていることは修理だ。
「今までどうして、そういう欠落、考えたことなかったんだろう……」
改めて見れば、誰でも気づきそうなものである。
〔AW〕や〔バイン・シフ〕、あるいはバイン・アウトーまでもどこで設計されて、どこで開発されて、誰が作り上げたのか、疑問に思うはずだ。
が、それがなかった。現実問題として認識していなかった。ただそこにある“便利な道具”で完結していた。
急に背筋に悪寒が走り、肌が泡立つ。言い知れない不安が胸を穿った。
「これっておかしなこと、のはず……」
結子は戦慄しながらも、柾が調査したがったのも虫の知らせがあったからだと考える。
柾は彼女たちよりもさらに奥、法典や貴重書が集まる一角に来ていた。オリジナルの書籍がある厳かな場所で、他とは区分けされるように柵で囲まれている。その柵にも施錠がされていたが、それを解いて中を閲覧していた。
「扱いには気をつけなきゃ……」
柾はガラスの張られた戸を開いて、鮮やかな装丁のなされた本を一冊手に取る。ふわりと古びた本の匂いが鼻をくすぐり、つま先立ちする足元が震える。
赤茶けた天の部分や刺繍のほつれた表紙からは相当の年季を感じさせるものがあった。巻物ほどではないも、貴重な資料として大事に保管され続けている威厳らしいものはあった。
タイトルは『創造神説話集 第三巻』という全一〇巻あるものである。幼いころにフォノのもとで呼んだ絵本の原典である。もっと綿密で深い話を散文的にまとめたもので一般でも写本が出回っているが、挿入されていない物語もある。
その中の一説に、『滅びの地と黒騎士』の詩が記載されている。
『無情なる地、
無状なる我、
古謡に謳う花弁の園はいずこかへ消えてしまった。
疫病の砂塵と覆いかぶさる灰色の落とし蓋、
仰ぐ我に光のヒトカケラをも見せぬ。
ああ、渇望する日差しの暖かさ、そよぐ風香の心地よさを思う。
故郷の地よ。
郷里のライ麦畑の実り。
我は忘れじ彩ふ景色。
朽ちた鎧の錆の苦さ、
砕けた兜の棘の傷み、
黒の色は我には重い。
もう一度あの地へ帰らんを誓う。』
柾には詩的な表現をうまく理解できるだけの学はない。情緒的で繊細な表現だとは思うも、その意図することまでは読み取れない。
それでも、わかることはある。
「似てる……。〔アル・ガイア〕が見せた光景と……」
灰色の空と灰塵の降る暗黒の世界。
この詩篇に記されている情景と同じではないだろうか。創作で生み出されたにしては、できすぎていると感じてしまう。
「本当は昔に起こったことなのかもしれない。この本に書かれていることは……」
誰もが知るお伽噺。空想の世界。
それがこの星の、ひいては人々の過去を語る物語であるなら、なぜこうも現実と受け入れられないのか。語り継がれていく中で、風化して誰の心にも残らなくなった傷となる
時の非情か。
それとも、人の無情か。
柾は古びた本のページが語る世界が本当とするならば、と夢想した。
「だから、〔アル・ガイア〕はそのことを思い出した。この詩のような悲しみをかかえて」
やるせない気持ちを抱いて、柾は一小節を指でなぞる。
『我は忘れじ彩ふ景色』
故郷を思って、帰りたくて、それでも進む鎧の騎士。
もしかしたら、〔アル・ガイア〕も同じようにこの旅の中で思い描いているのかもしれない。少女三人の手を借りて、進むしかない今を。
と、頭の奥に響く声があった。首筋がピリリと痺れるのを感じて、アクセサリの無線だと瞬時に気付いた。
「柾、そっちに二人が向かったわ。気を付けて」
本棚の陰に隠れてフォノが階段を上がる男女を監視する。一人はここの職員、もう一人は黒色の外套を身にまとった待つメガネの男であった。胸には十字のアクセサリを下げており、司祭の役所にあるとフォノは思った。
「え? 嘘。冗談でしょ……ッ」
柾は慌てて、本を棚に戻すうちにも近づいてくる足音に身の毛が逆立つ。
そこに中二階の巻物だなの影から眺める結子が言う。
「もう近い。隠れて」
「隠れるたって————」
柾はパニックになりそうな頭で、本を仕舞いガラス戸を閉じる。出て行く余裕はない、と判断しながらも、あたふたとあたりを見回して。
ふと本棚の下段に小さい戸棚を見つける。一か八かで開けてみれば、小道具が少し入っている程度で柾が隠れるには十分なスペースがあった。
「どうか、見つかりませんようにっ」
小さく祈って、柾は体を小さくして戸棚の中に隠れる。閉じてみると、スペースギリギリで少しでも動こうものなら、戸口を開けかねない。
湿っぽい木の匂いに包まれながら、すぐそこにまで来た足音に息を止める。
「ここ、開けといたのですか?」
「いいえ。あら、錠前が……」
柾は思わず口元を手で覆いながら、震える体を沈めようとする。
外で見守るフォノと結子も固唾をのんで貴重書の区画を見守る。
「しっかりしてくださいよ。貴重書があるのですから」
司祭の大らかな声。
「管理はしているつもりです。鼠の仕業かしらね……」
女性の司書の訝しむ声とガラス戸が開く音。
柾は胃が裏返って、吐いてしまいそうな緊張感に襲われる。もし見つかったら、どうなるだろうなど考える余裕はなかった。
犯罪行為をしている自覚があったから、見つかったら最後修道騎士団に連行されてしまう。
それは嫌だ、と頭の中で強く念じながら二人が何事もなくこの場を去ってくれることを願った。
「駆除は早めにしてくださいよ。本を齧られても困りますから」
「それにしても、大学の研究資料で持っていくっていきなりではありません?」
「学生の刺激のためにも必要なのです。が、何ですかね……。そういう要請が上からあったものですから、私の方も急だったのです」
司祭の言葉にも迷惑そうな色があった。
大学はスコラ哲学、神学を筆頭にしながら政治や歴史も学ぶ幅広い機関。そこの学生達もまたその卵で数々の議論を交わし、新解釈を発表していくのだ。
議論の場に貴重書を持ち込むことは珍しくはないのだが、秋の時期にそうした議論を交わす機会は少なくなっている。が、飛び込みの解釈の発表があり、ケルンの大学で品評会が急遽模様されるようになったのだ。
司祭も司書も得心のいかない顔で、資料となる貴重書を手に取っていく。
そのたびに棚にはゴトゴトッと不吉な音が響き、柾は体を強張らせていた。
その時だった。すぅっと風に乗るかのような『声』が耳元に囁く。
「……聞け、神の子らよ」
その声には司祭と司書、それに柾、様子を窺おうと接近していたフォノと結子にまで届いた。
壁一枚を隔てて聴いているかのようなくぐもった声で、全員がきょろきょろとあたりを見渡す。
「聞きましたか?」
「ええ……」
本を手に取った大人たちも目を丸くして確認を取った。
「これより、この地に攻め入る者あり。用心せよ……」
今にも消え入りそうな『声』が警告する。
「そして、北の地にて目覚めた黒の悪魔を早急に葬れ。災いを呼ぶぞ。災いを運ぶぞ……」
柾たちは背筋が凍りついて、『声』が示すモノが〔アル・ガイア〕と思った。
困惑する司祭であったが、天を仰いでおずおずと口を開く。
「我らが主、いえ、主様であるならば、どうすればよろしいのでしょう?」
少しの静寂を置いて、『声』は語りかける。
「黒の悪魔は南へと下がる。使いにはうら若き少女、三人」
フォノは声を上げそうになって口を塞いだ。そして、あたりに視線を走らせるが人の気配などない。
大地の底から湧き上がっているのか、空の向こうから降り注いでいるのかもわからない。
結子も冷や汗を流して、その場で固まってしまう。
そして、決定打を『声』は授ける。
「一人は東より来た異邦の乙女、一人は金の髪を靡かせる乙女、一人は東と西の血を引く乙女である」
柾は卒倒しそうになる。頭がくらくらして、耳を塞ぎたい気持ちに駆られたが、粗くなる息を隠すのに手は塞がっている。
司祭と司書が顔を見合わせて、まだ納得のいかない顔をする。
と、『声』は霧散するように最後の言葉を残す。
「おぬしらの足元にある戸棚に、一人、おる。用心せよ……」
「戸棚? 戸棚って……」
司祭がおっかなびっくりに一歩引いて、本が詰まったガラス戸とは別に下段に設けられた道具入れの戸を見つめる。
まさか、と司祭は苦笑いを浮かべる。司書もまた同じだ。
「確かめてみましょう」
司書が冗談めいて言った。お互い同じ声を聴いたとはいえ、何あの空耳という可能性だってあるのだ。
司祭は促されて跪き、戸に手をかけようと指先を伸ばす。
「————ッ」
緊張を解いたのは、フォノだった。手近にあった本棚の本を雪崩のように床へぶちまけた。その音が静かな書庫に響いた。
司祭と司書がその音に度肝を抜かれて、視線が反射的に向いた。
が、その音は柾の我慢の限界をも決壊させてしまう。息を思い切り吐き出して、彼女の小さな体が戸を破り、床に転がった。
それには大人二人も即座に反応して、立ち上がる柾を見て絶句する。声の言ったことは本当だったと恐怖と歓喜と、神の存在を認めざるを得ない瞬間であった。
「あ――――っ」
柾は呆気にとられている司祭と司書を一瞥すると、震える足に鞭打って走り出す。
遅れて、司書の悲鳴が上がった。金切り声がホールを駆け巡り、その場が凍てつく。
だが、走り出した柾はさらに熱くなる自身の血潮に恐怖する。フォノと結子もまた沸騰する血液の熱さを感じて体を動かす。
焦りが彼女たちを駆り立てる。
「柾、大丈夫?」
「フォノ、それに、結子!」
「逃げよ」
柾は階段に差し掛かり二人と合流すると、侵入した通路を目指そうとした。
「おい。何事だ!? 何かあったんじゃないのか?」
と、通路の方から動揺した声が響いた。
急停止して、体を翻す。
三人は本棚の列に戻るなり、カウンターの方へ走った。だが、近づくたびにそり立つ巨大な仕切り板に柾たちの心が締め付けられる。
「何か、使えるもの————。梯子!」
カウンターについて息を整える中、柾は本棚にかかっている長い梯子を目にいれる。長さは五メートルはあろうかというもので、用意に仕切り板を超えられる。
柾の言葉を受けて、フォノが真っ先に動き、柾もまた梯子へと足を動かした。
「いくよっ。カウンターの方に上を向ければいいの」
「わかったわ。せーのっ」
柾とフォノは力を合わせて、梯子をもち上げてすぐにカウンターの方へ倒した。ぎりぎり梯子の先端がかかり、二人はそれを押し込むようにしてカウンターへと移動する。
奥の方から人の声が響いてくる。
「おいっ!! そこの奴! 何をしている!? 泥棒か!!」
「気づかれた」
結子が背後で指をさす職員を視界に入れる。
柾は梯子を抑えつつ、フォノの背を押して先を促す。切迫した状況で体は勝手に動いてくれる。
「先に行って! 結子も」
「柾は!?」
結子は悲しげな声を上げて立ちどまってしまった。
フォノは先を行き、階段でも上るかのように歩いて見せる。その一歩ごとに梯子がたわむ。
「誰かが支えないといけないの。それに二人が端についたら、絶対大丈夫。いって」
柾は結子のお尻を強く叩いて、梯子を上らせる。
職員たちが集まって、静寂を破る豪快な足音をたてて迫る。まるで闘牛の群れのように鋭い眼光と力強い勢いが柾を圧倒する。
お尻を叩かれた結子も軽やかな身のこなしでフォノの背後へあっという間に追いついた。
二人の体が支点となっている仕切り板を超える。梯子の先は残りわずかとなっており、フォノと結子は柾の思い付きを察した。
ホールにいる学生たちが奇異の目を彼女たちに向ける。
だが、そんなことを気にしている余裕はフォノたちにはない。
「結子! 梃子の原理」
「梃子の原理だけど、柾は本気なの?」
「やるしかないわよ、せーのっ!!」
二人がわずかな先端へ全体重をかけるようにして横並びに足を踏み出す。
ぐわん、と梯子が大きく弓なりになる。軋む音が聞こえ、柾の押さえつける腕に限界が伝わる。
来たっ! 柾は胸の内で叫んでその場で跳ねた。
その瞬間、梯子のエネルギーは一気に爆発した。
「飛んだ!!」
職員の一人が、梯子を掴んで天蓋へと上がる柾の体を指して叫んだ。まるでロープに引き上げられるようにしながらも、梯子は向こう側のホールへと吸い込まれるように滑っていく。
「————っ」
腕を引きちぎらんとする強力な力に柾は顔を顰めて耐える。
一方でフォノと結子は互いに体を抱きしめあって、急に滑り出した梯子に肝が縮み上がる。
まるで曲芸。大道芸人顔負けのアクションに仕切りの向こう側で動揺していた学生たちも三人の少女たちの行動に目をひん剥いている。
「————あっ」
柾は自分の体が頂点に来た衝撃で、思わず梯子から手が離れてしまう。余剰のエネルギーが小さな少女の体を放り上げて、高い天井で弧を描く。
柾は涙目になって、体中から出てくる冷や汗に焦燥感が込み上がる。死んでしまう、という漠然とした予感が全身を駆け巡る。
続いてガンッとフォノたちのいる梯子の先端が床に落っこちて、二人はころころと前転して衝撃を緩和する。痛みはさしてない。大丈夫だ。
そして、二人が目にするのは友人が宙を飛んでいる姿である。
「なんで飛んでるのよ!?」
フォノが開口一番そういった。
しかし、結子はホールの様子を瞬時に判断する。学生たちは驚きのあまり身動きが取れない様子。そして、出入り口に憲兵の騎士が侵入するのをしっかりと捉える。
「フォノ、走って!」
結子はへたり込んでいるフォノの手を引いて、まっすぐに出入り口へと走り出した。
それは柾の落ちていく方向と同じである。
「なんだこれは!?」
「さっきの子供!?」
門前で出くわした先ほどの騎士が向かってくる結子たちとじたばた宙を泳ぐ柾を交互に見て混乱する。
その混乱に乗じて、結子とフォノの体当たりで一人を蹴散らし、柾の人間砲弾がもう一人を撃破する。
柾は強打した体に顔を顰めながら、下敷きになって目を回している騎士に気付く。
「ごめんなさい。悪気はなかったの——」
「柾、走るわよ」
律儀に謝罪をする柾にほっとしたのか、フォノが柾の手を引いて立ち上がらせる。
通路を確認した結子も二人を急かしすように腕を振って、出入り口に向かって走り出す。
全身が痛かろうが、気持ちの整理がつかなかろうが、息が辛かろうが、走るのだ。
自分たちのことを言い当てた『声』の考察などするまもなく、余裕もなく、今はただ逃げ足だけを動かす。
三人は無我夢中に図書館の出入り口を飛び出して、ケルンの町の中へと逃げ込んでいった。




