第41話 帰還した日々のこと
父の会社も、時代の波の中で、大変忙しくなっていた。
そうした日々の中、他の女子事務員も、自分で編んだマフラーをくれたりした。
せっかく労力を使って編んだのだからと、お礼の気持ちを表して、時々使わせてもらっていると、彼女は頬を赤くしていた。
そしてある日、
「私、副社長のこと好きなんです。」
と言われてしまった。
「どうもありがとう。気持ちは嬉しいけど、受け取れなくて、申し訳ない。
でも、是非仕事は協力して、これからも頑張ってほしい。よろしく」
と言うと、納得して、笑って前向きになってくれる人もいたし、青ざめて、しばらくして会社を辞めてしまう人もいた。
傷付けたくはないものの致し方なく、初めて、以前の碧伊が、気まずそうに困惑していた気持ちがわかったと思った。
「年頃の社員は、なかなか難しいなあ」
辞めた女子社員の代わりに、臨時で手伝いに入ってくれた姉に言うと、
「なかなかモテるじゃない」
と言って笑う。
「いや、もてたことなどないよ、もっと若い時でさえ」
姉は、ふうっとため息をついて言った。
「だって、あなたのそばには、誰が居た?
子供の時から、ずっと女神様が一緒なんだもの。」
「え? ああ、碧伊?」
「碧伊ちゃんが、いつもずっと、そばに居たからよ」
「幼馴染だって、みんな知ってたよ」
「いくら友だちでも、碧伊ちゃんがいつも近くに居ると、みんな気後れするわよ」
和史は、思わず苦笑した。
けれど、その言葉を否定する気にもなれなかった。
和史はふと思い出すことがある。
付き合いで飲み会などに行くと、酒が入る。なぜかしなだれ掛かってくる女性がいる。
それも苦手だった。
そう言えば、碧伊はいつも、辛そうなときも、嬉しそうな時も、すっくと、或いは凛として、傍に立っていたなあ、と思い出す。
「てっきり、碧伊ちゃんがお嫁さんになると思ってたけどね。和史がもう少し早く帰れると良かったのに」
姉はそう言った。
その後、どうしても一度会うだけ会って欲しい、という見合いの話が来て、父の古い知人のため、無碍にもできず、向こうの令嬢と会うことになった。
親同士はよく知っているので、会うのは、二人だけで良いだろうということになった。
和史は、ちょうど良い機会を思い付いた。
この町にあるメープルホテルで、毎月催しものがあり、半ば協力会社として、チケットを買っている。
今回は、かなり豪華な晩餐と管弦楽の演奏といった催しと聞いていたので、久々に、親孝行に、母でも連れて行こうかと思っていたが、ちょうど良かった。その女性と、参加することにしよう。
これなら、初対面でも二人だけではないし、気まずい思いをしなくて済むだろう。
その日は、レストランが貸切になって、全ての席は埋まっていて、人々は、おしゃれな服装をしていた。
今日同伴した令嬢は、とても、物静かな感じの娘だった。
彼女は、何かの会合で自分に会ったことがあるそうだが、自分は記憶がない。
確か4、5人の女性グループと、少し話したことがあるが、その時の1人なのかもしれない。
彼女の方から、今回会うのを希望してくれたとのこだが、ちっとも楽しそうでもないし、会話も途切れがちだ。
もしかしたら、彼女の父親がそう言うだけで、本人は、やはり自分と同じように、見合いだの結婚だの、周囲からせっつかれてうんざりしているのもしれない。だとしたら、このご令嬢も、気の毒なことだと思う。
お互いに、二人とも、一度会うという要請は果たしたのだから、せめて料理と演奏でも楽しんで帰ってもらおう、と和史は思っていた。
大方の料理は終わって、最後のデザートの前の休憩になった。
彼女は、化粧室に行ってくると席を立った。
和史は一人で、あたりを見回した。これだけ居れば、知人もいるだろうか。
前方の少し離れた席に、知人の夫婦が仲良さそうに座っているのが見えた。
有名な画伯と彼の妻だ。知人と言っても、父の知り合いで、自分は彼が有名なので、一応知っているといった方がいい。
画伯は以前東京在住と聞いたが、こちらへも時々来るのだろう。
彼の妻は、着物を端正に着た女性だ。
この時間、入れ替わり、立ち替わり、色々な人が、画伯に話しかけている。
そして、その近くでは、催しの担当者の遥佳が、いつものように、スタッフを補佐していた。
* * *
シベリアから戻って、入院、退院し、会社の仕事にも参加してきた頃、久しぶりに祖母や両親と、食事に出かけた。
そこは自分がいない間に、新しく出来たメープルホテルという、洋館のホテルだった。
オーナーは、両親の知人でもあるので、祖父母達は、何度か訪れていたようだ。
まっすぐに入り口まで広い道が続き、門を入ると、木立に囲まれた広い敷地
の中に、洋館が建っている。
天井の高い大きな部屋がレストランになっていて、庭に出ることもできる。メープルホテルという名の通り、大きなもみじの木々が印象的だ。
自分が行方知れずになっていた時、色々な場所に新しいものが始まっていたのだな、と思う。
家族とこうして、レストランでゆったりと向かい合っているのも、1年前の自分には考えられないことだった。
食事を楽しんでいると、両親の知人でもある、このホテルのオーナーの婦人が
やってきた。
「息子もやっと退院して、会社の方でも、主人を手伝ってくれるようになりました」
和史の母が言うと、
「本当に良かったですね。大変な思いをされましたものね。体調はもう大丈夫ですか?」
優しく婦人が尋ねた。
「ええ、良くなりました。ただ、手には少し後遺症がありますが」
和史が答えていると、制服姿のポニーテールの女の子が、飲み物を運んで来た。背筋を伸ばし、にっこりして
「いらっしゃいませ」
と、テーブルの皆に挨拶をした。
「こちらは、お嬢さんの遥佳さん」
和史の母親が説明した。
「初めまして。よろしくお願いします」
「学校が休みの時だけですけど、娘が手伝っているんです」
その婦人が言った。
食事が終わって会計を済ませて帰りがけに、メープルホテルの娘だという遥佳が見送りに来た。
その立ち居振る舞いが、爽やかでしっかりしているな、と思う。
「今日はありがとうございました。
あの、今度こういう催しがあります。いかがでしょう」
そう言って、差し出したのは、《ジャズの夕べ》と題したタイトルの案内状だった。
《そうか、こういうものもあるんだったな》
戦前は、姉がジャズを好きで、和史も曲を聴くともなく、聴いていた。
そう思いながら、和史は、しみじみとそのパンフレットを見た。
あまりにも、この何年間かの自分には遠いものだった。
だからこそ、この機会に一度聴きに来てみるのもいいかと思って、遥佳にチケットを頼んだ。
ジャズの夕べには、沢山の人々が来ていて、進駐軍の人達の姿も見える。
挨拶しに来た遥佳が、にっこり笑って言った。
「今日はいかがでしたか?」
「久しぶりにゆっくりして良かった。でも、うちの姉の方が、詳しくて喜びそうだから、またこういう機会があったら言ってみるよ」
姉は子供がいるが、実家が近いので、預けて来るかも知れないなと思う。
「ええ、ぜひ。大体毎月、こうした催しをしています。内容は色々ですけど。
良かったら、ご案内をお送りしますが」
「じゃあ、会社の方に」
水島は、名刺を渡した。
遥佳の両親と、水島の両親は、戦前から事業をしていたので、顔見知りである。
まあ、知人だし、付き合いの一つでもある。
そして、遥佳に対しては、催しの担当という仕事を、学業の合間とは思えないほど、活き活きと行なっていて、感心もしていた。
主催者の依頼に応じて行なうこともあれば、遥佳が一緒に企画していることもあるようだ。
そんな彼女を半ば応援する感じで、時々チケットを購入し、自分が行かない場合は、人にあげていた。
両親や姉の家族、従業員、取引先の人々など。
ビュッフェコーナーを配置したガーデンコンサートには、若い社員数名を誘って連れてきた。
皆んな物珍しいらしく、喜んでいる。
結構年配の人々の方が、馴れた様子で、お酒や雰囲気を楽しんでいる。彼らは、戦前に、今より華やかで、楽しい時代を過ごしていたようだ。
今来ているメンバーは、戦争中に青春時代を過ごしてきたので、まだそういう経験が少なく、初めてのことにはしゃいでいた。
こうして毎回、催しで出会う度に、水島と遥佳は顔馴染みになり、お互いに好感を持つようになっていった。
* * *
そして父の知人に頼まれて、その見合い相手の令嬢と、フルコースの食事と管弦楽の会に出席していたとき、正直気詰まりな気持ちで座っていたのだが、デザートの用意をしにテーブルに来た遥佳が、世間話の途中で、
「水島さん、私ともお見合いしてください」
と、言ったのだ。
水島は、思わず吹き出した。そして
「本当に?」
と言うと、遥佳は真剣に
「本当です」
と行って、顔を赤くして去って言った。
水島は驚いたが、決して不快ではないことを感じていた。
それどころか、面白く、楽しく感じた。
やがて、席に令嬢が戻って来たが、その後の時間は、気分を楽しくしている自分がいた。
それが反映してしまったのか、相手の令嬢も笑顔になっていた。
そうして、和史は本当に、遥佳との見合いを準備することにした。
別に、そのまま付き合えば良かったのかもしれないのに、「お見合い」と言った遥佳が可笑しかったが、それは多分良い方法で、非常に合理的でもあった。
双方の両親は喜んで、話は円滑に進み、遥佳の卒業を待って、結婚式を挙げることなったのだった。
次回で最終話になります。




