~弾劾~ 夜行偵察
山間地帯の夜は身体の芯まで凍り付かせんばかりの冷気に覆われていた。
風はなく、容赦なく降りてくる山の冷気は住まう人々に厳格なまでに自然の掟を染み込ませる。適応できない者から淘汰されていく。植物も動物も順応、共存を果たしてようやくこの自然の中で生きていくことが出来る。
人間にしてみれば、アルプスという天然の城壁を超えてヨーロッパの流通を円滑にすることができるのだ。国交を守ることは人の生きる幅を守るということに他ならない。ひとたび途絶してしまえば、選択肢は狭まり生命線もまた短くしてしまうのも同義である。
「うぅ……」
しかし、流れ着いたばかりの柾たちにこの冷たさに耐える術がなかった。
間借りしている納屋には暖房器具はない。押し込まれている山羊たちは体を寄せ合って暖を取り、寒さをしのぐ。
柾たちもマネて、干草で体を包みながら体を寄せ合う。それでも寒い。とはいえ、納屋の外に出れば氷点下の世界だ。生き物の熱がある分、まだマシな室温を保っている。
「寒い……」
柾はぶるぶると震えながら、布団代わりの干草から身を起こす。
設えてある窓から月光が差し込みわずかに納屋の中を照らしていた。
「ん。帰るの?」
「今日はやめたほうが、いい」
フォノはぎゅっと体を包むマントを引き寄せて、柾の傍による。
結子は干草にうずまるようにして動こうとはしない。
「出たら、寒さで体が持たないよ」
「賛成したいけど、臭いがね……」
柾は立ち上がり、出入り口の方に歩いていく。
少しは温もりがあった干草から出ると、寒さは容赦なく熱を奪う。冷気が一瞬にして服の隙間から入り込んで、全身が震えあがる。
筋肉が引き締まり、歩きまでぎこちなくなる。
「ほら……」
結子は呆れて、ドアへと歩む柾の背中に言った。
「今夜は休みましょう」
フォノは寒さに負けて体を横にして、干草を引き寄せて体にかぶせる。
納屋にいる山羊たちも寝ぼけているのか、メェメェと野太い声を上げた。こんな時間に寒い空気を入れるな、と言っているようにも感じられた。
「ちょっと、外の空気を吸ってくる」
柾はそう言って、マントで手をくるみドアを開ける。
少し開けただけで月光に交じって凍てつく外気が流れ込んできた。ガタガタと立て付けの悪いドアを開けていくたびに、地面で凍り付いた雪が邪魔をする。
昼間ではシャーベット状だったものが、氷になっているのだ。日が沈んで、一気に気温が下がった影響だろう。積もっていた雪などは天然のオブジェの様に塊、家々の庇にはつららが下がっている。
柾は足元のうすべったい氷の膜を見て、注意深く足先を外へと運んでいく。
だが、月光に体をさらした時、ツルッと氷に足を取られて盛大にしりもちをつく。凍り付いた雪は少女の軟かいお尻には硬すぎた。
「あうぅ……」
柾は涙目になりながら、お尻を摩り、冷たい地面に手をついて立ち上がる。
あたりは彼女が思っていたよりも明るかった。煌々と光る月は天高く、ちょうどこの町の真上に居座っている。
大地を見下ろす白銀の瞳の様に丸い月は闇を追いやり、雪化粧を際立たせている。柾は白い月の肌色と今の凍えた大地の肌色が似ているな、と思った。
「……」
柾は振り返り、長く伸びた自分の影法師を見下ろす。
青々と光る氷の上に横たわる濃い黒の影は自分と繋がっているとは思えなかった。奈落を思わせる黒は明るい夜にあっては不安を大きくさせる。しかし、おかしなことには柾の心に不安と共に不思議な感覚を呼び覚ます。
ふつふつと凍てつく夜の中で胸の内は何かを感じていた。素敵なことか、恐怖か、それもわからない。
柾の指先は無意識に首筋に向けられ、マフラーの下にあるアクセサリに触れていた。
目の裏側に映り込む拡張現実情報は〔アル・ガイア〕の情態を逐次更新しているだけで、他は何も目新しいものはなかった。
それでも、何かが訪れる、と心の内で何者かがささやく。
「はぁ……」
白い息を吐いて、落ち着かなない気持ちのまま納屋へと戻ろうとした。
すると、柾の耳に羽ばたきの音が入ってきた。
ハッとして顔を上げると、頭上を大きな鷲が大翼を羽ばたかせて月に向かって上昇していったのが見えた。大鷲が巻き起こす風がわずかに柾の髪を弄び、冷たい風を首筋に当てつけた。
「この時間に鳥――」
柾は徐々に小さくなっていく鳥の姿を目に焼き付ける。
その姿が美しくも思えたが、言い知れない不安感が加速した。
「伝書鷲、なの。修道騎士団がここにいたのとか、そういうの――」
納屋に目を向ける。フォノと結子に助けを求めようと、冷えた指先を戸口へ差し伸べる。
でも、何を言えばいい。
夜に飛ぶ鷲の姿を見ただけで、何の根拠もない不安感を共有できるのだろうか。
柾はしばらく凍り付いたように動きを止めて、少し考えて指先をひっこめる。
「迷惑、かけられないよね。これ以上は……」
フォノも結子も心身ともに疲れている。問題をこれ以上増やしても二人に無用な負担をかけるだけだ。
〔アル・ガイア〕を操ることに抵抗感を抱いているのだ。修道騎士団、フライハイトの影を追うようなことをすれば、自ら争いの種を植えつける結果につながる。
柾はぐっと喉元まで来ている背徳感を飲み込んで、一人宵闇の町を静かに移動する。
バイン・アウトーを見つけて、とにかく鷲の飛んでいった方角へ行ってみる。
「修道騎士団の戦力があるなら、別の道を探さないといけないんだ。偵察くらいなら一人でだって――」
言い訳は思いついた。
柾はしかしそんなズルい考えが嫌になっていた。本質のところを隠す。きっとそれはほかの人には理解してもらえない感覚だからだ。
「あたしはマトモだ――」
柾自身、徐々に自分の異質な感性に気味の悪さを覚えていた。
* * *
南へと抜ける山道は明るかった。
峠を登り、高い位置から見る周りの景色はなだらかな勾配で土の色が目立つ。しかし、真夜中にあってそこは白い荒野の様で、土を押し上げる霜が白塗りの化粧をしていた。
その中に混ざって雪に押し負けそうになっている植物がちらほらあるだけで、岩塊などの遮蔽物は見当たらない。長いバイン・アウトーの影が地表に落ちているだけだ。
「目立つなぁ……」
柾は横目に一層大きく見える月を見て、周囲に警戒する。
隠れられるような場所は皆無だ。夜目の利く者ならば遠くからでもバイン・アウトーの動きだとわかるだろう。
しかし、それは飛ぶ鳥とて同じこと。
高い空を飛ぶ鷲の滑空は明るい夜には目立っていた。
「このまま山を越すというの……」
柾は悴む手でハンドルを握り、バイン・アウトーのわずかに温かいエンジンの温もりで寒さをしのぐ。
山中の原は空気が薄いばかりでなく、吹き付ける風も容赦ない。箒で払うように流れる風はマントを剥ぎ取ろうと薙ぐ。
「あまり長くは追跡できないんだけど」
柾は上空を滑空する鷲を見ながら澄んだ空気に胸いっぱいに吸い込む。
空気があまりにも透明で、土ぼこり一つない冷徹な流れが全身を駆け巡る。
冷えた空気を吸うたび頭に鈍痛を覚え、凍えた息を吐く多だけで真っ赤になった鼻がツンっと痛む。風が全身を包めば指先や足先の感覚も痛みが走る。
空には月光に勝てる星などなく、明るい青色が広がっていた。雲もないこの夜は静かで清らかであった。
次第に峠の頂が見えてきたころ、滑空していた鷲が翼をはためかせて降下していく。
「あの向こうに何かある……」
震える唇で呟いて、柾はバイン・アウトーに体を密着させるようにして低い姿勢を取る。徐々に速度を落とし、鷲の姿が峠のむこうに消えたのを見届ける。
柾は短く息を吐いて、バイン・アウトーを頂の手前で停止させる。アイドリング状態を維持しつつ、降車。
バリッと足元の固い雪が鳴る。
柾はバイン。アウトーのパニアから単眼鏡を引っ張り出して、マントのフードを頭にかぶる。そして、ぎこちなく、背中を丸めて峠を進む。寒さで体中が凍ったように硬く、一歩踏み出すたびに骨がきしむ様な違和感が走る。
歩くたびに氷が砕ける音。それと同じように体のあちこちが痛みとは違う異音を立て、胸の内は不安が膨れ上がる。
気が遠くなりそうな寒さの中で、彼女の耳は奇妙な音を聞き取る。
蒸気が噴き出す、甲高い音。鋼鉄がこすれる鈍い重低音。獣がうたた寝をしているように、その音には力があった。
柾は重い瞼を必死にこらえて、峠の頂に到着する。
「――――!」
そして、彼女は息を忘れて、眼下に広がる光景に目を見開いた。
月下に照らされるのは山に囲まれた窪地。水の音がかすかに聞こえるのは、そこが湖であるのだろうか。
だが、今は鋼鉄の艦隊が築き上げた機械城が君臨している。
〔エクセンプラール〕に似た平べったい甲板を有した運搬艦がひしめき合い、水鉢に敷き詰められた睡蓮の葉のようである。極寒の真夜中にあっては甲板に薄い霜が張り、月明かりを照り返して青白い化粧の様に思えた。
甲板同士の隙間から噴き出した水蒸気が雲海のごとく漂っているのが肉眼からでも確認できる。
柾は息をのんで片膝をつく。地面に手をついても固い氷の感触のままである。
「窪地だけ熱がこもってる……」
呟いて、柾はひときわ目を引くのは天高く伸び上った巨大な構造物に目をやる。
巨大な日時計の針であったら、どれだけ平和的であっただろうか。氷を纏う円筒状の柱はひときわ巨大な戦艦、おそらく艦隊旗艦であろう一隻によって支えられ、静かに佇んでいる。
「なんでこんなところに……」
柾が思うのはその疑念である。
山脈のただなかに要塞を構える必要があるのだろうか。
「あたしたちを南に入れたくないにしても――」
柾は単眼鏡を目に当てて、細部を確かめる。見張り台にはもちろん見張り役がいる。そして、甲板のクレーンによって引き上げられるAWの姿も確認できる。
その形状から修道騎士団の〔カヴァレリー・ポーン〕であることがわかった。
「騎士団がどうして……」
と、単眼鏡を目から離して、視界を広げると戦艦の城塞を旋回する鳥の影を見つける。
「さっきの鷲?」
単眼鏡と肉眼で見比べながら、鳥の影を追いかける。
鳥は間違いなく鷲だ。しかも、足元には何かリボンらしいものをしている。飼われているだとすぐにわかった。
「やっぱり伝書鷲……」
予想通りだが、鷲はすでに任務を終えていたのか城塞の旋回ばかりをしている。
偵察をしているのか、と柾はわずかに姿勢を低くする。しかし、寒さで固まった身体は言うことを聞かず、ころりと仰向けになってしまう。
背中に染み渡る氷の冷たさに鳥肌が立つ。
「マズイ――っ」
そんな彼女の予想に反して、鷲はタイミングを計っていたかのように大空に舞い上がる。そして、柾の頭上を通り過ぎて北上していった。
「戻ってく?」
柾はうつぶせになってから、ゆっくりと立ち上がる。
「何をしようっていうの? 嫌な予感がする……」
柾の勘がそう囁く。
巨大な砲を見てしまっては、この近くで修道騎士団が何かしらを企てていると考えざるを得ない。
思考するよりも前に彼女は再び村へ戻ることに専念した。ここで考えたところで答えなど出るはずもない。寒さで体力もないのだ。
不安ばかりが膨らんで、気持ちは休まらない。
それでも彼女の中にあるのは、無関心でいたくない、ということだけであった。




