第5話 碧伊の家族
碧伊が家に帰ると、玄関に見慣れない草履が並んでいた。
《また、お客さま》
廊下を進むと、座敷から母の声が聞こえる。
「こちらの反物、とてもいい色でしょう」
座敷に行くと、呉服屋の主人が反物を広げていた。
母は楽しそうに、それを撫でている。
何軒かの呉服商の人を見かけるが、門前町の呉服屋の主人が、一番よく来ているようだ。
碧伊が毎月お茶を買いに行く、さくら茶舗の隣にある呉服店の主人だ。
「こんにちは」
「やあ、お嬢ちゃん、お帰りなさい」
と、顔馴染みの主人はにっこりと笑う。
「碧伊と翠がお嫁に行くまでに、ひと通り揃えておかなきゃね」
母は言う。
碧伊も母の隣に座って見ている。
綺麗な柄を見るのは好きなので、傍で見ていたり、自分の着物は選ばせてもらうことがあった。
母の横で、彼らの話を聞きながら色々見ているうちに、碧伊も目が肥えてきた。
自分と娘達の着物を、色々と購入しているが、実は母が一番楽しんでいる感じだ。
母は、洋服も好きで、洒落た洋服を、碧伊や翠に着せてくれる。
しかし、躾にはかなり厳しい。
妹の翠より、長女の碧伊に対して厳しいのだ。門限はもちろん、色々な制約がある。
長女だからということだけではなかった。
「あなたは、千代乃姉さんのようになってはだめよ」
母は、そう言う。
碧伊は、その名前を知っている。
家の古いアルバムに写っていた、美しい女性。
母の姉。
そして……
彼女は人柄も良かったという。むしろ、お人好しと言った方が良いくらいの、優しい人だったそうだ。
そして年頃になった彼女は、何の疑いもなく、知り合った青年とすぐに恋に落ちた。
青年の評判があまり良くなかったので、周囲は心配し反対もしたが、千代乃姉さんは、その男と駆け落ちのようにして結婚した。
青年は、仕事がいつも長く続かず、賭け事にもはまり、ついには親族にも見放されてしまった。
「千代乃姉さんは、それでも別れられなくて。自分もアルコール依存症になって体調を崩してしまってね」
結局、彼女も、親族と縁を絶ってしまった。
碧伊の容姿が、大人になるにつれ、その千代乃姉さんそっくりになってきていると母は言う。
自分の姉と外見がよく似ているという碧伊を、つい姉と重ね合わせて心配し、碧伊に厳しくしているようだ。
碧伊は、自分では、特に似ているとは思わなかったが、いつも横で見ていた母からすれば、血が繋がっているのだから、何となく似ている部分があるのだろう。
外見が似ているというだけで、運悪く不幸な選択をした叔母と、一緒にされて干渉されるのは煩わしい。
そして、母の写真帖の隅の方にあった、1枚の小さな写真。
長髪に着流し姿で腕を組んだ、雰囲気のある青年と、そばに寄り添う着物姿の娘。
千代乃姉さんと相手の青年だな、と碧伊は思った。でも尋ねたりはしない。
母に尋ねると、彼女はまた不愉快になるだろう。
碧伊の家は、少し複雑だ。
父も母も、再婚同士。
それぞれに子供がいて、後から妹の翠が生まれた。
家族は揃っている。
けれど、どこかだけ、噛み合っていない。
義父は無口で、優しいが距離がある。
義兄は――
義兄は――7歳年上で、一緒に遊んだ記憶はない。碧伊たち子供を、いつも馬鹿にしたように見ているので苦手だった。
話しかけても、返事をしないことも多い。
でも、学究肌の父に似て、頭が良いと言うことで、遠方の父の出身校に行っている。
妹の翠と碧伊は仲がいい。
そして女学校生になった碧伊には、学校で男の子達に告白されている一方で、誰にも言えない悩みがあった。
同年代の男の子たちからの、好意やちょっとしたいざこざなどは、それに比べれば他愛のないものだ。
中学生になるより、もっと前から、外では不快なことがあった。
《綺麗な人形のような女の子》
そう言って、不躾な視線を送ってきたり、嫌悪感しか湧かない態度を示す大人達がいた。
小学校高学年の頃、碧伊は、なぜか学校の廊下を走っていた。
そして廊下の曲がり角で、担任の男性教師にぶつかりそうになった。
避けようとしたけれど、教師に絡み取られるように引っ張られ、抱きすくめられた。
その教師は30代で、既婚者だ。
《先生は、危ないので止めてくれたのだろう》
と自分では思うが、違和感が残る。
色んな場所で、父親や、それ以上の年齢とも言える男からの、あまりにも不躾な視線や言葉に、気味悪さを感じることも多かったが、気にしないように努めていた。
それらは、外のこと。
家の中は、安全なはずなのに。
久しぶりに遠方の大学から帰省してきた義兄は、女学校に入った碧伊をじろじろ見ていた。
碧伊は女学校に入ってまた背が伸びていた。
何を言われるわけでもない。
けれど、その視線だけで、少し息が詰まる。
ある夜、部屋で寝ていた碧伊は、微かな物音に気付いた。
夏の空気が、重くて、碧伊は、眠りが浅かった。
暗闇の中に、人影があった。
和室なので、廊下からは障子の引戸になっている。鍵などない。
風が通るように窓も開け、扇風機を回していた。
《……誰?》
目を開ける。
その影は、動かない。
ただ、そこに立っている。
やがて、目が慣れてくる。
見えてしまう。
――兄だった。
両手をポケット入れたまま、薄い寝巻1枚で寝ている碧伊を、眺めている。
《どうして》
「兄さん?」
と、言おうとするが、声が出ない。
身体が動かない。
逃げられない。
声も出ない。
布団もかけていない。
《見ないで》
そう思うのに、
目を閉じることすらできなかった。
どれくらい時間が経ったのか、わからない。
やがて、影がゆっくりと動いた。
そして、音もなく、出ていく。
その瞬間、身体の力が抜けた。
慌てて、布団を引き寄せる。
震えが止まらない。
次の日、碧伊は、それを母にも誰にも言えなかった。
言えば、みんなが困ることがわかっていた。家族が壊れる。
だから、言わない。
兄にも知らぬふりをして、人知れず身をこわばらせていた。
碧伊は、兄にそんなふうに見られていることを、恥じていた。
いやらしい目で見られる自分も、いやだった、
だから、誰にも言えない。
「部屋に大きな蜘蛛がいるの」
そう言って、妹の部屋で寝ることにした。
《家に居たくない》
義兄のいる間は、家に1人で居ないようにする。
外にいる時間を、増やした。
碧伊の両親は、習い事などには、惜しみなく協力してくれるので、書道と茶道と華道に行き、特に時間の空く土曜日の放課後は、近くにある修道館の弓道道場にも通う。
「習い事があるの」
「図書館で勉強してくる」
習い事のない時は、近くの図書館で勉強をすると言って、家を出た。
学校時代から、碧伊に告白して、寂しそうに去って行った少年たちには心が痛んだし、卑猥な大人たちには嫌悪を感じ、千代乃姉さんと碧伊を重ね合わせる母にも息苦しさを感じ、義兄のことでは、家族の中にいても、不安だった。
そうしたことは、少しずつ碧伊の心を固くさせ、それに連れて、顔の表情筋まで硬くなっていくような気がした。
美しいけれど、少し表情の少ない、そんな娘に碧伊はなっていった。




