第34話 海岸の道
遥佳は今日、美夜と一緒に、海岸通りを走る一両編成の赤い路面電車に乗って、土塀の町まで来ていた。
電車の窓からは、夏の青い海と、航路を通る船が見えた。
赤い路面電車が走っているこの海岸通りの道は、明治の頃には、馬や馬車が往来していて、土塀の町に居を構えていた異国の領事さんも、馬車でこの海岸通りの道を通っていたという。
少し入り江になっている辺りには、小さな海水浴場があり、海の家や《涼》と描かれたレストランがある。
「あっ、水着を着た人達が沢山。楽しそうだね」
遥佳が美夜に言った。
小さなボートも浜辺に並んでいる。
少し離れたところには、《きっぷうりば》という看板が見えて、小さな渡船の待合室がある。
ここから、近くの港に行く渡船が出ている。
海の方へ、とても長くて細い、木の桟橋が続いている。
桟橋の上を歩く人々は、まるで海の上を歩いているように見えた。
青い海と輝く空、緑の山々、海岸線を続く道と赤い路面電車……
《絵本の中のような景色》
遥佳は、この路線にこれまで来ていなかったので、改めてそう思う。
それから電車は、 門前町に着き、二人は降りた。
「じゃあ、明日ね」
と言って、美夜とは門前町で別れ、遥佳は土塀に囲まれた屋敷町の方へ進む。
遥佳は、今日は婚約した和史の実家である、水島家に来ている。
水島家は、もみじや土塀が続く美しい通りの一角にある、立派な屋敷だった。
和史の実家で落ち合い、二人で、夏祭りに出かける約束をしていたのだ。
遥佳の育った家も、メープルホテルも、この城下町とは少し離れているので、遥佳自身は、この夏祭りには、あまり来たことがなかった。
地元の門前町に住む美夜によると、とても人出が多いそうだ。
季節は暑さが増してきて、ふたたび、夏祭りの日々が始まっている。
あの戦争を通り抜けた境内に、今夜も沢山の人々が集まっていた。
和史が前回この夏まつりに来たのは、召集以前のことになる。
近くに住んではいるが、夏まつりに行く用事もなかった。
久しぶりに神社の境内の訪れた和史の隣には、浴衣を着た遥佳がいる。
遥佳は、紺地の浴衣に赤い帯を締めて、巾着を持っている。
赤い帯を締めた彼女は、とても可愛らしい。
メープルホテルでそうしているように、ポニーテールをアレンジした髪にしている。
彼女は、人の多さに驚いているようだ。
近くに住む和史の姉も、子供達を連れて来ていて、近くを賑やかに歩いている。
まず最初に、神社の前でお賽銭を入れてお参りをした。
「遥佳は、金魚掬いとかしたいんじゃない?」
和史が笑って言った。
「すごい人ね。いつもこんなに、人が多いの?」
「うん、多いね、昔から」
二人が人ごみの中を歩いていると、
「水島くん。今晩は」
と、何人もの知り合いが声をかけてくる。
学校時代の級友のようだ。
地元なので、知り合いも多いだろう。
「今日はまた、可愛い人と一緒だね」
彼の友人らしき男性が二人、親しそうに話しかけてきた。
遥佳にも、ニコニコ挨拶をする。
「婚約者の遥佳」
和史が紹介した。
「それは、おめでとう」
彼らは朗らかに言った。
「今晩は。初めまして」
と、遥佳はにっこり笑って、明るく挨拶をした。
友人達は感心したように、遥佳を見ていた。
別れたあと、後ろから、通り過ぎてゆく彼らの話し声が聞こえてくる。
「やっぱ水島くん、モテるよね」
「戦地から戻って来てすぐ、今度は、あんなに、若くて可愛い婚約者って」
「すごく感じのいいお嬢さんだね」
「そうそう。昔、あの麗しい彼女も、いつも水島君とだけ来てたもんね。俺たちも誘ってたのになあ」
「何人も誘ったけどみんな、駄目だったよなあ」
笑い声が聞こえた。
多分、人混みで、太鼓の音は響いているし、彼らに悪気はなく、普通に話しても聞こえないと思ったのだろう。
多分、和史にも聞こえていたはずだ。
「和史さん、モテてたのね」
遥佳は和史に言った。
「全くそんなことないよ」
「あの、彼女って?」
「彼女じゃないよ。幼馴染みの友人で、人見知りする人でね。断る口実に、僕は協力してたのかな。まあ、虫除け役だったというところか」
「その人は、どこに?」
「僕が復員して戻ってきた時には、もう嫁いで遠くに行ってたよ」
和史は、微笑んで言った。
そして、遥佳の手を握って、混雑する人々の中を歩いた。
周りには、家族連れのほか、カップルも沢山いる。
彼らも、その時一緒に来ただけかもしれないし、皆デートくらいするものだ。
その日、遥佳は、和史の実家である水島家に泊まった。
夕食後、水島夫人が、西瓜をお皿に入れて出してくれた。
それから、家族アルバムを持ってきて、遥佳に見せてれる。
水島夫人は、家族アルバムの中で、和史の従兄弟や、祖父母などを、教えてくれた。
周りでは、皆が麦酒を飲んだり、寛いで話をしている。
遥佳は一人でページをめくっていた。
そこには、子供の頃の和史や、姉、両親達との写真などが色々ある。
そして、4〜5歳と思われる頃から、和史の近くには、天使のようなきれいな顔の女の子が、よく写っている。
水島家の庭の池のそばでも家族と写っているし、学校の遠足の朝なのか、水筒を肩からかけた二人が、門の前で並んで写っている。
その後、11〜12歳頃になると、すらりとした美少女が、和史や姉と一緒に写っているようになった。
翌日、遥佳は夏休みのため、大学が休みだったが、和史は仕事があるので、会社に行った。
水島家の玄関で、
「行ってらっしゃい」
と、にっこりして手を振る遥佳の髪を撫でて、
「行ってきます」
と微笑んで、和史は出かけて行った。
遥佳は、今日は、同じ門前町に住む、友人の美夜に会って帰る予定にしている。
さくら茶舗を訪ねると、店頭のコーナーで、美味しいお茶と和菓子を出してくれた。
それから、美夜と一緒に映画を見に行った。
戦後は、門前町の街角に、映画館が新しく出来て、いつも二本立てで、映画を上映している。
割と立派な映画館で、沢山の人がいた。
2本とも見たので、随分時間が経っている。
そのあと二人で門前町を歩いて、美夜のおすすめで、近くの喫茶店に入った。
二人でクリームあんみつを注文した。
「美夜ちゃんの家の、お茶のお店もいい香りがして、落ち着いて立派だったけど、門前町っていい感じ」
遥佳は、感心したように言った。そして、
「映画面白かったね。そして、綺麗だったね、あの女優さん」
と言った。
「うん、すごく素敵だった」
美夜も言う。
「昨日は、夏祭りに行ったの。和史さんの家族と一緒に」
「楽しかった?」
「賑やかで、沢山人が居てびっくりした」
「いつもよ」
遥佳は、美夜に話し始めた。
「それでね、和史さんの友達にも会ったの。そしたら、その人たちが、和史さんが女の人と、昔、お祭りに来てたことを話していた。その人は、みんながよく知ってる、人気のある人らしくて」
《碧伊さんのことだな》
と、地元の美夜にはすぐわかる。
兄と隼人と3人で夏祭りに行ったときにも、群衆の中で、際立つ和史と碧伊の姿を見かけたものだった。みんなの注目を集めていた。
遥佳は、首を傾けながら言った。
「和史さんに尋ねたら、幼馴染みだって」
「うん」
「わたし、碧伊さんだろうと思うの」
「ええと」
美夜は、何と言えば良いのかと思った。
遥佳は、地域が違うので知らないかもしれないが、この門前町近辺では、碧伊さんは有名だった。いずれ、水島和史と仲が良かったことは、伝わるだろう。
「碧伊さんにホテルで会った時、和史さんもちょうど居て、二人が同級生だと教えられたの。碧伊さんは、和史さんが復員したことを知らなかったみたいで、とても驚いてた。
そして、昨日昔の写真をお義母さんから見せていただいてたら、すごく綺麗な顔立ちの女の子が、和史さんと子供の頃からよく一緒に写ってて、ああこれは、碧伊さんだな、と思ったの」
「碧伊さんは、この辺では有名だったし、男の子はみんな好きで、うちの兄さんも碧伊さんに憧れてたよ」
美夜は言った。
「碧伊さんを、誘ってる人も沢山いたし、そんな中で水島さんは、特定の恋人とかではなくて、とても仲の良い子供の時からの友達という感じだったよ。
遥佳ちゃんは婚約者なんだから」
「やっぱり……碧伊さんとは、とても仲良しだったのね。子供の頃から。
あんなに綺麗な人と。私は違いすぎてどうしよう」
遥佳は、アイスクリームをスプーンで口に運びながら言った。少し落ち込んでいる。
もちろん、遥佳のことも、周囲は《可愛いお嬢さん》と言ってくれる。でもそれは、若い娘に対する世間の一般的な賛辞であり、それ以上でも以下でもないことくらい、分かっている。
遥佳は、最近読んだ《レベッカ》という、翻訳小説を思い出していた。
お金持ちの婦人の付き人をしている平凡な娘が、貴族の男性に身染められて後妻になった。が、彼には少し前に、海難事故で亡くなったレベッカという美貌の前妻がいた。
マンダレイという、壮麗な屋敷で暮らすことになるが、そこには、美しかった前妻レベッカのゴージャスな部屋やドレス、繊細なヒールの靴がそのまま残され、未だにレベッカに忠誠を誓う召使がいる。
屋敷に訪れた夫の親戚にも
「あなたがレベッカと、あまりにも違うから驚いた」
といったことを言われる。
彼女は、自分とはあまりに違う、華やかで美貌のレベッカの幻影に自信を失い、一人で悶々と悩むことになる。
貴族の夫が、何を考えているのかは、最後にわかるようになっているのだけれど、それまでは劣等感と、自信のなさから、夫に対しても不信感で悩まされる。その娘の気持ちが、遥佳は、何となく自分と重なってよくわかる。
美夜の方は、メープルホテルの催しで、遥佳から婚約者として、水島和史に紹介された時のことを思い出していた。
《え?水島さんと……?》
幸せそうな遥佳に水島和史を紹介されたとき、美夜は驚いた。
水島和史は、昔から美夜達の界隈で、あの碧伊さんの仲良しとして、有名だった。
美夜は話をしたことはなかったが。
また、水島が昔と違って、大人の感じになっていて驚いた。
こんな偶然になるとは、思ってもいなかった。
「美夜ちゃんの家は、さくら茶舗っていうお茶のお店をしているの」
遥佳がそう言うと、和史が
「ああ知ってる。門前町のね」
と、にっこりして言った。
「ええと、佐倉 陸くんの妹さん?」
あの頃、有名だった碧伊さんと水島さん。
碧伊さんは、すでにお嫁に行き、和史さんが、遥佳と婚約することになるとは。
時が流れて、変わってゆくんだなあ、と美夜は思った。
思いがけない組み合わせだったが、可愛い遥佳と、すっかり大人の男性といった感じで、でも優しい微笑で遥佳を見ている水島さんに、二人は、とても幸せそうで、お似合いだと思ったのは事実だった。
「美夜ちゃんも結婚式に来てね」
と、その時、遥佳は言っていた。
美夜は言った。
「遥佳ちゃんと水島さんは、とてもお似合いで、素敵だと思う」




