第33話 びわ色の記憶
そこは、かつて日本に存在した、最も美しく激動の「異世界」だった。
お茶の香りと、西洋の風と、十五年だけ存在した幻のホテル
びわ色の土塀が続く古い城下町。木立に囲まれた螺旋階段の洋館「メープルホテル」。
「兄の親友」へのひたむきな想いを抱えた少女時代。
凍る大地からの帰還兵を待っていたのは、戦後の光を放つ「メープルホテル」と、変わった故郷、そしてずっと変わらぬびわ色の道だった。
誰を愛し、誰と生き、誰を永遠の記憶に刻むのか。
タクシーが、緩やかに速度を落とす。
見慣れた土塀が、視界に入ってくる。
「ああ、この辺りで結構です」
碧伊は料金を払い、車を降りた。
そこは、土塀の町の図書館の前だった。
ここに来るのは久しぶりだ。
憶えのある空気が流れる。
土塀を這う蔦の葉も、色付いている。
碧伊は、この場所へ来なければならないと思った。
土塀に囲まれた中に建つこじんまりとした建物。
見慣れた木々のある道側の佇まい。
それは……
和史と過ごした、あの頃の時間が、確かに残っている場所だった。
車で来る途中も、さっきの光景が、何度も胸の中で繰り返されていた。
赤く染まった紅葉の庭。
突然の再会。
そして――寄り添う婚約者の二人。
黄土色の煉瓦と木造の棟で造られた図書館は、戦争の被害も受けず、あの頃と同じように、碧伊の前に建っている。
その周りでは、銀杏やもみじなどの樹々が、黄金色や朱色の彩りを添えている。
入り口に向かう足元で、落ち葉がかすかに音を立てる。
入り口まで歩く、その足元の感触も懐かしかった。
図書館は開いている様子なので、昔と同じように、木製の扉を開ける。
ぎいっと音のする木の扉をあけて中に入る。
以前と何も変わっていない。
ここでは時が止まっているようだ。
靴音のする木の廊下を歩いて、事務室の方を見た。
受付に、見覚えのある年配の司書が座っていた。
顔を上げ、碧伊を見ると、目を細めた。
「……碧伊さん?」
「お久しぶりです」
その一言で、時間が一気に巻き戻る。
「まあ……大きくなられて」
思わず、碧伊は微笑した。
「もう、とっくに大人です」
「そうでしたねえ……あの頃は、よく二人で来ていましたね」
司書は、懐かしそうに言った。
その言葉に、碧伊の胸がわずかに揺れる。
「ええ」
自然に頷いた。
図書の閲覧室に入った。
当時と同じ、空気と匂い。
机や椅子の配置も、あの頃と同じに置かれていた。
いつも座っていた席も、変わらずそこにあった。
光が差し込み、木の机をやさしく照らしている。
碧伊は、ゆっくりと腰を下ろした。
目を閉じる。
あの頃の自分が思い出される。
碧伊は、和史が出征した後も、しばらくの間、ひとりでここに来ていた。
閲覧室の机に座り、和史から話を聞いていたものの、まだ読んでいなかった本を読んだ。
隣の席に和史はいないが、それでも不思議と、そこに居ると幼馴染みの気配を感じていた。
《和史君は、今入隊した頃かな、どこにいるのだろう》
と思った。
先に、入隊した人々が、家族へ手紙を出しているので、色々な状況を人伝に聞いていたから、何となく予想できた。
《いつか和史君が帰還したら、また、ここできっと、本を読みながら、沢山話が聞けるだろう》
碧伊はそういうふうに信じていた。
しかし戦争中は、奉仕活動がますます多くなり、図書館への足が遠のいた。
終戦になったとき、図書館の建物は、しばらく進駐軍の管理下に置かれ、利用できなかった。
その後碧伊も、結婚の準備のために家を離れて、そのまま現在まで遠方に居たので、今日のこの日まで全く訪れていない。
立ち上がって、本の背表紙に触れながら、書架に沿って歩いた。
かつて読んだ本を指先で探す。
憶えていた本を手に取った。
ぱらぱらと頁をめくると、懐かしい文字が目に入ってくる。
巻末の裏表紙の内側にポケットがある。
そこに図書の貸出しカードが入っている。
この小さな図書館では、そんなに沢山の貸し出しはない。
貸し出しカードを抜いて見てみると、和史の名前と、そのあとに自分の旧姓を見つけた。借りた日付もある。
お互いに相手の薦める本を、後から借りていたので、二人の名前は、本によって後先が、前後している。
大抵同じ本の貸し出しカードに、二人の名前が載っている。
二人のささやかな記録だ。
この図書館に来ていた頃、多分和史の一番は、碧伊であり、碧伊の一番は和史だった。
何でも話せて、全てを受け止めてくれていた。
和史は、暖かな陽射しや爽やかな風と似ていた。
いつも、そこに居てくれた。
姉弟でも、兄妹でも、親友でも、幼馴染でも、いとこでも何でも良かった。
共に空間と時間を分かち合うことができれば。
あの頃は、まだ学生で、生きて戻ることに精一杯だったから、結婚の話など、和史との間で話題にもならなかった。
もし、碧伊が兄との関係で早く家を出たいという思いがなくて、妹の翠のように、和史がシベリアから戻って来た時、まだ結婚していなかったら……。
きっと、和史は戻ったらすぐに、碧伊に知らせに来ていただろう。
そして沢山のことを語り合っていたと思う。
さっきも、ひとこと言葉を交わすと、何年もの時を経たのに、まるで昨日まで会っていたかのように、空気はすぐにふたりの間で溶け出した。
きっと、和史も同じように気付いたはずだ。
彼がもはや少年の面影のある青年ではなく、大人の男性になっていたけれど、再会した二人の空間は変わらなかった。
そして、二人がもし結婚するとしたら、それはとても自然な成り行きだったことだろう。
「和史君、私、お見合いの話が来てるんだけど、困ってるの」
「どうして?」
「気が進まない方たちなの。でも、結婚して早く家を出たいの」
「だったら、僕と結婚する?」
「そうね、そうする」
いつものように、にっこり微笑んでいる姿が目に浮かぶ。
そして、仲の良い夫婦になったことだろう。
二人の時間と空間を共に共有し続けていたことだろう。
《ああ、そうね、そういうことだったのか》
と、碧伊は思う。
ただ、隣に並んで歩くだけでよかったけれど。
ずっと、空間を分かち合うために、結婚は、それを続けてゆくひとつの形だったのかもしれない。
閲覧室を出て、中庭の方に行く。
今日は陽光が降り注いでいて、回廊に置かれているベンチに座る。
実際は、和史から帰還したとの連絡はなかった。
碧伊は彼が戻って来たのも知らなかった。
碧伊が結婚して遠くに住んでることが、伝わっていたのだろう。
だから、特に知らせなかったのだ。
もう和史と、このびわ色の道を、以前のように肩を並べて二人で歩いたり、色んな話を、この図書館で語り合うこともないのだと、碧伊は思った。
偶然にも、知り合いの女の子が婚約者になっていた。
遥佳は、明朗で、礼儀正しく、碧伊も彼女に好意を持っている。
彼女が、和史のことを心から慕っているのもよくわかった。
きっと和史は彼女が伴侶なら、幸せになると思う。
そして、誠実な和史君は、遥佳さんを愛し、良い夫になるだろう。
碧伊は、妹の翠が言っていたことが、今になってわかる。
翠は、女学校の親友が、突然婚約していて、結婚間近の時、泣いていたことがあった。
「お姉ちゃん聞いて。凛子は、婚約して、さ来月結婚するんだって。
私全然、知らなかった」
妹が、失望落胆している。
「これまで、ずっと一緒に何でも話してきたのに。
あっという間に、知らない人が出て来て、凛子ちゃんの一番になった」
親友が、見合い結婚によって遠い存在になった。お互いに結婚したり、家庭に入ったりすることはわかっているのに。
ある日突然、そんな時が訪れる。
わかっていても、一番の存在から転落するのは、やっぱり淋しいという、困った感情だ。
あの大きな戦争でさえ、壊すことはできなかった幼馴染との繋がりが、婚約者の出現で、あっさりと終わってしまう。
和史が無事生還して、再会できた日なのに。
幼馴染みを失ったのは、出征の時ではなく、今日だったのだと、碧伊にはわかった。
そしてそれは、今更ながら、魂の一部が失われたようにな衝撃でもあった。
あの、少し童顔でもあった和史が、何年か後に、ああいう大人の男性になるなんて知らなかった。
和史には、あの頃とは、全く違う大人の男の魅力があった。
でも、その鋭角になった顔の線や眼差しによって、彼が死線や極限状態を経て大変な思いをしてきたということが、昔の和史を知っている碧伊には分かる。
でも、あの別れの時も、碧伊は何もできなかったし、和史がやっと帰還したときも、迎えることすらできなかった。
そして、今の自分にできることも、もう何もないのだと思う。
遥佳から茶道の後輩達とともに、結婚のお祝いを、贈られている。
今度は、彼女と和史君へ、心を込めてお祝いの品を贈ろう。
翠にも相談して。
今の碧伊にできるのは、そうしたささやかなことだけだった。
図書館を出て、小径の方へ歩いた。
そこには、二人の通学路だった、びわ色の道が、今日も静かに続いている。
静謐な止まった時間の中に足を踏み入れると、向こうに、あの頃の和史と自分が歩いていて、あの頃の自分達の会話や笑い声が、練塀の粒子の中に残っているような気がした。
《じゃあ、またね》
と、言って別れた友人同志。
切ない胸の痛みを、碧伊は、ここに残して立ち去らなくてはならなかった。
碧伊の夫となった人は、良識があって良い人だった。
結婚生活は、順風満帆で、不満もない。
そこが、碧伊の安心で心地よい居場所だ。
あとは、碧伊がこの懐かしい思い出に、終わりを告げるだけだった。
でもいつか、碧伊には、さよならの代わりに、和史へ伝えておきたい言葉があったが、今は胸の中に仕舞い込む。
《さあ、戻ろう。自分の場所へ》
門前町の通りへ向かい、碧伊はタクシーを拾った。
夫は郷里は同じだが、次男で、仕事の関係で遠方に住む。
長男の嫁だからとか、親戚や人間関係が煩わしかった碧伊には、有り難かった。
碧伊は、自分のやり方で家事を行い、一人の時間は、専門の洋裁で自分の洋服を縫ったり、読書をしたり、洋裁の材料を探す傍ら、未知の都会を散策したりすることができた。
夫とは、結婚を目的に知り合い一緒になった。
有能で前向きな人で、碧伊に真摯に向き合ってくれる。
自分に、居場所を与えてくれた。
何の不満もない。
心地よい人生を与えてくれる夫には、感謝と愛情を返すに足る存在だと思っていた。
でももし、いとこ同志だったり、幼馴染だったり、あるいは兄妹だったりしたとして、あれほど多くの時間と空間を分かち合う間柄ではなかっただろう。
駅に着くと、碧伊は公衆電話を見つけて、ハンドバッグから小銭入れを取り出した。
汽車の便を遅くしたので、到着が予定より遅くなることを伝えるために、夫に電話をかけた。




