第40話 芍薬の花とラブレター
そこは、かつて日本に存在した、最も美しく激動の「異世界」だった。
お茶の香りと、西洋の風と、十五年だけ存在した幻のホテル
びわ色の土塀が続く古い城下町。木立に囲まれた螺旋階段の洋館「メープルホテル」。
「兄の親友」へのひたむきな想いを抱えた少女時代。
凍る大地からの帰還兵を待っていたのは、戦後の光を放つ「メープルホテル」と、変わった故郷、そしてずっと変わらぬびわ色の道だった。
誰を愛し、誰と生き、誰を永遠の記憶に刻むのか。
翠が、その朝、さくら茶舗の店の扉を開けると、そこに水島和史が立っていた。
《水島さん……》
翠も、和史のことは、昔からよく知っている。
彼が姉の死を知って、訪ねてきてくれたのだと、すぐにわかった。
「碧伊の墓はどこですか?」
翠の顔を見るなり、水島は、彼にしては珍しく、静かな声ではあるけれど、唐突にそう尋ねた。
碧伊の夫は、元はこの町の出身なので、実家のお墓はこの近くにある。
「あの、瑞祥寺の霊園にあります。東側の、花壇の前、城島家の中にあります。いらっしゃれば、すぐにわかります。
建てた時、義兄さんは姉の希望する通りにしたんです。
近くに、桜やもみじが沢山あって、花壇もあるからでしょう」
「そうですか」
それから翠は、しみじみと言った。
「水島さん、子供の頃からずっと、姉がお世話になりました。
姉は、遠方に行きましたが、とても幸福そうでした。結婚した人も、とても良い人で。
病気が発覚して半年で亡くなったのですが、最後までとても綺麗で。
姉はみんなに感謝していました。」
「そうだったんですか…」
それから、翠は続けた。
「あの、水島さん、ちょっと待ってていただけますか」
翠は、急いで奥に行き、引き出しから小さな封筒を取り出して、玄関の和史のところまで戻って来た。
彼女は手にしている封筒を、和史に渡して言った。
「これは、姉から預っていました。
もし、和史君と二人だけで会うことがあったら、渡して、と言っていました。
そして、目を通したら処分してほしいと。言葉と同じだから消えて構わないと。
碧伊ちゃんも、和史君にずっと会いたかったと思います」
「ありがとう、翠ちゃん」
2人とも話しているうちに、昔の呼び名が出てきていた。
和史は、その封書を受け取り、碧伊の眠る墓所に向かった。
瑞祥寺はもみじや桜の名所としても知られている有名な寺で、門前町にあるお寺のひとつだった。
和史は、花屋で碧伊への花を買い、瑞祥寺の山門をくぐった。
瑞祥寺の山門からは、続く石段に沿ってもみじが続いて、樹々をわたる爽やかな風が吹いてくる。
翠が言ったように、霊園の東側には、桜の木々と花々を配した区画があり、その一番近くに、碧伊の眠る場所があった。
桜は、先月の初めには終わっている。
でも、その花の季節には、きっと美しかったはずだ。
満開の花びらは、眠っている碧伊の上にも舞い降りたことだろう。
「碧伊……」
屈んで、碧伊の墓前に花を手向けて、和史は手を合わせた。
その後の彼女の人生が幸福だったことを、良かったと思った。
碧伊の墓に、和史は、持ってきた芍薬の花を置いた。
「碧伊、久しぶりだな」
和史は語りかけた。
それから、翠から渡された封筒を開けた。
中には、懐かしい碧伊の字で書かれた手紙が入っていた。
『和史君 お久しぶりです。
あの頃、和史君が出征する前に、私たちが別れた日、私は、和史君に届けたい言葉がありました。
和史君、ずっと小さな時から、そばに居てくれて、どうもありがとう。
子供の頃から、私の家の事情は複雑で、辛かったこともあったけど、いつも
和史君に支えられていました。
子供の頃からずっとそばにいて、いつも隣で見守ってくれていたこと、どうもありがとうって心から言いたかったのに、あの時には、別れの挨拶みたいで、これから戦争に行くあなたには言えなかった。
和史君が大変な思いで帰還したとき、本当は、一番に「お帰りなさい」と言いたかったのに、私は結婚して遠方で、何もできなかったのでした。
でも今度は、私が旅立つ番になったので、今までありがとう、と感謝の言葉を言えます。
和史君に、再会した時、私は嬉しかったけれど、婚約したのを聞いて、良かったと祝福しながらも、戦争でも壊れなかった自分の魂が、半分失われてしまったようでした。
鈍くて独りよがりの私は、どこかでぼんやりと、いつかまた、和史君と図書館帰りのあの道を、色んな話をしながら、歩けると勝手に思っていたのです。
その時初めて、和史君が、どんな存在だったか、自分でもよくわかりました。
小さな頃から、そんな私の最高の友人で居てくれてありがとう。私にとって、かけがえのない時間と人生でした。
和史君もよく知ってるように、私は昔、色んな人からラブレターをもらっていましたね。
でも、本当は、あの頃、ラブレターを一番書かなくてはならないのは、私だったということに、あなたに再会した後で気が付きました。
私も一度だけ、ラブレターを書いてみたいと思いました。
これは、あの頃の私からの、私の人生で一つだけのラブレターです。
和史君、あなたが大好きでした。
私はあなたに何もできなかったけれど、あなたと、あなたのご家族が、この先もずっと幸せでありますように。
もし、生まれ変わったら、また一緒に居てね。』
手紙を読み終えて、和史は、言った。
「碧伊、ラブレターをありがとう」
和史はしばらく、その小さな便箋の文字を見つめていた。
それから、小さく畳んで、桜の下の花壇に埋めた。
* * *
あの時のことを、和史は思い出していた。
あのとき……
言えなかったのは、碧伊だけではなかった。
和史も言えなかったのだ。
思わず言いそうになった言葉を飲み込んだ。
「戦争が終わるまでだから、大丈夫。」
そう言った碧伊に
「うん、絶対戻って来る。碧伊、待ってて」
そう言いそうになったが止めた。
それは、またこうして、親しく過ごす日々に戻って来るから、待っていて、という意味ではあったものの、年頃の若い彼女にとっては、もっと別の意味になるかもしれない。
和史は、言いかけた言葉を止めた。
それは、彼女を繋ぎとめる言葉になるかもしれなかった。
そうすることを、望まなかった。
勿論、無事に何としてでも戻ってくるつもりだった。
しかし、自分でもどうなるかわからないのに、そんな少しでも、彼女を縛るようなことは、言ってはならない、と咄嗟に思った。
遠くの過酷な地で故郷のことを思い出す時、両親の他、色々な風景の中には、一緒に過ごしてきた碧伊がいた。
あの日、図書館に最後に行った帰り、別れを告げる碧伊の顔には、一筋の疑いもなく、自分が無事に戻って来ると確信している表情だった。
涙も不安もなく、彼女は言ってのけた。
「戦争は終わる。それまでのこと」
必ず、自分は大丈夫だ、と思ってはいたものの、明日どころか、半日後の生死もわからないような状況の中で、生き延びるのに精一杯だった。
しかも、抑留されていた自分達には、終戦も知らされなかった。
やっとシベリアから戻ったときには、もう身体がぼろぼろで、何も考えられなかった。
戻ってきて、すぐにしばらく入院し、療養した。
左手には障害が残ったが、元気になった。
左手が不自由になっていたら、本来ならば、仕事にも差し支えがあるのかもしれないが、もともと父親の経営する海産物の会社を引き継いでゆくことは、昔から決まっているので、それによるデメリットがないのは、恵まれた立場にいたと言えるだろう。
空襲の被害もなく、家も父の商会のある会社も無事だったのだ。
家に戻って初めて、自分が不在だった間の、この街の様子も聞いた。
そして、門前町の区画が、終戦後大火で焼けたと聞いたが、以前より、立派に生まれ変わっていた。
自分の帰還が遅れているうちに、戦後の世界は、既に大きく躍動しているのを感じた。
日常が戻ってきて、家族からの世間話の中で、碧伊がお嫁に行って、遠方に行ったことも聞いた。
その時には、それはそうだろうな、と思った。
ちょうど女性の結婚年齢と言われる頃、戦争が始まり、碧伊はすでに結婚していても良い年齢だ。
家で、親族知人などの様子とともに、近くに嫁いで住んでいる姉からも、碧伊が昨年くらいに結婚して、遠方に行ったこと、その前から知人のもとに身を寄せていたことも聞いた。
「碧伊ちゃんは、長男が戦地から戻ってきて、折り合いが良くないし、早く家を離れたかったみたい。親戚の人が言ってたわ。
初めてのお見合いで、碧伊ちゃんが自分に合う条件を選んで、すぐ決まったそうよ。相手の人は、とても立派で良い人みたいだし、あの碧伊ちゃんだったら、向こうもすぐOKよね。
実際に会って、綺麗でびっくりしてたって。
今は、遠方で暮らして、とても幸福みたいよ」
「それは良かった」
和史は本当にそう思った。
あの、外面の華やかさとは異なって、決して要領が良いとは言えない、人付き合いが苦手だった碧伊。
そして、彼女は実家に居辛く、自分の場所を必要としていることも、何となくわかっていた。
この何年間、生死を彷徨う淵にいた自分には、友人として何もできなかったのだ。
碧伊が幸せで暮らしていれば、十分だった。
もし、碧伊と自分が、あのままここに居たなら……
そう思うことはあった。
彼女が望むなら、自分は碧伊のそばに居ただろう。
碧伊が望むのだったら、自分はいつものように言うだけだ。
「うん、いいよ」
碧伊を支えることであれば、何でも自分はすることを、和史は知っていた。
でも今、碧伊は自分の居場所を見つけ、幸せそうだという。
遠くに嫁いだ碧伊には、特に自分が戻ったことを知らせる必要もない。
でも同郷なので、またいつか、会える日もあるだろう。
人生は、次に向けて動き出している。
あとは、遠くで幼馴染みの幸せを、願っていれば良いのだと思った。
「そう言えば、父さんと母さんが食事に行ったときに、結婚式前の碧伊ちゃんに偶然会ったんですって。
碧伊ちゃんは、その時、和史君は絶対に生きてて、無事に戻って来ると思っていると、言ってたそうよ」
あの日も、碧伊はそう言っていたな。
ずっと彼女は、そう思って変わらなかったのか。
和史は、生きて帰って来た。
そして碧伊は、すでに別の人生を歩んでいた。
せっかく死地を幸運にも脱出して生き延びたのだ。
自分は、その年月の遅れをとり戻すべく、次の人生を歩まなくてはと、和史は思った。
戦争が終わって、急速に社会が発展し始めているのが、こういう地方都市でも、目まぐるしいほど感じられる。
戦前からの従業員も、和史の就任にほっとして喜んでくれていた。
父に代わって継ぐべく、仕事に打ち込んだ。
父の代わりに仕事の担当をしたり、会合に参加しているうちに、和史の元へは縁談が集まって来るようになった。
「頼んでもいないのになあ」
まだ会社を手伝い始めて、仕事に没頭している和史にとって、ひたすら煩わしかった。
また、会社には、何人かの女性社員がいるのだけれど、その中で特に二人位の若い女の子が、和史が外出から戻ったとき、午前でも午後でも、せっせとお茶を淹れてくれる。そして何かと話しかけてくる。
穏やかにお礼を言っていると、ついに、和史のお弁当まで、時々作ってくるようになった。
「有難いけど、そこまで負担はかけられないから、弁当はもういいよ。どうもありがとう」
和史は、お礼にチョコレートの箱を渡しながら、断った。
「迷惑だったんでしょうか……」
彼女はしょんぼりして、席に戻って行った。




