第39話 幻のメープルホテルへ
遥佳が結婚して数年が経った頃、母がふとした調子で言った。
「来年いっぱいで、メープルホテルを閉館することにしたわ」
「え……?」
思わず声が漏れた。
弟と顔を見合わせる。
その場の空気が、一瞬だけ静まり返った。
けれど母は、ホテルを始めた時と同じように、どこか淡々とした様子だ。
父だけは、すでにその話を聞いていたらしく、静かに頷いている。
すでに、遥佳は結婚して、弟も教育を終えた。
母はほっとして、自分の役目を終えたと思っているのだと、遥佳は思った。
遥佳は、母の顔を見つめながら言った。
「お母さん、本当にすごいことをやり遂げたんだなって思う。今でも……すごいと思う」
母は少しだけ笑った。
「そう? あの頃は、みんな生きるのに必死だったし、何もなかったからね。ただ、この建物で、暖かい料理を出して、泊まっていただければ、それでいいって思っていただけよ」
「あんなにたくさんの方が来てくださって、料理人まで雇うことになるなんて、思ってもいなかったわ」
その言葉を聞きながら、遥佳も思う。
本当に、そうだったのだろう。
母には、もともとホテルをやりたいという夢があったわけではない。
ただ、あの時代に、あの場所で、戦争で家族を失った女性たちと共に生きるために、必要だった。
本来なら、母の人生は、静かに家庭の中で過ぎていくはずだったのかもしれない。
けれどその人生の中に、思いがけず現れたのが、このメープルホテルだった。
その後、メープルホテルは大きな企業が買い上げてくれた。
建物はそのまま残され、特別なゲストハウスや保養所として使われるという。
従業員も家具も、そのまま引き継がれることになった。
一般には開館されないので、惜しむ声は多かった。
けれど、世の中はすでに大きく変わり始めている。
母は、何もない荒廃の時代にいち早くホテルを始め、評判を呼んだ。
だが同時に、それが「素人の手によるもの」であることも、誰より理解していたのだろう。
これからは、大きな資本の時代になる。
その流れを見極め、引き際を決める——
母はそういう人だった。
戦時中、この洋館は木立に囲まれ、ひっそりと息を潜めるように佇んでいた。
それが戦後、母の決断によって、華やかな場所へと変わった。
笑い声、音楽、人の往来。
ここには、数えきれないほどの出会いがあった。
遥佳は、四歳になる息子が螺旋階段を上り下りしているのを眺めていた。
彼は、この洋館のことをどの位覚えているだろうか、と思った。
小さな足音が、軽やかに響く。
――自分も、ここを何度も駆け上がり、駆け下りた。
その記憶が、ふと胸に蘇る。
この階段を、どれほど多くの人が行き交っただろう。
有名な歌劇団の人たちも、この場所を訪れた。
そして――
夫となった水島和史と出会ったのも、ここだった。
もし、母がホテルを始めていなければ。
もし、自分が手伝っていなければ。
両親同士が知り合いだったとしても、水島と直接出会うことはなかったかもしれない。
そう思うと、遥佳は、この場所で生まれたすべての縁に、静かに感謝したくなるのだった。
やがて時が流れ、メープルホテルを知る人は少なくなっていくだろう。
残された写真も、多くはない。
このホテルの歴史は、わずか十五年だった。
閉館までの一年間、変わらず人々を迎え続けた。
催しも、これまでと同じように開かれていった。
ある日、遥佳の女学校時代の同窓生による音楽会が開かれることになった。
卒業生のバイオリニストが演奏し、音楽部の仲間たちが合唱をする。
「あなたも何かやってもらうからね」
幹事の友人にそう言われ、遥佳は少し戸惑いながらも引き受けた。
これまでは裏方として会場の準備や進行を手伝ってきた。
だが、自分が演奏する側に立つのは初めてだった。
――この場所で、最後になるかもしれない。
そう思うと、不思議と迷いはなかった。
遥佳は、合唱のピアノ伴奏を引き受けた。
当日、水島は子供たちを連れて会場に来ていた。
端の席で、小さな子を膝に乗せ、もう一人を隣に座らせている。
演奏が始まると、二歳の娘が小さな声で言った。
「ママ、ピアノ弾いてる」
水島は、微笑みながら頷いた。
演奏と合唱が終わり、最後の曲の前に朗読が行われた。
ミッション系の学校らしく、聖書の一節を、司会の友人が読む。
「コリント人への手紙」からの抜粋だった。
コリントス…今もあるギリシャの古代国家だった都市、その人々に送った言葉。
……この洋館の円柱も、古代の建築様式から来ているらしい。
大学の図書室で見た建築様式の本に、コリント式とかドーリア式といったコラム(円柱)の絵があった。
メープルホテルのコラムは、コリント様式と言われるような装飾はなく、もっとあっさりとしたドーリア様式というのに、似ていると遥佳は思う。
いずれにしろ、かつて繁栄した遠い異国の都市の名が、こうして形を変えて残っている。
そんなことを思っていたら……朗読が始まった。
「たとえ私が、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても――」
静かな声が、会場に広がっていく。
やがて、その言葉は、まっすぐに胸に届いた。
「……愛は寛容であり、愛は情深い。また、妬むことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。
不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
愛はいつまでも絶えることがない。
このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。
そのうちで最も大いなるものは、愛である……」
水島は、そろそろ飽きてきた子供たちを気遣いながら、半ば何気なくその言葉を聞いていた。
聖書にはこれまで縁がなかった。
だが、その一節だけは、不思議と心に残った。




